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Windows11 の巻

あれほど「最後のWindowsナンバリング」といっていた「Windows10」だが、いよいよ「Windows11」の登場である。まあ、6年もたてば社会環境も何もかも変わって当然だろう。

ホームユースはともかく、影響が甚大なのはビジネス回り。IEが完全に終了する(Edgeに互換モードは搭載される予定)、Teamsと統合など、IT関連の部署の方などは今から導入計画にさぞ頭を抱えていらっしゃることと思う。

いまだにIEでないと動かないシステムがあったり、それこそ20年レベルの古いOSで動かしている基幹システムなんてごまんとある。こういうのの互換性チェック、システム入れ替え、パッチ・・と考えただけで気が遠くなりそうだ。

このサイトも、特に本編は15年選手の昔のソフトを使って編集している箇所もあり、今後どうやって環境を変えていくかは今から思案のしどころだ。わくわく半分、不安半分といった心境である。

まだリリースは先だが、やはり新OSというのはわくわくする。早速、今の環境でWindows11に移行(無料)できるのかをテストしてみた(テストはマイクロソフトのWindows11のページで公開されているチェックアプリから簡単にできる)。

分かってはいたが、やはりこの表示が出ると安心する。

ではまた。

続・「必要」を自分認定しない話、の巻

前回に引き続き、「必要」を自分認定しない話。これは何も個人の話に限ったことではなく、あらゆることに援用できる。自分のやっていることを「必要」と「自分認定」しないだけで、取り越し苦労、骨折り損のくたびれ儲け、その他あらゆる「無駄骨」を防ぐことができるのだ。

「必要」と自分認定してしまうと、誰も欲していない余計な機能をつけてみたり、求めてもいないサービスを付け加えてみたり、自分の首を自分で絞める結果になってしまう。

その時にふと立ち止まって、「あれ?必要とされていない?」と思うことで、ちょっと気が軽くなるはずだ。そして、無駄なことをしなくてよいと気づけるはずだ。「生産性」を高めるヒントは、案外こういうところにあるのかもしれない。


前回、組織内での自分の分類は、「いてもいい」「いなくてもいい」「いなくていい」のどれか3つであると書いたが、もう少し細分化するとこのようになるかもしれない。

最上位:「いたほうが困らない」
次点:「いても困らない」
3位:「いてもいなくてもどちらでも困らない」
4位:「いなくても困らない」
5位:「いなくて困らない」
最下位:「いないほうが困らない」

まかり間違っても、最上位は「必要である」ではない。「必要」なんてことはないと思っておいたほうが精神衛生の安定のためにも、また実際の生活の上でも有益である。

繰り返すが、「必要」を自分認定しないこと。QOLの向上は、すべてここからはじまる。

ではまた。

「必要」と自分認定しないことで心が軽くなる話、の巻

組織には「必要」「いてもいい」「いなくてもいい」「いなくていい」という評価分類が厳然とあって、「いてもいい」なのに「必要」と錯覚すると過労が生まれ、「いなくてもいい」なのに「必要」と錯覚すると軋轢が生まれ、「いなくていい」なのに「必要」と錯覚すると無駄が生まれるわけです。これはお互いにとって不幸なことのわけですが、表立っては「あなたは必要」としか誰も言ってくれないので、結局は自分が「いてもいい」「いなくてもいい」「いなくていい」のどれなのかは判断しないといけないのですね。ちなみに間違っても「必要」と自分認定してはなりません。普通はどんなに上位の評価でも「いてもいい」が最高ランクでしょう。

「いてもいい」の人は、もっと自分の心と体を守ることを考えましょう。「いてもいい」は容易に「いなくてもいい」に転化します。どれだけ尽くしたところで、いずれもっと若くて勢いのある人に乗っ取られますから。

「いなくてもいい」の人は、もっと面従腹背の精神を鍛えましょう。「使えそうだから置いとくだけ」から脱却するには、プラスアルファ、「組織に従う」精神が必要だからです。動機はどうあれ、結果的に「白といえば黒も白」にできるかどうかが「いてもいい」と判定されるか否かの分岐点になりましょう。

「いなくていい人」は、おとなしくしているのが得策です。おとなしくしてさえいれば、容易に「いなくてもいい」判定を受けることができるでしょう。「いなくて」と「いなくても」の境目は、要は「空気を読んでいられるか」ということの違いになります。

まかり間違っても自分がある組織にとって「必要」と自分認定しないこと(評価は常に他者が下します)が秘訣です。むしろ常に「いてもいい」「いなくてもいい」「いなくていい」のどこに自分がカテゴライズされていくかを察知しておくことを重視しましょう。これが結局は幸せに生きていくための道標となるように思います。

自分が別に「必要」じゃないと思えれば、風呂敷残業、休日の電話対応、有給の日の仕事、その他あらゆる「無賃仕事」に精魂を込めることがどれだけ人生を切り売りすることかが見えてきます。

そう考えると、少し心が軽くなってきませんか?

ではまた。

PCはそれなりのものを買うべき、の巻

この「Nicky」は、スマホからもタブレットからもPCからも編集・投稿できるように設定している。

本当はスマホで移動のときに手軽に更新しようと思ってはじめたのだが、結局、一番多用しているのはPCである。座って、落ち着いて文書作成ができるツールはやはりPCなのだと改めて気づかされた。

何度か書いているが、仕事などで「PCが必要」となったとき、PCに詳しくない人ほど安いからとあまりにも低スペックなPCを買ってしまいがちだ。結果、手元にあるスマホやタブレットよりも動作がもたつくものだから、「動かすのが面倒」になって、日々非効率な仕事に甘んじている・・というケースを実際に何度も何度も見聞きしてきた。

もったいない。起動を待つ時間。Chromeの読み込み時間。ただの無駄である。低スペックのPCというのは、実はPCに詳しい御仁が、サブPCとして遊んだり、ちょっとお試しで触るみたいな用途に適しているのだ(私見)。

本来は、PCに詳しくない人ほど、それなりのスペックのPCを選ぶべきなのである。今日日、それなりのスペックのPCであれば、フリーズすることもないし、起動もタブレット並みに速いし、何より文書作成はタッチ入力よりもスムーズである。イライラすることもない。

「それなりのスペック」というのは、CPUであれば「Intel Core i5」ないし「i7」であり(i7のほうが高性能)、メモリは8GB、ストレージは128GBくらいのSSDを搭載したノートPC、ということになる。USB端子が複数、DVDドライブでもあればなおラクチンだ。できればMicrosoft Officeもつけておきたい。こうすると、概ね新品のメーカー品(国産でなくてもあまり変わらないのでこだわる必要はあまりない)で10万円から13万円くらいが相場だろうか。スマホでこれくらいの値段の機種を平気で買う人が、なぜかPCではケチって信じられないくらい低スペックのPCを買ってしまうというケースはきわめて多い。本当にもったいない。

繰り返しになるが、「PCに詳しくない人ほど、それなりのスペックのPCを選ぶべき」だ。SSDならば起動はタブレットに近い(さすがにタブレットほどではないが)レベルで速いものもあるし、何よりも、とにかく「画面入力」では得られないキーボードの入力感が違う。

・・といってもほとんどは、安いPCを買ってしまうだろうね。スマホに慣れた現代人にとって、「低スペック」がどれだけイライラするものかわからずに・・・。「作業のための道具だからそれなりの投資はしておくべきだ」という考えは、現実のお金の前には霞んでしまう。それだけ日本の可処分所得は落ち込んでいるということだ。

ではまた。

スマホ考現学構想の巻

ふと思い立って、フードコートでスマホをいじっている人を数えてみた。

おひとり様だろうが家族連れだろうがカップル、友達どうし、子連れ、その他属性関係なしにおそらく7割くらいがスマホに目を奪われていた。観察しているとすごく面白い。幼子が靴で椅子に上っても気にせずずっとネットサーフィンに興じる親とか、カップルで来てるのに会話もせずお互いにスマホに熱中している風景とか。私は何もそれを批判しているのではない。あくまで「人間観察」の対象として楽しんでいたのだ。

続いて電車。昼下がりのロングシートを観察して、どれだけスマホをいじっているかを数えてみた。

これまた、老若男女問わず、10人中9人がスマホをいじっていた。すごいね。1人だけ読書をしている男性がいたが、それがむしろ目立つという状況。指を素早く動かしていれば大体ラインだろうし、イヤホンをつけて横向きで凝視していればYouTubeか何かのドラマ、定期的に横向きにフリックをしていればkindleで読書、タップを繰り返していればゲーム、下にスクロールしていればインスタかニュースサイトのチェックか何かだろう。指の動きで相手が何に興じているのか分かるのも、実に面白い。

しかし・・もう、笑ってしまうくらいほとんどの人がスマホをいじっている。ぜひ皆さんも人流ウォッチングをしてみていただきたい。日常におけるスマホ依存度が全年齢層で高くなっていることに気づくはずだ。ちょっとひくくらい。

『スマホ脳』とか『読書をする子は○○がすごい』など、その状況を嘆いて批判する書物は世に多けれど、ここまで浸食してしまったらもはや「昔のように」戻るのは不可能である。「昔に戻れ」と専門家がいくら警鐘を鳴らしても、それを元に戻すのはかなり難しいと思う。

2020年代。「目の前の現実よりも画面の中に<今>がある」という仮想現実社会が到来したのである。しかもみんなマスクをしているので表情が分からないときた。昔から「目は口程に物を言う」とは言うので、顔の中で唯一露出している目で意図を探るしかないのだが(耳はワイヤレスイヤホンでふさがっている)、その目が画面を向いてしまっているというのが今の状況である。つまり、目の前の人の考えがよくわからないというのが現実社会だ。むしろ画面越しのほうがダイレクトにコミュニケーションができる、という倒錯した状況にすらなっているのだ。

大切なのはこうした現状の肯定でも否定でもなくまずは「認識」であり、その現状認識においてはじめて、そこにおいてどう生きるか、という問いが立つのだ。とにかくここからでしょう。

しかしスマホウォッチングは面白い。これはいろいろな場所で試せそうだ。「予防接種の待合会場」「ラーメンの行列の待合列」「アトラクションの待ち列」その他、いろいろなパターンがありそうだ。スマホ版考現学といったところか。場所別で「最初の100人行動調査」みたいなのやってみようかしら?スマホ考現学構想である。

ではまた。