2017年6月アーカイブ

少しだけ関連するが、まったく違う話題から入る。

ヤマト運輸はすごい。「宅急便の値上げ」をするために、「ドライバーの長時間労働」という、現代最大のトピックスの1つである「働き方改革」にかこつけた同情作戦から入り、「値上げやむなし」と世論を味方につけた。以前、メール便を廃止した時も、「信書は郵便で」という総務省とのたたかいを演じて、「廃止やむなし」と、こちらも世論を味方につけた。本質的にはサービス低下なのだが、世論を味方につけるのがうまい。こういう企業戦略は、お見事というほかない。

メール便廃止にしろ、今回のAmazon再配達騒動にしろ、自分で売り上げ拡大のために「超小口」を狙ってインフラ的にシェアを拡大しておきながら(要は「ないと困るレベル」にまで浸透させておきながら)、その利益が思うようにでないとなると、何らかの正当な理由をつけて一気にサービスを縮小する・・というパターンである。ここに「民間」のパワーと同時に<限界点>を見出せるとともに、<ビジネスの拡大と手仕舞いの方法>という観点から見ても、今回の話は非常に興味深いのであった。

さて。ここからが本題。上にも少し出てきたが、ここからのお題は「働き方改革」である。

前回書いた通り、少し前の日本の成功モデルは「男が長時間労働し、女が長時間のケアワークで支える」という男女分業型モデルであった。これを時代の要請から「男女雇用機会均等法」で<制度的に>変化させていったものの、これがあくまで<制度的>であったがゆえに、結局、現役世代の総労働時間(男性単体ではなく、男女全体の)が長時間固定のままで是正されない(むしろ増大している)で推移した。これが現代社会の抱える「少子化・高齢化・人口減少・将来不安・消えない不況感」を産出している元凶である。

社会の「男女分業」という文化がある程度固定されたまま雇用機会だけが制度的に均等化されたため、女性の社会進出に伴い、在来の男性の長時間労働に加え、女性の長時間労働までもが創出され、ここに、家庭に温存されていたケアワークが輻輳的に重なり合ってしまった(本来は男女雇用機会均等に加えて、ケアワークのアウトソーシングを同時に推進すべきだったのだ!)。ああ、なんということだ。

この不幸なめぐりあわせによって、現役世代はますます締め上げられることになった。世代論でいえば、有閑裕福な団塊世代(逃げ切り世代)と、貧乏暇なしの現役世代(逃げ切れなかった世代)の対峙。シルバー民主主義ともいえる状況にある。現役世代は、少なくとも現在の団塊世代ほどの老後は送れないだろうという見込みが立っているからこそ(つまり未来への幸福感よりも不幸感が強いからこそ)、消費もしなくなる。かくて半永久的に「不景気感」が続く。もともと社会の<余裕>が失われてきたところに、これでは社会の<期待感>は根こそぎ奪われる。結果として加速度的な少子化(≒人口減少)に歯止めがかからない・・というのが、今の社会の閉塞感の正体であろう。

では、どうするか。
検討のため、以下に日本と米国型、北欧型の「労働とケアワーク」の概念図をまとめてみた。

連番 カテゴリ 日本 米国型 北欧型
法・社会制度 機会均等
(会社所属)
待遇平等
(ジョブ所属)
待遇平等
(ジョブ所属)
社会保障 育休金銭公的保証あり 育休金銭公的保証なし 育休金銭公的保証あり
ケアワークの担い手 私的セクター中心
(家族)
私的セクター中心
(移民)
公的セクター中心
(ケア公務員女性)
雇用制度 会社主義
(雇用維持型)
個人主義
(雇用流動型)
ワークシェア主義
(雇用分担型)
労働時間 事実上、上限なし
(会社裁量)
ジョブにより異なる
(ジョブ裁量)
公的な上限あり
(総労働時間、労働間時間ともに)
国民負担 中福祉・中負担 低福祉・低負担 高福祉・高負担

社会のひずみが起こり、いろいろとおかしなことが起こっているのが今の社会。とすると、どこを直したらよいのか。これが今回の議論の根本である。

まず(1)法制度・社会制度と(2)社会保障についてみてみたい。
日本は、「社会制度」としては、男女雇用機会がかなり均等に保障された国の1つであると言える。育休の金銭公的保証も担保されており、繰り返すが「制度としては」殊更に問題があるわけでは実はないのだ。ここは「直す」という性質のものではない。

余談;

日本は「会社所属主義社会」なので、よく言われる「同一労働(ジョブ)同一賃金」の実現は相当にハードルが高いものといえる。現在の延長線から、そもそもの「同じジョブ」の定義が、まず確実にできないからである。文化的に見ても、日本人を「ジョブ所属型」に変えるのは相当に難しいといえる。「御恩と奉公」の封建社会が日本社会の根底にはあり、これをたかだか数百年で変えられるのかというと・・・たぶん、無理である。そもそも、変えたところで少子化が止まるのかというと疑問でもある。

ついでに言えば、会社主義の社会において最低賃金「だけ」を上げ続けるとそれに見合う人材をまず中小企業が採用できなくなる深刻な人材難型の不況が訪れ、確実に経済が破綻する。最低賃金「だけ」が上昇すると、大企業は増長し、中小企業はどんどん没落していく。日本はジョブ型社会ではない、すなわち雇用がジョブによって流動化されていないというところは確実に押さえておくべきだ。金を出せるところに人が流れるのは自明の理。そもそも、すでに日本経済は社会全体で賃金を上げ続けるだけの余力は失っている。人口が減っているのだから当たり前である。

余談が過ぎた。では、(3)ケアワークの担い手についてはどうか。米国型の「移民」は、少なくとも現時点での日本にはなじまない。北欧型の、「公務員の女性が担う」(Aさん家のケアをBさんが、Bさん家のケアをAさんが・・すなわち、ハウスワークやキッズケア等を「公務化=公的に換金」することで、社会全体でワークをシェアしているということになる)ほうがなじむと思う。が、財政的な余裕は日本にはなく、結局は「家族」が負担するしかないというのが現状である。

核家族社会だというのに、長時間労働に加えてハウスワークもキッズケアも、介護も「家族がすべてやれ」という今の社会の要請が、実は少子化の最大要因ではないかと思うのだが、現状、保育園待機児童、介護のブラック労働に代表されるようにこれを有効にアウトソースできている状況にはあるとは到底言えない。

この分野の解決策としては、日本においてはおそらく有閑層(要は高齢者)と女性の活用、ということになるのだろうが、そもそもここへの財源が不足しているというのがジレンマ。本来は「ケアワークのアウトソーシングを公的にケアすること」が少子化対策の切り札になり得るのだから、ここは政策的な優先課題として注力していくしかない。

文化的な障壁として、「ウチのことをソトの者にやらせるとはけしからん」という勢力がたくさんいるというのも問題である。前回書いた「機械化」ですら、使用する側に心理的抵抗があるのだ。況や「人」においてをや。

余談;

バリキャリで、子育てもがんばって・・という女性の生活を紐解いていくと、実は実父母ないし義父母の協力を得やすい環境にある、というケースは意外とある。要するに、「ケアワークは私的セクター中心」ということをバリキャリの女性自身が証明しているのである。というか、そうでないと、少なくとも日本社会において「仕事も、家庭も、子育ても」は難しい。

そこで政策的に「大家族での相互扶助推進」という考え方を採ることは、日本では有効であろうと思う。結婚の際に両親(義理を含む)と同居ないし近居する場合、税制面で優遇処置をとるなどである。「家族の扶養範囲の実質的拡大」という意味では前近代的だが、ある意味では「超」近代的制度ともとれる。前近代を「集合」の時代、近代を「個」の時代とすると、超近代は「つながり」の時代なのかもしれない。

URは、すでに「近居割」なる制度をスタートしている(最大で5年間で2割くらい家賃が下がる制度)。これがより公的セクターに浸透していく「可能性」を感じるところである。

また余談が過ぎた。(4)雇用制度についてはどうだろうか。

日本が雇用維持型の会社主義であることは論を俟たない。ジョブ型社会ではない以上、制度的に雇用を流動化すると、これまでに見なかったような社会不安を巻き起こす危険性が高い。ジョブ型社会ならば、「A社のエンジニア」は「B社のエンジニア」であり得るが、日本の場合は「A社のエンジニア」は、「B社では営業」にもなり得るからだ。「自分がどんなジョブをしているのか」を明確にできない仕組みで雇用が成立しているので、いきなりアメリカ型の雇用流動社会を目指すと、ギリギリで維持されてきた社会の紐帯を、今度は本当に喪失してしまうことになると思われる(結果主義の中途半端な導入が、従業員と会社の紐帯をボロボロにしてしまったことは記憶に新しいだろう)。繰り返すが、いきなりドラスティックな雇用規制改革を推進すると、徹底的に社会を壊すことになる。

とはいえどんどんパイが少なくなる社会。方向性としては「ワークシェア」に向かうのが、社会の「つながり」を維持するための生命線になるのかと思う。

イメージとしては、「様々な働き方をする従業員」をMIXさせていくこと。例えば同じ職掌でも、以下のように多様な働き方ができるようにするのである。これは公的セクターのほうがスタートしやすいかもしれないが、民間でもどんどんベストプラクティスを発信していきたい案件である。

  労働時間 労働日数 転勤
タイプA フルタイム 5日 転居あり
タイプB フレックスフルタイム 5日 転居あり
タイプC フルタイム 5日 転居なし
タイプD フレックスフルタイム 5日 転居なし
タイプE フルタイム 4日 転居なし
タイプF フレックスフルタイム 4日 転居なし
タイプG 5時間 5日 転居なし

次に、(5)を飛ばして(6)の国民負担についてみてみたい。

日本は所謂租税負担のほかに、社会保障(年金と、医療保険)を含めた国民負担率がざっと43%くらい(2017年現在)である。これに財政赤字分を入れた「潜在的国民負担」が50%くらい。まさに「中福祉・中負担」の国ということになる。

ちなみにこの国民負担率、平成元年(1989年)が37.9%だそうだから、この30年で5%くらいあがった計算になる。国際的に「低い、低い」と言われながら、着実に「担税強化」はなされてきたのである。

これをどうするか。「低福祉・低負担」路線は現状からすると無理筋というもの。といって、これ以上高福祉・高負担も望めない。常識的に考えて現在の路線を進む・・・のだろうが、そうしたところで将来の財政破綻は目に見えている。

こういうのを、一般的には「詰んでいる」という。しかし個人と違って国は「お金を創れる」ので、実際は日銀が国債を買い入れれば「政府の借金」は消えることになり、理論上は絶対に破綻しない。ただインフレで国民生活の実質的な破綻があるのみである。

そこで必ず議論に上るのが消費税増税なのだが、これはどう考えても悪手である。仮に10%になったとしよう。「使うお金の1割が税金で消える」のである。絶対に消費は上向かない、というのが小学生でもわかる理屈だ。給料をもらった人は、お金を使うと勝手に1割引かれるので、畢竟、その大部分を貯金に回すのである。

「使うと1割差っ引かれるが、ため込んでおけばとられない。だったら貯めておこう」となるのが「合理的な」経済行動である。合成の誤謬というやつで、個人が「よかれ」と思って貯金をすることが、社会全体のお金の流れを狂わせているのである。

証拠を1つ示そう。世帯貯蓄は過去最高の1820万円(2016年の家計調査)だ。将来が不安な高齢者も、若者も、みな「貯蓄」に励んでいるのである。消費増税が招いた<貯蓄不況>ともいえる状況である(その貯蓄が貸し出しに回らないからマイナス金利という異常事態が発生しているのだ)。金はある、でも回らない。だから「不況感」だけが残るのだ。

究極の解決法は、消費や投資といったフローへの課税を弱め、資産税・貯蓄税、不活用土地への強制徴税といったストックへの課税を強めることで、国民に半ば強制的に消費をさせることである。しかし、今の政府は絶対にその逆をやる。なぜならストックを持っている票田、すなわち老人の資産だけは守りたいから。政治家も人の子、シルバー民主主義になるのは必然なのであった。

余談;

日本は光熱費・住居費が割高というのはよく言われることだが、なんといっても通信費が高い。家計を徹底的に圧迫しているものの1つが通信費と言っても過言ではない。キャリアの「2年縛り」の制約もあってか、MVMOの普及率はざっと1割強(2017年現在)でしかない。総務省と通信各社はプロレスのように「値下げ攻防バトル」を繰り返しているが、端末代が上がっただけで、何も変わっていないように思える。

若者の消費が伸びない原因の一つは間違いなく「スマホ代」にある。MNPが中途半端に「電話番号だけ」だからなおさら、競争が起こらない。ぜひ「メールアドレスもMNPできる」ようにしてほしい。すると・・・地殻変動が起こるはずである。間違いなく。

携帯のキャリアを変えない一番大きな理由。それは、「メールアドレスを変えるのが面倒だから」。MNPでこれを許せば一気に動きがあるはず。ここにメスが入ることを期待するが、おそらく絶対にやらないだろう。かくて携帯会社の安泰は続くのであった。よかったね!

また余談を書いてしまった。最後に、(5)労働時間を見てみよう。おそらく、これが現状でもっとも効果的に対応できる唯一の策ではないかと思えるのである。政府も、まずはこれが現代の閉塞状況を打ち破る「第一歩」と考えている節がある。だからこそ、安倍政権の肝いりで「労使で月100時間規制に合意」ということをやったり、「プレミアムフライデー」をぶち上げたり、色々やっているわけだが・・・

労使合意で「上限規制」ができたのは確かに歴史的なことと思う。しかし「月100時間」である。まったく「働かせすぎ」であるし、そもそもこういう合意がなされたことで、本社人事部が現場管理職へ厳しく勤務時間管理を迫るようになっており、現場は「余計、残業を隠れてするしかなくなった」と悲鳴を上げている状態である。要は「本社が今月から35時間以内にしろと言っているから、それ以上勤怠をつけるな」と上司が部下に「忖度」を求める感じであり、昔からあった闇残業がさらに「強化」される・・という非常にまずい事態があちこちで起こっているのを見聞きする。たぶん、このままではうまくいかない。もっと「強制力」をつけないと・・・

プレミアムフライデーは、ほとんどの国民が、「ああ、やっぱりお上は利益と関係ないから、一番忙しい週末に呑気に休めるんだねぇ。勝手にやってろ」とあきれた案件である。月末の週末に早く帰れる国民がどれだけいるというのか。そもそも、その金曜日に飲食店は「早開け」しなければならなくなり、実質的な労働時間が伸びたのである。本当に上級国民様の考えることは違いますなぁ。これ、やるなら「月1回でも週休3日制を取り入れる」という方向で、「たまにはレスト・ウエンズデー」のほうが多くの国民に恩恵があったのではありますまいか。

EU加盟28か国の労働時間規制(労働時間指令)は、大変参考になるものだ。ポイントはこの2つ。
「1週間の労働時間は、時間外労働を含み週48時間」
「1日の休息時間は、24時間当たり最低連続11時間」

これは、「仕事も、家庭も、育児も」を社会全体で目指していく中で、ぜひ取り入れたい考え方だ。しかも、これまで挙げてきた様々な方策の中でも、最も、「実現可能性」のハードルが低いものだと思う。

ちなみに後者の「休息時間」については、すでに厚生労働省が「職場意識改善助成金(勤務間インターバル導入コース)」として、実施に要した費用を助成する取り組み(9時間以上のインターバルに対して助成)を行っている。非常に評価できることだ。

現在の状況からして、すぐに上記規制を実現できると思うほど私は夢想家ではない。現実的な落としどころとしては、
「1週間の労働時間は40時間とし、これを超える場合は時間外労働と見做す。時間外労働は、週20時間・連続する2週間で30時間・月50時間・連続する2か月で80時間を超えてはならない。」
「労働と労働の間には、通勤時間を除き、週に3日以上は10時間、最低でも9時間の休息時間を設定する」
といったところが、まず有効なのではないかと思う。

まず、何はなくともこの「総労働時間規制」である。そして「休息時間の確保」。制度的に過ぎる日本の雇用制度を「実質的」にする意味でも、ここは是非とも推進してほしい部分である。

現実は、誰かの理想の奴隷ではない。雇用機会均等を制度で縛るだけ縛って、運用を企業に任せた結果がこれなのだ。次は、「本質」に着手していくしかないではないか。現実がおかしいのなら、その「理想」とやらを変えなければならないのだ。

これは「憲法」の不毛な論議にも言えそうである。現実にそぐわないのなら、その「理想」とやらを疑ってみる。これが現実をよくする第一歩ではないか。

ということで、余談だらけではあったが、「長時間労働の公的な抑制」が今こそ求められているのである。その方向での議論が社会全体で進んでいることに、期待をもっている。「働き方改革」は少子化対策の切り札だ。この方向への国会の議論が深まることも願いたい。


公開:2017年6月24日

少子化と高齢化により、凄まじい勢いで「労働力」が減少している。景気がいいわけでは決してないのに、どこもかしこも「人手不足」であえいでいる。将来の見通しが立たないので、人々は貯蓄に励み、財布のひもは締まったまま。社会が高齢化しているので、政策も老人優先。畢竟、若い世代はますます「放置」されていく。将来の見通しがなくて苦しいのに、さらに「一億総活躍」とお尻を叩かれ、「こんなに苦しいのに、まだ働けっていうのかよ。あがりはいつなんだよ」というのが正直なところではないか。

高齢者割合が増えるという意味での「高齢化」の原因は「少子化」で、「少子化」の原因は(様々なデータを見る限りでは)「晩婚化・非婚化」だ。晩婚化・非婚化の原因は、「不景気」というよりも、むしろ「女性の社会進出」である(誤解のないように書くが、これは「事実」であって、私は女性の社会進出そのものへの評価をしているわけではない)。

男女雇用機会均等法「前」の、戦後日本社会のロールモデルは、男が「仕事」で長時間労働して稼得をし、女が「家事・育児」で長時間労働して生活のケアを行う、という「長時間労働・役割分担型」であった。

男女雇用機会均等法「後」、このロールモデルはもはや過去の遺物とな・・・るはずだったが、男性は相変わらず「仕事」で長時間労働して稼得し、女性は「仕事」に加えて「家事・育児」でさらに長時間労働を迫られる(男は女性よりも家事をしないことは統計でも明らかなのである)・・しかも、高齢化によってここに「介護」が加わることで、何とかギリギリで回っていたはずの歯車が、まったく立ち行かなくなってしまっているのだ。「一億総疲弊社会」の到来といえる。

問題解決のカギは、仕事であれ家事・育児であれ「労働総時間」をこれ以上増やさないことである。ただ現実は、仕事においては「労働力不足」によって、既存労働力はさらなる勤労時間確保を求められるし、家事・育児においても、そもそも「保育園不足」が物語るように、家事・育児のアウトソーシング先が「労働力不足」なのであるから自分たちでその部分を担うしかない。

おまけに女性を取り巻く環境は相当に複雑化していて、「バリバリ働きたいから保育園に入れる自治体に引っ越して働き続ける」人、「バリバリ働きたいから親のそばに住んで(あるいは同居して)働き続ける」人、「バリバリ働きたいけれどようやく入れた保育園が微妙な距離にあって、16時台には上がらなくてはいけないからジレンマを抱えている」という人、「バリバリ働きたくないが、経済的事情もあって仕事と家事と育児を両立させざるを得ない」という人、様々だ。あまりにもバリエーションがありすぎて、政策での個別対応はおそらくもう不可能な領域に入っていることが直観される。

すなわち、「待機児童をゼロにしよう」とか、「残業は月100時間までにしよう」とか、「金曜日は早く帰ろう」とか、個別の事案をパッチワーク的に埋めていこうとしても、まったくの手詰まりなのである。問題は根本で解決しなければならない。繰り返しになるが、仕事であれ家事・育児であれ、「労働総時間」をこれ以上増やさないことだけが、様々な課題解決の糸口なのである。

結局、日本の場合は「家事・育児・介護」といった「ケアワーク」を誰が分担するか、という社会的合意がなされないまま、ずるずると「女性の社会進出」だけを歪めて推し進めていったことで、「男性型の長時間労働社会」に女性が加わっていくというスタイルで社会が確立してしまったのである。だから誰もが外で長時間働くし、家ではケアワークがそのまま残っている・・・という疲弊一直線への道をたどることになったのである。

こんな状態なら、一人で生活を成り立たせていたほうが楽だ。当たり前だが「よっぽど」でないと女性は結婚しなくなる。これが「非婚化・晩婚化」の一因であろう。ちなみに女性が労働市場に参入した分、当然だが男性のパイは減るので、男性の総合的な稼得力は長期的には低落する。したがって、「よっぽど」にカテゴライズされない男性が増えるので、これまた「非婚化・晩婚化」を推進するのである。

大昔、女性が中心的にケアワークを担っていたのは、おそらく古今東西、変わらない。女性が社会進出し、かつ家庭でもケアワークをしなければならないという「超長時間労働」から解放されるために、この「ケアワーク」は何らかの形でアウトソーシングされなければならない。

北米型社会が見出した解決策は、「移民労働力」であった。すなわち、ベビーシッターやハウスキーパーを雇用するのである。育児休業制度が企業マターであれば、「個人で」アウトソーシングをするしかないのである。北米らしい考え方だ。

一方、北欧型社会が見出した解決策は、「ケアワークのシェアリング」であった。すなわち、女性をケアワークの公務員として政府が雇用し、ケアワークを「社会が分担」することにしたのである。単純化するとAさんはBさんの家の家事を対価を得て行い、BさんはAさんの家事を対価を得て行う、その配分は政府が行うということである。まさに「大きな政府」というか、北欧らしい思考だと思う。

両方のケースとも少子化を克服しつつあるので、政策的には「成功」しているのだろう。ただ問題は、北米型や北欧型、いずれもおそらく日本にはなじまないということだ。移民を受け入れる社会的合意はないし、ケアワークを公務化してシェアするという財政余力もないからだ。

日本では、伝統的には「大家族での扶助」が解決策の1つであった。すなわち、「おじいちゃん、おばあちゃんが見てあげる」のである。「バリバリ働くキャリアウーマン」が、キャリアウーマンでいられるのは、実は父母または義父母が同居もしくは近居しているから、というケースは今でも決して少なくはない。

ただ、必ずしも同居や近居の恩恵に預かれる家庭ばかりではない。核家族が一般化する中で、「大家族での扶助」が(現状では実は唯一の)超長時間労働是正の糸口というのは、あまりにも心細すぎる。

では、どうするか。
「超長時間労働」解決策の1つが、「家事の機械化の政策的推進」であると思う。少なくとも家事労働の分野で、少しでも労働時間を縮減していく。それも政策的に一気に、である。

最近、「共働きの三種の神器」なる言葉がホットワードとして度々登場するようになった。すなわち、<食器洗い機(以下食洗器)>、<ロボット掃除機(以下ルンバ)>、<洗濯乾燥機(以下乾燥機)>の3つである。

実際に、私自身がこれを家庭に導入してみて分かったことを書いてみる。
まず食洗器。手で洗うのと変わらないんじゃないか、むしろ手間が増えるんじゃないかと思ったがそんなことはなく、洗い物に費やしていた時間をほかのことに使えるのは想像以上に「生活の余裕」を生み出したのである。特に赤ちゃんのいる家庭では哺乳瓶や離乳食用の食器類を洗う手間が省けることは大きい。また想像以上に食器がピカピカになるので、衛生的でもある。

次にルンバ。ゴミなんて拾えないんじゃないかと嵩をくくっていたが、さにあらず。まさかこんなにゴミだらけの中で生活していたのかと絶望した。「外出中に勝手に部屋が綺麗になっている」ことの精神的効用は大きく、これまた「生活の余裕」を生み出したのである。

最後に乾燥機。洗濯物を乾かすために洗濯ばさみに吊るすという行為が、ここまで「重労働」だったのかと思い知らされた。天気を気にしたり、夕方まで乾くのをまったり・・という必要がなくなり、洗ったら即、服をたためるというのは異常な便利さであった。副次効果として、タオルがふかふかになること、花粉やPM2.5を気にしなくてよいことなど、いいことづくめなのである。これも「生活の余裕」の一。

ニュースで「自動服畳み機」が登場すると聞いた。次は「自動アイロン」だろうか。ここまでくると、あとは「水回り掃除」だけである。

機械で、家事労働は相当に軽減される。精神的な余裕も大幅に生まれる。導入当初、一かけらだけあった「罪悪感」のようなものも、「精神的効用」の前には雲散霧消した。「便利なものは、どんどん取り入れるべき」なのである。「仕事は残業すればいいってものではない」のと同様、家事も「時間をかければいいってものではない」のである。当たり前だが、浮いた時間は「人間性」の追究に活かされるべきなのだ。間違いなく。

そこで政府は、「結婚する」ときにご祝儀として「共働き三種の神器の購入引換券」でも渡したらどうか、というのが今回の主題である。

食洗器5万、ルンバ5万、乾燥機(ドラム式ではなく、乾燥機単体で)5万として合計15万くらいである。年間60万組が結婚するとして、予算はざっと900億(初婚限定にすれば、もっと予算は減らせる)だ。田舎にじいさんばあさん向けのふれあい交流施設を建てたり、使われないスポーツ施設をボンボン作るよりは、よっぽど未来への投資になると思うが・・・

ともかく、名付けて「結婚お祝いバウチャー制度」である。これを考えてみたい。

まず、ここで政策的な誘導が必要になる。すなわち、「早く結婚すればするほどよい引換券がもらえる」ようにすることである。そこで以下のようなことを考えてみた。これ、提案したらしたで物凄く怒られそうなのだが、現実としてはこれくらいやらないとのっぴきならないところまで来ていると思うのだ。

【結婚お祝いバウチャー制度(案)】

女性の初婚年齢 結婚時にもらえる家電バウチャー 保育園入園バウチャー
27歳まで 食洗乾燥器・ルンバ・ドラム式乾燥機 3点 あり
27歳-34歳 食洗乾燥器・ルンバ・乾燥機(単体)の中から 2点 あり
35歳以上 食洗器・ルンバ型ロボット・乾燥機(単体)の中から 2点  

ちなみに「女性の」初婚年齢としたのは、この政策が「晩婚化・非婚化」対策であるだけでなく、少子化対策でもあるからだ。政策は「社会の方向」を政府のメッセージとして誘導することでもある。これくらいやったほうがよほどインパクトがあるし、何より即物性・即時性・有効性も高いものであると思う。

今の政府は何の飴もなしに、とにかく「男は働け、女も働け、死ぬまで働け。租税負担をしろ。見返りはないが、結婚して将来世代をつくれ。」と号令をかけ続けているだけである。

それよりは、「男は働け、女も働け、死ぬまで働け。租税負担をしろ。早く結婚して将来世代をつくれば、少しだけ見返りをやろう。」とやってくれたほうが、まだ希望が持てると思うのだ。

ちなみにこれでは育児も介護も何も解決していないが、少なくとも「家事労働時間の縮減」だけは、社会的に最低保証できることがあるのではないか、と思うのである。

※ちなみに、政策的に「大家族での相互扶助推進」という考え方を採ることも、少なくとも封建的な思考が根深く残っている日本では有効であろうと思う。結婚の際に同居若しくは近居する場合、税制面で優遇するなどである。ただ、これは近代的発想とは言い難い。「個人の解放」が近代のテーゼなのだとすれば、これは完全に近代の指向性からは逸脱しているからだ。ただ、日本が既に「超」近代社会になってしまっているのだとすれば、近代社会へのアンチテーゼとして、復古的に「イエ」への回帰を志向するという、社会的な選択肢が<ないわけではない>ことは付記しておく。おそらく、現状では現代日本が抱える「超長時間労働の罠」は先に挙げた「機械化」ないし、ここで挙げた「大家族化」の推進でしか解決し得ないように思われるからだ。


公開:2017年6月11日

私は幼少の頃から「知識欲」が強く、当時の愛読書は図鑑であった。幼稚園に行っている間は、家で教育テレビを録画(VHSで)しておいてもらい、帰宅後にそれを見る、という生活をしていた。夕方は「たんけんぼくのまち」(チョーさん)や、「あいうえお」などを楽しみながら見ていたのだ。

幼稚園では、業者が様々な「知育グッズ」を斡旋販売している。幼稚園で配本されていた本の中で、親が買ってくれたのだろう、毎月楽しみにしていたのが、世界文化社の「かがくらんど」である。ビジュアル満載で、科学についての知識を楽しく身に着けられる素敵ブック。私は、この「かがくらんど」から様々な知識を学んだのである。

最近、どうしてもそれをまた読みたくなって、「かがくらんど」のアーカイブがどこかに残っていないかを探索した。すると国立国会図書館(の、上野にある分館である「国際子ども図書館」)にしっかり所蔵されていることが分かった。喜び勇んだ私はさっそく足を運び、幼少の頃読んだ「かがくらんど」に再び出会ったのである。

当時、むさぼるように読んでいたので、驚くことに30年近く経っていても、全号、内容を覚えていた。これには自分でも驚いた。

以下が、各号の内容である。せっかくなのでコメント付きでまとめてみた。

号数 テーマ コメント(当時得た知識)
1988年4月号 あかしろきいろチューリップ ■チューリップの花を摘むと球根が大きくなること
■オランダでチューリップ狂時代があったこと
1988年5月号 どうぶつえんにいこう ■ゴリラのボスはウイスキーを飲むこと
1988年6月号 つめのひみつ ■爪を伸ばし過ぎるとクルクル回転すること
1988年7月号 おいしいね アイスクリーム ■アイスクリームは日本への輸入当時「あいすくりん」と呼ばれていたこと
■アイスクリームは妊婦にもよい完全栄養食であること
1988年8月号 アマゾンだいぼうけん ■アマゾンには未発見の昆虫がたくさんいること
■背中に数字の書かれた蝶がいること
■アマゾンにはたくさんの果物があること
1988年9月号 すいすいとんぼ ■とんぼの眼鏡は相当な量の複眼であること
1988年10月号 まつぼっくり ぽとん ■植物の種の飛ばし方には様々なバリエーションがあること
1988年11月号 ゴーゴー こうそくどうろ ■サービスエリアは概ね50キロ間隔で設置されていること
■トンネルに信号があること
■消防士はスロープで仮眠室から降りるようになっていること
1988年12月号 かみってなあに? ■「燃えない紙」があること(紙鍋など)
■紙の強度は想像以上に高いこと
1989年1月号 みかんのなぞ ■温州みかんのことを欧米では「テレビオレンジ」と呼んでいること
■みかんは風邪によいこと
1989年2月号 さむいくにのどうぶつたち ■流氷という現象があること
1989年3月号 はるをみつけよう ■ふきのとうという苦い食べ物があること

1年間ですさまじい量の知識を得ることができた「かがくらんど」。大人向けのコメントが随所にちりばめられており、私はそれも読んでいた。

子ども向けと言いながら知識の内容は安易に妥協せず、非常にクオリティの高い名著といってよい。現代でも通用するレベルの内容で、制作陣の意識の高さを今回、手に取ってみて改めて感じた次第である。

知的興奮を呼び覚ましてくれたかがくらんど。今でも本当に感謝している。


公開:2017年6月5日

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