2020年3月アーカイブ

志村けんが、あの志村けんが。あの志村けんが、逝ってしまった。

憎い、憎い、とにかく憎い。クソコロナめ。
悔しい、悔しい、とにかく悔しい。クソコロナめ。

日本で随一の喜劇王。現代のチャップリン。日本の宝。

志村けんの笑いで、どれだけの人が元気と、勇気と、やる気と、希望をもらったことか。志村けんが社会にもたらした効用は、何よりも深く、大きく、重い。

クソコロナめ。

「8時だヨ!全員集合!」「ドリフ大爆笑」「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」・・・日本のコントの最高峰。バラエティの金字塔。これ以外にも、たくさんの、数えきれないほどたくさんのヒット番組の数々。

数年前、念願の舞台「志村魂」を見た。行先に「志村魂」と書かれた観光バスが続々と止まり、期待に顔をほころばせた老若男女が我先にと「明治座」に押し掛ける・・・

これだけ多くの人を笑わせ、元気づけ、「さあ、明日もがんばろう!」という気持ちにさせるような人が、なぜ逝かねばならぬのか。

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第一報を聞いた時、私は職場で号泣した。仕事中に泣くなんて、自分でも驚いた。その後、お昼休みになると食事をしながら涙が止まらなくなってしまった。帰り道。涙で視界がぐちゃぐちゃになって帰路についた。そして夜。まだまだ涙は枯れないのである。

志村けんが、自分にとってどれだけ大きな存在だったか。仕事を離れ、「我」に返ると涙が止まらない。まったく止まらない。

喪失感があまりにも大きすぎて、まったくこの感情が言葉にできない。何だろうか。この「偉大なもの」「寄りかかれる何か」を亡くした気持ちは。

悔しい。あまりにも悔しい。

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コラムニストの堀井健一郎さんが、堀井さんらしい切り口で、志村けんへの追悼コラムを寄せている。タイトルは、「志村けんの死でわれわれは何を失ったのか 彼が作り続けたコント世界のすごさ」。

最後に、こう締めている。「志村けんは、いなくなってしまったのだ。」と。

そうなのだ。志村けんは、もう、いなくなってしまった。書いていて涙が止まらない。志村けんは、あの、あの少しシャイで、寡黙で、でも見ているだけでとっても楽しい志村けんは、もういないのだ。突然、あまりにも突然、いなくなってしまったのだ。

もう、新しい志村けんのコントは、もう、、もう二度と、、、、二度とみられないのである。二度とだ。

なぜだ。なぜだ。

いつも僕の心をときめかせ、いつもわくわくさせてくれ、画面に映るだけで楽しくて楽しくてしかたがない、あの志村けんは、もういなくなってしまったのだ。

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志村けんで育った1人として。

本物の笑いを本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。


公開:2020年3月31日

一緒にいてどうも疲れる人と、元気をもらえる人。これと「うまくいかない人」と「うまくいく人」は相関があるなぁ・・・と思うようになった。

最近気づいたことは、人には4タイプあるということだ。
■表面上は明るくて、性格も前向きな人(陽で陽)
■表面上は暗いが、性格は前向きな人(陰だが陽)
■表面上は明るいが、性格は後ろ向きな人(陽だが陰)
■表面上は暗くて、性格も後ろ向きな人(陰で陰)

このうち、大切なのは表象される明るさ・暗さではなく、性格的な「前向き」「後ろ向き」の部分であることに気づいた。

人が人を呼ぶ。元気をもらえる人、すなわち、「うまくいく人」は、例外なく性格に「陽」の属性を持っている。すなわち、「陽で陽」「陰だが陽」の2者である。

「陽で陽」は、解説不要。
「陰で陽」は、一見、暗い人なのに、心持が前向きな人。
人付き合いは、この2タイプに精力を注ぐことが人生を豊かにする秘訣だと私は感じてきている。
(仕事上も、このタイプとの付き合いに注力をすることで「生産性」が向上するのだと思われる)

「陰で陰」は、解説不要。
「陽で陰」は、一見、明るい人なのに、心持が後ろ向きな人。一番タチが悪いと私は思う。いわゆる「無能な働き者」の類だ。後ろ向きなら後ろ向きらしく、騒がずに静かにしていたほうがよい。
人付き合いは、この2タイプとの接点を避けることが、幸せのカギなのではないか。
(仕事上も、このタイプとの付き合いを極小化することで「生産性」が向上するのだと思われる)

松下幸之助の逸話に、「運がいい人を採用する」というのがあった(7年くらい前にも書いた)。
そしてタモリも、一世を風靡した「ネクラ・ネアカ」論でこのことを指摘していた(のだと今にして思う)。

つまりは、「見た目」の陽・陰ではなく、性格上の<陽タイプと付き合い、陰タイプとは疎遠になる>ことが、人間関係で悩むことを極小化する最適解なのではないか、と思われるのである。


公開:2020年3月29日

もはや想定外の事態である。パンデミック寸前の新型肺炎だ。あまりの広がりぶりに、「全国の小中高、一律休校を要請」という、前代未聞の要請も総理大臣から発せられた。今後状況が悪化すれば、交通機関の利用制限、特定地域の外出禁止、企業の一斉休業・・と取られる対策がエスカレートしていく可能性も想定し得る。まさに、「未曽有のフェーズ」に入った。「終わりの見えない戦い」に、国民は疲弊の一方だ。「会社は行け、でも外の娯楽はすべてナシだ」とあっては、フラストレーションもたまっていくばかりである。やり場のないイライラの矛先は、畢竟、政権へと向けられる。

ただでさえ、消費増税や不動産バブル、資源価格上昇に伴う事実上のスタグフレーション化、そして過去最高となる国民負担率(財政赤字を含めると49.9%なので、まさに「五公五民」。昭和45年と比べると25%も増えている)・・で国民経済が大きな悲鳴を上げているこのときに、今回のコロナ禍は、日本社会全体にとって決定的な一撃となった。仮にここに「最悪のシナリオ」である「オリンピック中止」が重なれば、日本経済は壊滅的なダメージを受けることにもなりかねない。まさに今が、パンデミックを食い止める正念場であろう。

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今回の「一律休校」の要請。一連の反応を見ていると、「遅すぎた」という人もいれば、「まだうちの地域では何も起こっていないのに、なぜ」という人もいる。「理屈と軟膏はどこにでもつく」という。誰が何を決断してもどこかしら文句は出る。現時点で、あれこれとこの政策の効果を評価するのは、一概には言えず、とても難しい。

ただ、本来こういった「評価が難しいものの利害の調整」こそが「政治」の役割である。行政府の長が強いメッセージで今後の方針を打ち出したことは、以前から書いているが「現状改善主義」を取る長期政権が、本義の「政治」を実行した事例、ということだけはいえる。

現政権は「悪しき現状になったところによるものを改善する」ことにより長期政権を維持してきた。支持率が下がるようなことがあると、それを転換するような政策をパッチワーク的に打ち出すことで乗り切ってきたのだ。決してイノベーションは起こらないが、決定的な事故も起こらない。平時であれば、これが一番うまくいく。なぜなら、「今までやってきたこと(=妥当性があると少なくとも現時点までは証明されていること)の微修正」が一番安全である確率が高いからだ。だから、歴代最長の政権として続いてきたのだ。

「現状改善主義」。これはいかにも老年化した国らしい受け身の姿勢だが、これは「俺が生きているうちは持ちこたえてくれ」という高齢者の暗黙の支持あってのものである。ちょうど、「定年まであと数年なんだから、俺がいるうちはいらんことは起こすなよ」という上司がいる職場の、国家バージョンである。

もっとも、現状改善主義の最大のウィークポイントは「イノベーションが起こらない」ことである。無謀な挑戦はしないし、何より「劇的な変化」を想定していない。なぜなら、「変わらぬ日常の延長」こそが国家運営のビジョンだからだ。

したがって、「平時」はよくても「非常時」には弱い可能性がある(弱い、とは言っていない)。日常の延長・修整こそが施政方針であるところの政権が、「日常の延長でない状態」のグランドデザインを描いて、かつ、現実的な政策的対処を行えるのか、というところはまったくもって未知数なのだ。

実際、今回の新型肺炎に対する中央政府の初動対応を見ていると、(昔ではあまり考えられなかったことだが、一部の地方自治体が、政府判断の前に動きだしている・・あるいは明確に中央政府の施策に反旗を翻している・・つまり中央の判断が100%アテにされなくなってきているところからも、)現状改善主義の「弱いところ」が覿面に表れてきたな、というのが直感的な感想である。オブラートに包まずに言えば、要は、未曽有の事態に対する対応は「怪しい」のである。これを国民も直観するからこそ、支持率も低下傾向にあるのだろう。

今回の「一律休校」は、東京オリンピックへの隠しきれない影響が市井でささやかれ始めたこと、株価急落に代表されるような実体経済への影響、そして春節の「爆買い」に目が眩んで「国内での感染封じ込め」の失策を受けた目の前の支持率低下を受けて、まさに「現状改善主義」が発動した、というところが根底にあろう。

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さて、口では簡単に「イベント中止」「レジャースポット自粛」「オリンピック延期」などと鼻をほじりながらでもいえるのだが、いざ主催者側になってみると、「中止」「延期」は相当の覚悟がないと決断ができないことがよくわかる。TDLすら休園する異常事態の中で、規模を縮小してでも強行開催された東京マラソンを見ても明らかだ。おできではないが、too big too fail(大きすぎてつぶせない)というやつだろう。

実際、仕事で何らかのイベントの「中止」を経験してみればすぐわかる。この新型肺炎で様々なイベントの中止対応に休日返上で直面した人間としては、安易に「○○を中止せよ」とは言えなくなるのだ。

関係者への経緯説明と連絡からはじまり、それこそ賛成から反対まで無限に湧いてくる意見を捌き、善後策を取る。金銭的、時間的、労力的な損害はそれこそ計り知れない。

もちろん理屈では、パンデミックを防ぐためには一度社会機能を封鎖して「人と人の直接接触を断つ」のが最適解なのだが、それが通常の社会生活のなかではかなり難しいということが・・・身に染みて、分かった。「水清ければ魚棲まず」、そんな清濁併せ呑む感じで世の中は成り立っているんだなぁ・・としみじみ思う。

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国はすでに「テレワークの拡大要請」「大規模イベントの自粛要請」および「公立学校の一律休校要請」など、これまでにないレベルで相当に強力な要請を発出してきている。

これを「もっと具体的に、強く」「要請だけでは、会社を休めない」といって批判する声は一定数あるが、そもそも自由主義国家で、しかも憲法で「移動の自由」「営業の自由」が掲げられており、さらにこういった非常事態に対する法制が100%は未整備である以上、国が出せる「命令」には限界がある。

今回の一律休校要請は、そのあたりをよく忖度した、ぎりぎりの表現だなと私は思った。「こういう時だから、超法規的措置をとれ」という一見するとすっきりするが、それがほかに適用されたらどうなるんだ・・となる「狂気の意見」が大勢を占めず、比較的冷静な世論が形成されている点は、成熟社会そのものである。

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だが、一方でマスクの転売禍、トイレットペーパー騒動、「紙製品」とあればキッチンペーパーからおむつまで片っ端から売れていくという大パニックには、これが「本当に成熟社会か」とほとほと呆れ返るほかない。

西に電車で咳をすれば非常ボタンを押されるものあり。
かと思えば、東に自分は大丈夫だからと、自宅で安静にもせずにウイルスをまき散らすものあり。

東京オリンピックは「おもてなし」の祭典だと喧伝されてきた。やれ、日本人は礼儀正しいだの、和の心があるだの、さんざん持ち上げてきた。

それがこのコロナパニックの直撃でどうか。人は非常時に本性を現すとはよくいうことだ。トイレットペーパーを並んで買い占めるその姿。どこが「おもてなしの精神」か。

これは自分を差し置いて書いているのではない。「自分も」そのパニックに巻き込まれている一員だからこそ書くのだ。今すぐ、「おもてなしの精神」の看板は下ろすべきだ。

羊頭狗肉というやつだ。恥ずかしい。

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ネットで炎上していたが、「学校が休校と言って、大人は子どもの学習機会を奪われることより先に、自分たちの就業機会が失われることをまず嘆いた。もうこの国は終わりだ」という趣旨の記事が話題になった(あえてリンクは貼らない)。

私の見る限り、この記事への反対意見は「勉強はどこでもできる」「親の大変さを差し置いて、ごちゃごちゃぬかすな」という感情論に支配されていた。

人は図星を指されると、激怒する。「私を含め」、「学校が一斉休業」のニュースを見た時、最初に感じたことは「こりゃ、親が大変だぞ」であった。だから私は、「子どもの学習機会を奪う政策だ」という冷静に事実を指摘する記事を見たときに、我が身をとても恥じた。もっとも、「この国は終わりだ」とまでは思わなかったが。

普通に議論すれば、少なくとも我が国では、「学校」=「急に休校になっても、親が困るだけの場所」という程度でしか見られないくらい、ものすごく軽視されていることが、このコロナ禍によって明確になったことだけは確かなのである。教育関係者は、大慌てでこの現実を見据えなければならない。

記事では「感傷的に卒業式が、思い出が」と嘆く前に、「1年の1/12の学習機会が奪われたことの現実認識を」というごもっともなことも書かれていた。だが確かに、文科省を含め、ここに触れた政策はついぞ聞かぬ。

事実を指摘されて脊髄反射で怒っている場合ではない。「公教育軽視」が浮き彫りになったという意味で、このコロナ禍が示す事実は、とても重い。

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会社で様々な「人と人が集まる機会」が中止となる中で、1つ、明確になったことがある。それは「こんなに集まらなくても、仕事ってできるよね?」という事実であった。

都心部は、平日で2割ほど人が減っているという報道もある。大企業を中心にテレワークが進んでいることと、主に公共交通機関を使用した移動、出張が激減しているからである。

テレワーク導入初期のあるあるは、「本当に仕事をしているのか監視できない」とか、「途中でサボる奴もでる」というとても些末な反対論である。

だが、よく考えてみてほしい。1日に合計すると何十分ものタバコ休憩に出ている人、どうでもいい愚痴のおしゃべりで相手の手を止める人、いるでしょう。結局、2:8:2の法則の通り、「やるやつはどこでもやるし、やらないやつはどこでもやらない」のである。

実際、テレワークがはじまって数週間たったが、それでも社会が崩壊したというニュースはついぞ聞かないのである。むしろ無駄な移動や会議が大幅に減って、「今までって何だったんだろう?」と思い出している人々も多いのではないか。

私の実感としても、これまで絶対に行ってきた大きなイベント、必ず実施してきた必修の研修、会って話すことを是としてきた会合・・・これらをすべてなくしたところで、「何も変わっていない」のである。

「やらなくてよいことを時間をかけて準備していた」ことがどんどん明確になってきた。これは大いなる無駄である(通勤時間も同様)。

捉えようによっては、異常に低いといわれる我が国の生産性を劇的に変えていく千載一遇の大チャンス・・・なのかもしれない。

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政府は、「学校がお休みのせいで、子どもを預けられない」親への休業補償を行うという。だがちょっと待ってほしい。「子どもを預けられないから、何とか工夫して仕事をできるようにした」人たちはどうなるのか。

例えば、夫婦が交互に有休をとるケース。本来は別のことに充てられた有休は、「取り損」になってしまわないか。

こんなケースもある。実家の親に見てもらう、シッターに預けるなどだ。交通費や手数料をかけて何とか見てもらう方法をつくろうと必死に努力しているパパママを身近で数多く見ているだけに、そうした努力への補填を行わないことに対しては怒りすら湧いてくる。

もう少し突っ込んでみると、本当は家族のためにも自宅で感染リスクの低いテレワークをしたいのに、どうしても出社人数が足りず、やむを得ず出勤をせざるを得ない・・という人もいる。遠距離通勤者に比べて、家が比較的職場の近くにあるから、というただそれだけの理由で、遠距離通勤者よりも職場への出勤圧力が高い人もいる。家庭持ちの出勤が「不安定」だからと、独身者・単身者に出勤を偏らせるのも、ある意味で差別的である。

みんながみんな、このコロナ禍では「我慢」をしている。政策的に「目立つから」というただそれだけの理由で、特定の層を優遇するとか、安易に「補償」を連発するとかいったことは、公平性の観点から言っても、絶対に許されない。

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斯様に、この度の新型肺炎は図らずも様々な問題を社会に投げかけている。
為政者が「東京オリンピック実施ありき」を崩さないところは、「日本が敗戦するわけがない」で破滅に突き進んでいった戦時中の精神構造とまったく一緒である。

政府や社会の上層部は当然にオリンピック中止または延期の善後策を「検討」しているはずなのに、それを「検討もしていない」というから、余計に世論は不安になるのだ。

むしろ、「このままでは東京オリンピックの中止・延期も考慮すべき事態になりつつある。だからこそ、世界全体のパンデミックを防ぎ、我が国もできる限りの予防措置をとるための策を多方面から講じていきたい」という前提に立って(それをオープンにして)政策を進めていくべきなのだ。

事実を認め、そこから対策を検討する。・・・この当たり前のことができないからこそ、国民の疑心暗鬼はますます深まり、それが「トイレットペーパー騒ぎ」にまでつながっていくのである。

今回の政府の対応は、「後手後手」というよりは「グダグダ」である。「先手先手」といいながら、「やります」といって宿題を31日までやらない少年のようである。

ここから巻き返しを図るのは容易ではない。ただ1つ、今の事実を認め、それこそ「オリンピックも黄色信号である」という「不都合な真実」を明確に国民に示し、全国民の協力を仰ぐことである。

それが「ただちに」できなければ、今度こそ「現状改善主義」は瓦解し、国民から見放されるときが来るだろう。それこそ、オリンピックまで持たないかもしれない。


2020年3月9日公開

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