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当サイトトップページにあった「新着情報」と「毎日更新を目指す Nicky(日記)」の2つが、おそらく不正アクセス(wordpress狙いの)に遭って、完全に破損しました。データベースは幸いにして残っているものの、WP系のフォルダのどこにバックドアが仕込まれているか分かったものではないので、安全のためWP関連のすべてのファイルを削除しました。

また、不正があったと思われる日付を特定し、当該日付以降において更新されたすべてのファイルの洗い出し・・すなわちサイトのクリーンアップを実施し、かつ、今後の対策として現サーバーにおいてWordpressを使用することは今後中止することとしました。

新着情報は、細かいサイト内のコンテンツ追加の情報を2020年3月?2021年8月までの1年半にわたって記録していたものなので、この間の更新履歴が記録として消えてしまったのは正直辛いのですが、もうどうしようもないのであきらめます。というか、もうなくてもいいか、と思っています。

Nickyは、20年の年末から21年の5月にかけて、ほぼ半年毎日更新してきたコンテンツなだけに、記事数もおそらく150本近くはあったのではないかと思うのですけれど、消えてしまったものは仕方がない。あきらめました。

結局のところ、動的なコンテンツって危険なのだということ。
一番アクセスの多い「遠足新報」なんかは、同じウェブログでもHTML生成なので、ある意味ファイルの破損がなく、助かったわけです。静的なサイトのほうがいいとつくづく思い知らされました。

携帯からも更新できるしそもそもスマホ最適化されてるし、WPいいじゃん!とか思っていたのですが、このサイトはそういうのは向いていないんだな、と改めて思いました。


2021年12月7日公開

純文学と自己啓発。全く違うものだが、同根の場合があるという話。

純文学系の文章を読んでいてとんでもなく疲れる作品というのがある。そこには、「自分はこんな社会に合わせて生きていくのが辛い。そんな私の叫び(怒りや嘆き)を見て!」というメッセージが書かれている。

要は「社会の矛盾に気づいてしまった自分は特別だ」ということが言いたいわけで、それをネクラな表現で主張しているのだ。ダウナー系の自己肯定ともいえる。

一方、自己啓発系の文章を読んでいても、とんでもなく疲れる作品というのがある。そこには、「自分はこんな社会に合わせて生きていくのが辛い。そんな私の叫び(怒りや嘆き)を見て!」というメッセージが書かれている。

要は「社会の矛盾に気づいてしまった自分は特別だ」ということが言いたいわけで、それをネアカな表現で主張しているのだ。アッパー系の自己肯定ともいえる。

純文学と自己啓発。ときに、根は同じである。どちらも「自分は特別」で「社会が異常」と言っているわけだ。自己肯定と他者否定のロジックで一気通貫しているところがそっくりなのだ。

だから、読んでいて妙に疲れることになる。現実で「自分の主張ばかりして他者の批判ばかりしている人」と一緒にいたら疲れるのと同じだ。

誰だって、社会に合わせて生きていくのは多かれ少なかれ辛いし、大抵は我慢して日常と折り合って生きている。特段、当該の表現者が「特別」というわけではない、と思う。

「自分は何者でもなく」て、「社会はいつもその何者でもないものの集合体である」、つまり、「日々是普通」だと思えば、もっともっと心が穏やかに過ごせるのである。

「自分が特別な何か(でもその領域には達していない)」だと思うから苦しくなるのであって、最初から「自分は何者でもない」と思えれば、素の状態、すなわち現状肯定からはじまることができるので、逆説的ではあるが、社会の判断=他人の価値判断に惑わされることなく、却って「自分」を確立していけるのである。人間を描く文学も、内面を高める啓発も、この「現状肯定」のプロセスをぬかしてはならないはずである。

もっとも、「現状を否定して、自分の信じるよりよいと思われる価値観を押し付けあうこと」が現代の政治であり、経済であり、社会構造そのものである。

だからある価値の提供者は常に「最初にそれに気づきし者」として振る舞い、絶対的な自己肯定の姿を纏う。そしてある価値の被提供者は、提供者から特別に「気づかされし者」として提供者から特別に肯定され、その価値観の世界において優位な地位を得る。そしてその価値観の埒外にいる第三者は、たいていは否定され、排除される対象となる(無視され、いなかったことになることもある)。

会社も、怪しい集まりも、あらるゆる社会活動が「価値創造の提供と継続的な顧客・信者・シンパ囲い込み」で成立していることには、よくよく留意しておきたい。

提供者>被提供者>第三者というヒエラルキーがある以上、「現状肯定」は価値を肯定したい(定義づけたい)提供者にとっては邪魔でしかない。現代社会は「価値提 供者争奪レース」であるからして、その構造上、絶対に「現状肯定」は生まれないのである。

だからこそ、現状肯定の視点を以て、日々の業務にあたらなければならない。


2021年2月14日

辞めるときに「円満」っていうのはない。
だって、現状に何らかの不満があるから辞めるんだもの。

【円満(えんまん)】かどだたず、おだやかな様子(oxford Languages)

「円満退社」「円満離婚」という言葉が使われるが、これは語義が矛盾している。どちらかというとこのニュアンスは、「納得退社」「納得離婚」に近い。

【納得(なっとく)】他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること(oxford Languages)

そう、「納得」ならわかるのよ。お互い「もっともだ」と思って合意に至ることでしょう。

これまで「笑顔で」退社、というのはいくつも見てきたが、わざわざ揉める必要がないからお互い笑顔なだけであって、やめればどこかに角は立つし、抜けた穴を埋める必要もあるから穏やかなことばかりじゃない。こういうのを円満とはやはり言わないのだ。

採用の格言に、「前の会社の悪口を平気で言う人材は、絶対に採用してはいけない」というのがある。表立って悪口を言うのはそれだけ「危険人物」ということだ。そういう社会通念があるから、誰もわざわざ和を乱さないだけのことである。

だから、退職ということについて「円満」を強調することには何の意味もない。強調すればするほど、「円満」・・もとい、「納得」退社ではない、ということを自ら証明することになってしまうのである。

・・・といったことを考えながら、大著『詐欺とペテンの大百科』を読む。古今東西、人は人を安易に信じて、いつも容易く騙される。

まあ、「この人のいうこと、すごい!」って思って心酔してしまうと危険なんだろうな、ということは朧気ながらでもわかる。複数の相反する人の意見を受け入れるくらいでちょうどよいみたいだ。「中庸が大切」とはよく言ったものである。

でも、それを実践するのは骨の折れることだ。認知コストを下げるために、どこかの「輪」に入って、「考えることをやめる」方が圧倒的にラクなのよね。

でも、その「楽さ」、すなわち「考えることをやめること」というのが、付け込まれるポイントなわけだ。心が弱っているとき、その「隙」が忍び寄ってくる。


2021年2月2日

厭戦気分ってやつだ。もう笑っちゃうくらい、政府と国民の心が乖離しているのが分かる。政府はオリンピックが命なので国民のことなんてどうでもいい(死なない程度に税金を納めてくれ)とおそらく本気で思っているし、国民は国民でそんな政府の魂胆は見えているから「生きていける程度に」いうことをきく、と。そんな「相互不干渉の均衡」で日常が成り立っている。

まあ、昔からそうかもしれないが、ある意味、政府と国民の距離感としては今みたいな「相互不干渉の均衡」くらいでちょうどよいのだろう。近すぎても管理型になってウザいし、遠すぎてもカネが回らなくなって死んじゃうし。こんなもんなのだろうな、と思う。お互いに期待しない感じ。ある意味心地よくないですか。

なんでもそうだが、期待するから裏切られて怒り狂うわけで。とっくの昔に「期待」をぶつけ合う「政治の季節」なんて終わっていて(だから野党は受け入れられないのだ)、人口が増え続けていたから享受できた「経済の季節」もとうに過ぎて(だから可処分所得は減り続けるのだ)、余ったカネで一儲けする「拝金の季節」も終わりを告げて、「あきらめの季節」が到来しているのである。

その証拠に、子どもが減っているでしょう。だから人口も減り続けている。今から何やったって「減ったペア」からしか再生産はされないのだから、国自体が確実にどんどんダウンサイジングしていくわけですよ。政府も国民に期待していなけりゃ、国民も政府に期待していない。同じ考えなのだから、期待値はどんどん下がる。まあ、よい均衡じゃないですか。もっとも、縮小均衡だけど。

***

さて。みんな大好き「オリンピック」である。現状は、とにかくオリンピックをやりたくて仕方ない人たちと、別にどーでもいいほとんど(8割)の国民。そこから遊離する選手たち。何がスポーツマンシップか。どこが復興か。

私は別に「お金のために」大運動会をやることを非とは思っていない。興行ですからね。確立したビジネスモデルだから、やりたければやりたいひとがやるのはよいと思う。需要があれば金が回るわけですからね。カネが回れば復興にもつながるしね。論理はどうあれ、また倫理的にどうあれ、「やりたければやればいい」という性質のものでしょう。

ただ、それって平時ならね。ここがポイントなのよね。

今は戦時だから、「こんなところにカネをかけてんじゃねーよ」と思っている人がたぶん、普通のときよりは間違いなく多いということよね。コロナで大赤字に陥ったスポンサー企業の従業員だったら、「それを給料に回せよ」ってたぶん思うよね。国民だって、「そんなところに税金回すなよ」という気持ちは、平時よりも強いはず。

もちろん、選手個人に罪はまったくない。この状況は非常に気の毒である。だが、「中止したら準備をしてきた選手がかわいそう。時期を逃す」という言葉で良心を攻撃するのはちょっと違う。

いいですか。どれだけの人がこのコロナで涙を呑んできたか。コロナで傷ついたり、ボーナスがカットされたり、おかしくなってしまったり。選手「だけ」が特権階級なのではなくて、多くの人が日常の生活を狂わされているわけです。何かを特別扱いをすると、必ず分断を生みます。

「時期を逃す」といったら、じゃあ、「卒業式」「入学式」「甲子園」「成人式」その他、「一生に一度」のイベントを逃した人は何万人いるんだって話なわけですよ。

もともと、オリンピックで利益を得るはずだった業界の損失を補填する「GOTO」キャンペーンだって、それが直接の原因かどうかはともかくも、国民の気を思い切り緩ませて、次の緊急事態宣言を惹起してしまったわけでしょう。金が回るはずだった業界を傾斜的に支援しているつもりが、却って深刻な損をさせることにもなっている。

今の「飲食店一律給付」だって、飲食店を応援するつもりが、「コロナバブルだ!」と批判を生む温床にもなってしまっているわけですからね。支援で分断を生んでどうする。

ただでさえ「上級国民」というスラングが人口に膾炙している時代である。オリンピック基準で傾斜的な財政出動ばかりをしているために「プチ分断」が起こっている中、オリンピックを強行すれば、スポーツそのものはもとより、スポンサー、その他「オリンピック」を連想するものへの風当たりが強くなることは火を見るよりも明らかだ。

もはや何がやりたいのかさっぱりわからない。平和の祭典どころか、分断の序章みたいなことをやってどうする。

ただ、そういう諸事象への怒りはまったく沸かない。ここまでくると、批判する気持ちにもなれず、ただただ、諦観するほかなくなるのである。

「オリンピック」に一億火の玉、心頭滅却すれば火もまた涼しで飛び込むのもよし。できもしない「コロナ撲滅」でぺんぺん草も生えないくらい経済を壊滅させて、経済が焦土化するくらいのロックダウンをするも自由だ。もう好きにしたら、という感じである。

今の気持ちでいうと、「やろうがやるまいがどうでもいいけれど、とにかく早く終わってくれ。ただ、お願いだから巻き込むな」という感じだろうか。

・・・こうやって書いていたら、本当にどうでもよくなってきた。巻き込まれたら全力で拒否する所存だが、巻き込まれない限りは、ちょっともう関知する気持ちにもなれない。それくらい、少なくとも私の心は倦んでいる。

***

マスクつけて、手洗いうがいをして、三密を避けて、早寝早起きをして、三食食べて、健康に生活しようっと。別にオリンピックをやろうがやるまいが、自分の生活には関係ないんだった。もっと自分のことを心配しようっと。


2021年1月30日

■当たり前を見直す
コロナ禍で、痛切に感じたのが「当たり前は、実は思い込んでいるだけ」ということがいかに多いか、ということであった。

「人が一堂に会さないと仕事はできない」というのは虚構も虚構であった。あらゆる「デスクワーク」は、文字通り「デスク」ワークであって、「オフィス」ワークではないということを思い知らされた1年であった。

さて。これだけ「人と会うな、社会的距離を取れ」の大合唱を受けると、これまでのいろいろな常識や慣習も、もしかしたら「思い込んでいるだけ」なのではないかと感じることが多くなってきた。

「列車の中でタバコを吸うのが当たり前の時代」と、「電車の中でタバコを吸うなんてとんでもないという時代」には隔絶がある。

「駅前に公衆電話がずらりと並んでいる時代」と、「携帯電話でいつでもどこでも連絡が取れる時代」にも隔絶がある。

「コンサートやライブはチケットを買わないと見られない時代」と、「オンラインで誰でもライブを視聴できる時代」にも隔絶がある。

■「コモンセンス」と「変化」の合間で

最初に断っておくと、長年培われてきた「慣習」「習慣」「慣行」「常識」「伝統」といったものは、絶対に馬鹿にするべきものではない。これまでの人類の営みの集合で「やっておくべき」「やっておいたほうがいい」あるいは「やらないとまずい」そんな「知恵」の集合体だからである。

ただし、一方で、社会は常に変容するものでもある。「歌は世につれ、世は歌につれ」なんていう言葉もある。「進化論」を持ち出すまでもなく、「社会の変化に適応できなければ、淘汰される」危険性もある。例えば今、ちょんまげで入社試験を受ければ、間違いなく就職は困難を極めるだろう。お歯黒でミスコン1位も難しいだろう。太陰暦だけで生活をしていれば、社会生活も儘ならない。

ということで、こういう「常識」と「変化(進化)」の中庸で私たちは生きていく必要がある。ものすごく長い間の「伝統」だと思ったら、実は明治以降の慣習だったりすることも多い。そのあたりをよくよく吟味して注意深く生活していく必要がある。

■年賀状について

そして、今の時期柄、最も「変化」させるべきと思うのが、私にとっては「年賀状」であった。

年賀状の起源は、平安時代後期まで遡れる(「年賀状博物館」)という説もあり、やや人口に膾炙している感のある「郵便制度ができた明治以降の制度だから、伝統なんてない」ということではどうやらなさそうである。

そもそも、「年始のあいさつ回り」の代わりとなる書状が「年賀状」であるからして、「年始の何らかの挨拶」というのは、かなりの昔から「伝統」として続いてきている、ということだ。

要は、「新年のあいさつ」そのものは、形を変えど、残り続けている。今は、「直接会う人は直接」、「そうでない人とはほぼLINE」ということに相場が決まりつつある。あいさつがなくなるのはどうかと思うが、人々は挨拶そのものを捨てたわけではない。「何らかの形であいさつする慣習」は非常に根強く、人々の間に残っているわけだ。

それでいいんじゃないか、と思う。
というか、そう思う人が増えた。「年賀状じまい」とか、「職場間や企業間での虚礼廃止」はもはや普通のことになった。よく考えると、私自身をみても、20年/21年比で-50%である。最盛期はおそらく120枚くらい書いていたので、もはや感慨深くすらある。

年賀状そのものはなくならないはずだが、おそらく、賀状のやり取りは「親戚」「恩師」「恩人」くらいに収斂していくのではないか。

結果として急速に年賀状の発行枚数は落ちている(ピークが2003年の44億5946万枚、2021年が19億4198万枚。前年比で-17.4%減、ピーク比で-56.5%)。ちなみに、この間の象徴的な出来事として、「プリントゴッコ」は2008年に販売終了している。

■拝金社会では決して抗えない「コスパ」

一度、「やめてみると、こんなに時間とお金が浮くのか」と知ると、人々は、ますますラクな方に靡いていく。これは世の道理である。

*お金は、「年賀状代」「印刷ソフト代または印刷委託代」「プリンターのインク代」
*時間は、「デザイン決定」「住所録メンテナンス」「コメントを書く」「デザイン決定までの家族間の喧嘩」

これらの手間暇が、「LINEのスタンプをポチ」という「0円・ほぼゼロ時間」に経済合理的に勝てるわけがないのだ。

■「元旦に届く」ということの意味を問い直す

私は、元日に年賀状を確認する(郵便受けを確認する)ことを、ちょうど今年からやめた。いつも、年明けの昼前頃に「あ、あの人に出していなかった」とか「あ、あの人に出したのに届いていない」とかやきもきするのが、いい加減に厭になったからである。

また新年早々、「コメントなし」の賀状を見て、「無理して出されなくてもよいですのに」と一瞬でも思ってしまうのも、もう嫌なのだ。

で、「元日に年賀状を見ない」を実践したところ、驚くほど精神衛生上の安定が得られて自分でも驚いた。「年賀状は、元旦に届くもの。こ昼前には確認しなければ!」という一種の強迫観念である。この感情、明らかに不要なものであった。

・・で、この考え方を延長させていくと、「別に、コストをかけて元旦に配達しなくてもよくない?」ということに思い至る。元日の夕方でもよいし、3が日にしたってよいし、もっといえば「松の内まで」にしてもよい(7日ないし15日まで)。考え方によっては、旧正月までだってよい。企業宛の年賀状なんて、どうせ年明けにしかポストを開かないわけだし。

「働き方改革」のご時世である。電車だって終電を繰り上げて、終夜運転すらしないのだ。コンビニやファミレスも「24時間営業」の看板を取り下げはじめている。「年賀状配達」だって、無理に「元旦」に届ける必要が、もしかするとないのかもしれない。

「実家に帰省していて、3日の夜に帰ってきたら年賀状がポストにどっさり。明日から仕事だというのに、長距離移動で疲れた体で慌ててプリンターを起動したらインクが切れてて大騒ぎ・・・」なんて人も多かろう。こういう人にとって、「1日」に年賀状が届いている必然性など、全くないのではないか。

ただでさえ、はがきは値上がりしているのである。平成の頭は「41円」だった。令和の今や「63円」である。30年で1.5倍だ。値上げそのものにどうこう言っているのではない。「必ず元旦に配ることのコスト」と「まあ、正月の間に配れればよいや、のコスト」との感覚はどうなっているのか、という話である。

■年賀状を「松竹梅」に分けたらどうなの?

そこで、提案。

相手にわからない形(バーコード)で「特急年賀状(28日までに投函で必ず元旦に届く)」と「普通年賀状(28日までに投函で1月7日までに届く)」「エコノミー年賀状(28日までに投函で1月15日までに届く)」に分けたらよい。デザインを同じにすれば、わかるまい。

「特急」は+200円(つまり263円)、「普通」は+50円(113円)、「エコノミー」は63円である。

所謂「松竹梅」の商法と同じで、大多数は、おそらく「普通(竹)」を選ぶだろう。63円→113円と179%の値上げなので、仮に発行部数が30%程度減少しても売り上げ実額は確保できることになる(もっと減るかもしれないが・・・)。

年賀状は、何となく「特別感」があるように見せて、実は最も「急を要する文書」ではない。だからして、エコノミーの値段を普通郵便と同じにして変えなければ、実は国民生活を脅かすことには至らないのである(エコノミーという選択肢は担保されている)。ここがポイントだ。


2021年1月2日
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