1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

テレビを売って40日。何1つ困ることがなく、今のところメリットしかありません。なぜ今までこうしなかったのか不思議なくらいです。「テレビがあるのが当たり前」というのは昭和の常識。今は、「テレビがある家も、ない家もある」という多様性の時代。テレビを売ってから40日の変化をまとめてみました。

■家が静かになった
リビングに静寂が訪れます。最初のうちはシーンとしていたのでラジオに替えてみたのですが、それすら耳が痛くなって、基本的には「無音」が心地よくなります。朝の小鳥のさえずり、昼のセミの鳴き声、夜の虫の合唱が美しく耳に触れます。

■「動画疲れ」に気づき、Youtube含めて動画をほとんど見なくなった
「動画」そのものに疲れていることに気づかされました。一昔前のYoutubeは、かつての「個人テキストサイト」のときのような熱気があって、「表現したいことを、みてよ」というエネルギーに溢れていましたが、テキストサイトが「アフィリエイトブログ」に駆逐されたように、もはや「視聴して、金にしたいから」という動画ばかりになってしまいました。結局、動機が「視聴数=カネ」になってしまっている時点でテレビと構造は一緒なんですよね。「見ない」ことで、いかに動画に時間が搦めとられていたのかにほとほと気づかされることになりました。

■さらに、「SNS疲れ」にも気づき、ほとんどのSNSへの時間浪費がなくなった
Youtubeだけではありません。結局、「費やした時間=カネ」という構造は、ほかのSNSでも同様です。すでにX、Facebookなどは月に1回くらいしか開かなくなっていましたし、Instagramもアカウントだけ作って放置中。最近はついにLINEですら開くのが億劫になってしまいました。それでも生きていけることに気づけたのは大きいですね。

■読書に費やす時間が激増した
空いた時間が、まるごと読書に費やされるようになりました。平日でも1冊、休日ならば2・3冊ペースで読めるようになって、落ち着いた思索の時間が持てるようになった気がします。

■NHK代がかからなくなった
経済的にこれは大きいですね。これまで見もしない衛星契約を無理やり結ばされていたので、年間で約24,000円も浮きます。月2,000円ですからね、電気代やガソリン代の値上がりの補填にちょうどよい金額です。見方によっては、この時代に「2000円のベア」があった思うと気持ちの良いものです。

■情報収集は特に困らない
テレビがなくても、スマホのニュースで充分です(テレビで何が起こっているかも、読もうと思えばテレビの内容を抜粋した記事が無限に転がっていますからね)。
情報が偏るのではないか、という心配もないことはなかったのですが、ジャニーズの一件でも明らかなように、もともとあらゆる商業媒体情報にはバイアスがかかっているわけですから、ある意味どんなメディアを見てもどこかで私たちは洗脳されているわけで。
私は、ただただ「一覧性」という意義だけで「新聞」をいまだに購読しているのですが、ちょっとやそっと情報が遅くても、そんなに困りません。庶民レベルで天下国家を語ろうが語るまいが、株価の1つも動きやしないのですから。最新の情報はスマホで見ればよいですし、じっくり背景を確認したければ多少遅くても新聞を解説記事を読めばよい。ニュース番組と言っても、政治的に偏っていたり、なぞの芸能人がコメンテーターをやっていたりするわけですから、それを見ようが見まいが、何も困らないのです。

・・・と、ここまで書いておいて、「やっぱりテレビだ!」と、どこかでリバウンドが発生したら笑えますよね。


2023年9月2日

テレビを売ってみて気づいたことは、テレビというのは自分の好きなタイミングでコンテンツを見られないというウィークポイントがあるということです。動画を「飛ばす」あるいは「倍速視聴」することに慣れてしまうと、決まった時間にアクセスしなければならず、しかも結論がなかなか示されないテレビ番組は、きわめて億劫です。さらに、サブスクリプションとしては極めて割高なNHK代が強制的にかかるという枷もあります。

続いて「動画」。これも、結局「見て」「聞いて」をしないと目的の情報にたどり着かない(一覧性がない)というボトルネックがあります。どうしても時間がかかるのです。また、「おすすめ」で似たものばかりが紹介されるので、「飽きる」というのがあります。むしろ全く違うジャンルのものが「おすすめ」されたほうが、プラットフォームとしての寿命が長くなるのではないか?とすら感じます。

こうしてみると、トレンドがもう一度「静的」なメディアに戻るのではないか、という予感がしています。例えばラジオです。耳さえ貸せば、自然にコンテンツが聞こえてくる。これはラクです。BGMとしてならば。ただ、すでに音が気になってしまっていて、「傾聴」するのはするのでこれも疲れるな、とも思ってしまっています。

そして「Webサイト」や「本」など。これも、自分の意志で読みたいところを読めばいいわけですから、「探す」必要のある動画や、「待つ」必要のあるテレビと比べて優位性があります。「読む」だけ、「見る」だけ、というのが究極には到達点かもしれません。

===
これ以外にも、「面倒なもの」として以下のようなものが挙げられます。どうでしょうか。

まずは3D。定期的に「3Dブーム」はやってきますが、なかなか定着しません。理由は単純に目が疲れるとか、酔うというのもあるのですが、何よりも重要なのは準備が大変ということでしょう。裸眼立体視もあるにはありますが、機材(ヘッドセットなど)を準備して・・・というのはいかにも大げさで、億劫なのですね。

この関連で行くと、仮想空間もそうですね。わざわざデバイスにアクセスして、その中でも社会生活を強いられるというのは相当にしんどいものがあります。日常生活でさえ、コスパだタイパだと大わらわだというのに、さらに別の世界でまであくせくできないよ、と直感的に思っている人も多いのではないでしょうか。本当のところは知りませんが。

あとは音声入力でしょうか。これは薄々気づいている人も多いと思うのですが、声を出すのって意外としんどいんですよね。単純に疲れます。当たり前ですが、何もせずに黙っていたほうが楽なんです。しかも、認識してくれなかったときや誤認識があったときの訂正も面倒です。

・・・ということで、「テレビを売った」というただそれだけで、便利になっているつもりがものすごく「面倒」なものに囲まれて生活しているな、と気づかされたという話でした。


2023年7月25日

『推しの子』で、SNSをバズらせるために登場人物たちがあれこれ工夫しているシーンを見て唐突に思い出した。

もう20年近く前、個人サイトが隆盛だった時代。少し運営に慣れてアクセスが伸びてくると、今風に言えば「バズる勘所」みたいなものが見えてきたことがあった。「ああ、この記事を書けば、あのニュースサイトとこのニュースサイトが取り上げてくれるだろうから、一晩でこのくらいはアクセスが増えるだろうな」みたいな。

今は時代が変わってしまったのでとても無理だが、誤解を恐れずに言えば、ひと昔前は数字を読んで狙って記事を出すことができた瞬間が確かにあった。「バズる」から「共振」へ、そして「流行する」ってそういうことなんだろうなと経験から私は多くのことを学んだ。

ちなみに当時、テキストサイトのアクセスランキング(Readme)で6位まで行ったことがある。これはなかなかすごい経験だったと今でも思う(上位サイトは有名どころばかりである)。

(2005年8月3日の記録)

この時は、「静香ちゃんの入浴シーン」をリスト化したものが信じられないほどヒットした(公開したのは7月29日)。すでに「ドラえもん」ネタでサイトのアクセスが増えつつあったころだ。テーマがテーマだけに、それなりにヒットするとは正直見込んでいた。だいたい、ニュースサイトに取り上げられてアクセスが増えるのが公開日の半日あとくらいから1週間程度まで続くので、ここで日当たり数万はアクセスを増やせる(ピークは翌日に当たるだろう)と思ってはいた。しかしこのときは思った以上に多くのニュースサイトに掲載されまくり、数字が上がり続けてピークが数日後にやってきた。ネタとしては「大バズリ」した。異例だが、海外からのアクセスもかなりあった。普通は1週間くらいで記事の注目度なんてものは下がるが、このときは数週間はフィーバーした。

ここまで当たると気持ちよいが、その後も「ドラえもん」ネタを定期的に供給することで、ある程度アクセス数の伸びを予測することはできていた。そんな時代が確かにあったのだ。

時が変わって同じような「数字の読み・狙い」がきっと「アフィリエイトブログ」「Twitter」「Tiktok」「Instagram」「Youtube」で行われているのだろう。

私の場合は完全に趣味でサイトをやってきた(やっている)ので、閲覧数がそのまま収入になるわけではない。だから呑気なものである。

一方、生業としてブログやYoutubeをやっている人にとっては、数字がそのまま生活の糧になるわけで、それは本当に(精神的に)辛いだろうな、とある意味同業者としてすごく思う。趣味でやっていてすら、「狙い通り」にいけたときの快感と、「狙いを外した」時の喪失感はとんでもなく大きかったのだ。ここに「生活の糧」がかかっていると、並の神経で続けられるものではないと身震いする。「人気商売」そのものだからだ。

Google(プラットフォーム)の匙加減1つで、広告単価もアクセス順位も変わってしまうというのはなかなかしんどいだろう。「毎日更新」しても飽きられる危険性があるし(ネタが続かない恐れもある)、あまりにも更新頻度を落とすと忘れ去られてしまうリスクもある。「つかず、離れず」で登録者数を伸ばして、再生数を稼ぐ。とんでもなくリスキーな商売だ。

ある程度は想像がつくが、おそらくそれなりに登録者がついてくると動画の再生数(≒収入)も読めるようになるはずだ。「この動画は50万再生行くぞ!」と思って(時間とお金を)投資して作った動画が、うまく当たればよいのだが・・・・中には、なぜか想定よりも再生されない動画というのもあって、それはそれは凹むだろう。生活がかかっているから猶更である。

この数字の予測→出稿→結果の確認→次の動画の作成という、まあ言ってみれば記事や動画作成のPDCAサイクルを延々と回し続けているのが「アフィリエイトブロガー」なり「Youtuber」ということになるのだろう。神経をすり減らすこと必至だと思うので、私からすると見ていて他人事ながら本当にハラハラする。

そこでリスクヘッジとして、物販したり、オンラインサロンを作ったり、カップラーメンを作ったりして、「副業」をスタートするわけである。いやもう、「大変だな」と。アイドルでもなんでもそうだが、「あこがれの職業」であれなんであれ、なんでも裏側というのは泥臭くて、血のにじむような努力がそこにはなされているわけで。

だからこそ私は完全に趣味でサイトを運営してきた。サラリーマンで定収を得て、余暇でサイトに心の懊悩を吐き出すということをやってきた。これを商売にしたら(私の場合は)絶対に身が持たないからだ。

「数字を読む」ことでカネにするのは、ふだんの仕事で充分だ(それを仕事にできる人は、できるだけの理由がちゃんとある、ということだろう)。



2023年6月21日

昔は若者が「テレビを見ない」というと「意識高い系」の代名詞だったが、もはや今はそれがマジョリティ。むしろ、若者が「テレビを見ています」というと、「趣味は映画鑑賞です」的な高尚さすら覚える時代。

「元SMAPの中居と香取が、松本の新番組で共演」・・・これだけのパワーワード、かつ、日曜のゴールデンタイムである。私は、ひそかにリアルタイムの視聴率がいかほどのものか注目していた。

結果は「10.5%」だったという。

一昔前なら、「30%」でも行きそうな数字だが、想像以上にテレビが「倦まれている」ことを示す結果となった。

かくいう私も、そもそも日曜の夜9時なんてのんびりしたい時間だし、「まあ、どこかのサイトでまとめ記事が出るだろう」「本当に面白そうだったら配信で見ればいいか」「CMを考えると、テレビの前に座すこと自体が面倒だ・・・」と思ってリアルタイムで視聴しなかった(というか、忘れていた)のだが・・・。

しかも、結局まとめ記事を読めば概要が分かってしまったので、それ以上特に動画自体を見るわけでもなく・・・。

そもそもが倍速視聴の時代である。ショート動画すらじれったいのだ。私はそのうち、動画から静的メディアに揺り戻しが来る(読めばわかることは動画で見る必要がないと気づかれる)とすら思っている。かつてはそんな「読めばわかる」内容を、口を開けて1時間ボーっと見ていたんだな、と思うと、なんだか悲しくなってくる。

まだこうして話題化しているのでよいが、そのうち話題にもならなくなってきたらいよいよまずいということだろうな。


2023年5月3日

■ソフト化

  • 直営はフランチャイズへ。フランチャイズはライセンスへ。
  • ネタ見せはひな壇へ。ひな壇からコメンテーターへ。そして司会業へ。
  • 製造業は蓄えたキャッシュを活かして金融へ。
  • 有名になったらグッズ販売、そしてサロンへ。
  • 当たった作品は続編頼みとなって、やがてスピンオフへ。
  • 現金は銀行振込へ、そして電子マネー、オンラインのポイントへ。
  • アナログカセットはデジタルディスク、そしてデータ販売、ストリーミングへ。
  • 所有権の販売から、使用権の販売へ。
  • 買い切りモデルからサブスクリプションもしくはメンテナンスモデルへ。
  • 多機能優勢から機能特化型へ。
  • モノ消費からコト消費、そしてストーリー消費へ。
  • コモディティ化の進展で一般化、差別化へ。
  • 重厚長大から短小軽薄へ。
  • 面倒からラクへ。
  • 切り抜きから倍速視聴、そしてショート動画へ。
  • 手動から自動へ。

高いところから流れる水の如く、ことほど左様に「快適」を目指して社会は"発展"してゆくのであった。

■AI

未知のもの、よくわからないものを恐れる心はもっともだが、とはいえ、ChatGPTに端を発した世界的な「これ、ヤベーかも」ムーブは、かつての「小説ばかり読んでいると・・」「漫画ばかり読んでいると・・」「映画ばかり見ていると・・」と同様、「新文明」に対する惧れそのものであるように感じられる。おそらくどんなに規制したところで・・・もう流れは止められないのではないか。

人間の思考回路は、突き詰めれば電気信号である。過去・経験の蓄積から「着想」を得るわけだが、・・・翻ってAIも同じく動作回路は電気信号だ。過去・経験の"蓄積"から"着想"を得るのだからして、アウトプットだけを求めれば、実はもうそのプロセス(人間が生み出したのか、AIが構築したのか)は「判別不能」な領域にもなってきている。

何だろうか・・いうなれば、地理を「桃鉄」で覚えようが、「ガリ勉」で覚えようが結果は同じじゃない?・・・・ということだろうか。

人間は自分がインプットできる(要は能動的)存在で、機械は常に受動的であるという見解もあるが、これはプロセスの問題であって、成果物に遜色がなければ、すでに「差分」ではなくなっている。

また「AIは間違いもある」というが、それは人間も同様だ。卑近な例で言うと、自分が少し詳しい分野で「Youtuberの解説系動画」を見てみればわかるでしょう。堂々と間違えているって。もちろん、新聞だって、本だって同じだ。間違える。そんなものだ。要は、「間違えるか、間違えないか」でAIと人間との差分を測る意味はあまりないのだ。

インプットの質やアウトプットの成果だけではかろうとすると、見誤る。人間とAIの絶対的な差分は、肉体と感情でしょう。すなわち、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚(五感)、痛覚・疲れ・喜び・悲しみ・楽しさ・嬉しさ・怒り・煩悶・嫉妬・恨み・・・

純粋なインプット/アウトプット論ではなくて、「人間とAI」とを分かつのは「肉体感」と「感情感」に収斂するのではないか。


2023年4月30日

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

アーカイブ