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この2020年は、「当たり前を疑う」ことをつくづく、思い知らされた1年であった。

コロナ禍によって、「当たり前」だと思っていたことがいかに「常識の壁」によって阻まれていたか、思い知らされることになった。

***テレワークでわかった、仕事の「当たり前」の虚構

「市井の生活者」という視点で一番大きかったのが、やはりテレワーク化の急激な進展であろう。これ以前の生活様式が、もはや嘘のようである。

そう。もはや、完全に身体がテレワーク仕様になってしまったのである。
今までどうして、「決まった時間に電車に乗って、決まった時間に出社して、決まっていない時間に帰宅」していたのだろうか。信じられない苦行をしていたものだ。

仕事のうち、「資料作成」「情報収集」「アポ取り」「情報共有」「会議」「打ち合わせ」「構想を練る」に関わる領域は、ほぼ間違いなく、「会社でやらなくてもできること」だ。というか、「デスクワーク」というくらいだから、机でやれることは基本的にはオフィスでやらなくてもできてしまうのであった。どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう!

物理的に見ても、判子は必須ではなくなりつつあるし、経費精算だって電子化が進む。印刷はコンビニでもできるし、FAXなんて使うことはほぼない(よく考えたら、今年はついに1件もFAXを送らなかった!)。

物理的に「オフィスでしかできないこと」が急激な勢いでなくなっているのだ。

では、オフィスで必要なこと(オフィスでしかできないこと)は何か。究極的には「日常の動きの中で、刺激を受けること」くらいしかないのではないか。「〇〇さんの会話を小耳にはさんで自然と学ぶ」とか「ちょっと相談」とか。いわゆる昭和型の「ワイガヤオフィス」で得られた「暗黙知」の部分である。

こればかりはTeamsなりSlackなりZoomなりSkypeなり、オンラインツールでは出来得ない「何か」空気的なものなのだと思う。だからオフィスは「完全には」なくならないし、なくすべきではない。

とはいえ、である。オフィスで毎日働きづめる必要もないのだ。
人類は「楽な方向」へ行くように進化する。
もはや、「毎日出社」社会には間違いなく戻らない。なぜならば、それが楽だから。

すると経済合理的にみて、賃料の高い都心部のオフィスは急激に減床(社員の収容数をハナから100%で設計しない)していくことが容易に想定される。これはもはや、「時代の転換」というやつだ。

そうなると、どういうことが起こるか。少し考えてみるだけで、以下の10点が思い浮かぶ。急激すぎる大転換である。

(1)電車に乗る回数が激減する
「移動せずにできること」が極めて多いことに、誰もが気づいてしまった。通勤だけでなく、移動や出張も「わざわざしなくても・・」ということになる。

(2)通勤経路に乗じたビジネスが変容する
通勤頻度が減るのだから、会社帰りにわざわざ単価の高いエキナカ・エキチカのお店に寄る、といったことがそもそも少なくなる。

さらに通勤手当が廃止されて「交通費の都度清算」が増えれば、ますます「通勤経路の途中で寄り道してお買い物」などもしなくなる。

(3)ビジネス街の商売が変容する(訪問販売、ビジネス街のコンビニ、昼食など)
通勤しないのだから、必然的にお昼もそこで食べなくなる。給茶機の減りも悪くなり、オフィスのお菓子も全然なくならない。

仮に部署の半数の人間が週2テレワークをするだけで、単純に胃袋の数は4割減である。この影響はかなり大きい。

(4)オフィスファッションビジネスが変容する
スーツを着なくなる。革靴を履かなくなる。ネクタイを締めなくなる。腕時計もしない。ベルトも痛まない。鞄もほとんど持ち出さない。・・オフィスファッションは極端な変容を見せるはずだ。

(5)在宅勤務向けのビジネスが伸長する
家具の新調。気になる部屋の掃除。「家にいる時間が長くなる」ゆえのビジネスは伸長する。

(6)駅チカではなく、家チカビジネスが伸長する(近所のスーパー、商店街など)
駅チカにわざわざ行くのではなく、家チカで昼を済ませる。気分転換は近所の散歩。「あ、こんな店あったんだ。意外とおいしい」で常連へ。家チカビジネスが相当にアツい。

(7)「飲み会」が消滅する
最初に書いておくと、「飲ミニケーション」というのは、先述した「暗黙知」の1要素であり、ここで会社の「空気」を学ぶという要素があるという点で、飲み会は(少なくともコロナ前の時代においては)重要なコミュニケーションの場であったことは疑いない。

しかし、「集まらない」社会になってしまったゆえに、1回で3?5000円/人が費消されてきた「飲み会」(懇親会、会社帰りの愚痴大会、忘年会、納会、新年会、歓迎会、送別会、2次会周り)は、もはや風前の灯火である。まさか「忘年会」や「新年会」がなくなるなんぞ、去年は誰も思わなかっただろうなぁ。「三密を避ける」を大義名分に、これ幸いと右へ習えで「やーめた」って人も多いのではないか。

飲みたい人どうしは言われなくても飲むわけで、「飲みたくない人が駆り出されない」という点で、「よかった」という向きはとても多いのではないか。これまで、「特に飲みたくない人と飲む」ことにどれだけの人が時間と金銭とことによっては健康コストを費やしてきたかと思うと頭がくらくらする。

ちなみに「オンライン飲み会」などの手段もあったが、それとて「切りどきが分からず意外としんどい」ので定着しきらず(最初は珍しさで流行ったが)、ちょっと残念な感じになっている気がする。おそらく、これは従来の「飲み会」の代替にはならないだろうな、と感じている(1時間強制終了・再入室不能くらいのシステムじゃないと、毎回やる気にはならないだろうね)。

(8)「終電ビジネス」が変容する
多くの鉄道会社が、コストばかりかかっていたであろう深夜帯の列車運行の切り上げに舵を切った。そもそも遅い時間に飲み歩く人の絶対数が減っているから、終電逃がしの「タクシー」「深夜バス」といった分野も以前ほどの需要は見込めない。折からの人手不足で深夜のコンビニも休業するケースが出てきた。夜の歓楽街の人手が減ったので、畢竟、漫画喫茶やカラオケ、カプセルホテルなどの「一晩過ごせる」空間の需要の絶対数も変容をみせるはずだ。

(9)「貸会場」も変容する
コロナ前、コスト削減の観点から「オフィスを減床して、大きめの会議やセミナーなどは会議室を都度借りたほうが安くない?」みたいなことが流行した。実際は、同じことを考えている企業が多かったので、会議室を借りるコストが意外と高くつき、「想定していたよりもコスト削減にならない!」なんていう笑えない話を見聞きした。が、それも今は昔。

オンラインで会議やセミナーができてしまうのだから、わざわざ高コストの会議室を借りる誘因が完全になくなってしまった。「打ち合わせや会議、ミーティングは原則オンラインで。オフィスには会議室は設けない(その分減床する)。どうしようもないときだけ、外部会場を借りる。」というのがこれからの標準的なオフィス設計になってくる。そこへどう「貸会場」が切り込むか。

(10)なんでもオンラインが普通になる
結果として、ビジネスモデルは大きく変容していかざるを得ない。平たく言えば、「直接会うこと」はほとんどなくなり、「なんでもオンライン」が普通になるということだ。これに適応できるかどうか、がそのまま自分自身のQOLともつながっていくことになる。

このように、あまりにも「仕事の当たり前」が、実は虚構に満ち溢れていたことに気づかされるのである。「これまでのこうあるべき律」からの脱却・・これは、人口オーナス期に突入し、「放っておいても売り上げが上がる時代」をとうに過ぎた日本が直面する「生産性向上」のための第一条件であるのかもしれない。

***長い「自粛生活」でわかった、日常の「当たり前」の束縛

都合、我々は2月中旬くらいからほぼ1年間にわたって、「非日常の日常化」というフェーズを歩んできた。ほぼずっと「自粛生活」を余儀なくされ、それがむしろ普通になる「ニューノーマル」を演じることとなったわけだ。この結果、日常の「当たり前」が、むしろ「それ、今やらなくてもいいんじゃない?」ということの連続によって成り立っていることに気づかされたのである。もちろん「歳時記」は重要であるが、あまりにも「やること」に私たちは追い立てられていたのではないか。

(1)学校に毎日通うこと
昔から、「皆勤賞のために、クラス一丸となって全員が出席できるクラスをつくる!風邪でも1時間だけ出席したからOK!」というニュースを見るたびに、「頑張るところが違うよなぁ」と思ってきたが、このコロナ禍で「皆勤賞」という仕組みの虚構性が浮き彫りになった。「具合が悪かったら、休む(人にうつさない、自分も早く治す)」という当たり前のことが、ようやく・・・ようやく日本の公教育で認められたのである。

だいたい、徒歩20分かけて毎日通学させる必要はもはやなくて、オンラインでできるものはオンラインでやればいいし、飛び級も落第も作って「できる奴を伸ばす、できない奴も救う」という個人別教育を入れていくべきなのだ。必要なのは多様化・個人別カスタマイズであって、「みんなで同じ空間で同じ字を書いて、同じ絵を描く」ことではないはずだ。

これからの時代、「テストで習っていない漢字を書く生徒には×」とか、「りんごが5個入ったかごが7個あります、という問題に7×5と式を立てると×」とか、狭隘な視点の教育は淘汰されるべきなのである。まったく意味がないから。

※ちなみに私は「集団教育に意味がない」とは一言も書いていない。集団で何かをすることの意義はある。しかしそれは、あらゆる時間を同じカリキュラムでやることとはイコールではないはずだ。

(2)GW、お盆、年末年始の過ごし方
「長期休み=旅行、レジャー」という構図が、完全なる強迫観念であることが分かった。必ずしもこの時期に誰も彼もが民族大移動をする必要はないし、時間があるからこそ「家やその近所で過ごす」という楽しみ方もある、ということは多くの国民にとっての「気づき」となったはずである。

(3)多くのイベントと付随する購買行動
新興のハロウィンをはじめとして、「イベント=バカ騒ぎ、何か記念になることをする」がすっかり定着してしまった。これも一種の集団強迫観念であったことが判明した。別にハロウィンで渋谷に集まらなくても、クリスマスでイルミネーションを見なくても、別の楽しみを見出してしまえることに気づいてしまった。

(4)「24時間社会」
24時間社会の旗振り役であったコンビニが、「深夜営業」に白旗を上げつつある。人手不足から、ファミレス業界は早々に(コロナ前から)「24時間営業」の旗を降ろしてきたが、いよいよ「深夜に開いている意味」が問われる社会が到来した。

飲食店への度重なる営業自粛要請、さらにこれに追い打ちをかけるように鉄道各社の終電切り上げと、「夜型社会」そのものの存在が問われようとしている。

(5)病院に気軽に行くこと
日本の医療費負担(特に高齢者)が相対的に軽いことで、「病院が高齢者のサロン化」していたことはよく指摘されてきたことである。今は高齢者が行かなくなったので、病院がむしろ「空いている」。コロナ発生後に都合3回ほど病院にかかったが、いずれも空いていて、スピーディーに診療していただけた。こんなこと、今まではなかった。・・・ということは今までどれだけ、「サロン」に国民の血税(実質税の健保料含む)が費やされてきたのか!

・・と、思いつくだけでいろいろと「当たり前」だったことが「当たり前」でなくなっていることに気づかされるのである。


2020年12月27日公開

このウェブログのタイトルが「編集後記」だったことを今更ながら思い直した。

観る人からすると、お、何か掲載されているネタの裏話かな、なんて期待して開くと、突然、エコに対して激怒していたり、消費増税にブチ切れていたり、かと思うと突然映画のレビューをしていたり、全然このサイトの話をしていない(していることもあるが)。そう、まったく「編集後記」ではない。

・・・ということで、ちょっとは珍しく「編集後記」をしたいと思う。

***
2020年11月8日のトップページのネタについての制作話から。
まずオープニングとエンディング画像について。普段はソースを書かないが、これは千葉市花の美術館(三陽メディアフラワーミュージアム)である。ここはゆったりといろんな花を眺めることができるのでなかなかおすすめのスポットである。1つ1つ装飾もかわいいのよね。掲載した写真も、ディスプレイが可愛すぎてフォトジェニックすぎて、どうしても撮っておきたくて撮ったもの。愛らしいものが好き!

次にネタについて。コメントにものすごく時間がかかるネタもあるのだが、これはスパーンと決まった。ほとんど言葉なしでいける、シンプルなネタが一番気持ちいい。作っていて最高なのは、看板を見つけた瞬間にネタまで出来上がることだが、これは何となく感じるものがあって写真を撮って、PCに保存して、画像を見たときにコメントが急にインスピレーションが湧き上がってきたパターンである。気持ちいい!

ちなみに最近は電動自転車を買って、それでサイクリングをしながら神社巡りをしたり、サイクリングロードを走ったり、スーパー銭湯に行ったりするのが趣味になっているのだけれど、その道すがらで発見した看板がネタになっている。「趣味」と「実益(何のだ)」を兼ねているのだ。

最後にお約束のはとについて。「鳩時計」、そのまんま。気持ちいいくらい「鳩時計」。ちなみにここは葛西臨海公園。ここの葛西臨海水族園は非常におすすめである。メインはマグロ大水槽とペンギン島なのだが、それ以外にも様々な珍魚、海鳥などラインナップが充実。「ショーなし」だから比較的安いし、万人向けの好スポットだと思うなぁ。

***
youtuberの動画を見ていると、「僕の制作環境を発表します」的なのってよくある。誰がどんな機材や部屋でクリエイティブ活動をしているのか・・というのは、男心を実にそそられるのである(だからヨシダヨシオさんとか、「作業部屋」ベースだから超おもしろい)。

雑誌なんかで「漫画家の部屋公開」とか、「ここであのアニメが作られている!」的な企画も大好きである。

ということで、「ううせいじんの制作環境 大公開」のコーナーが突然はじまる。

(※画像が消えてしまいました/2022年1月補注)

これが私の制作環境である。
上段は時計、卓上カレンダー、ティッシュ、薬箱、しおり、置物であり、
下段は電気スタンド、ノートPC、マウス、アロマスティック、文房具入れ、置物である。

シンプルでしょう。
デスクトップもこんな感じである。

(※画像が消えてしまいました/2022年1月補注)

決してミニマリストではない。むしろ、「物を捨てられない野郎」「趣味は読書と積ん読です」的な感じだが、作業環境はシンプルなのだ。

さあ、お待ちかねのQ&Aコーナーである。

Q「どんなPCを使っていますか」
A「別に動画サイトでもないし、ごく普通のノートPCを使っています。え?スペックですか?2011年から8年間愛用していた(Windows7→8→10 Proと入れ替えて使ってきた年季モノでした)東芝のDynabook T551が壊れたので、2019年の秋にLenovoの IdeaPad L340に買い替えたんですよ。CPUはIntel Core i7-8565U(第8世代)、メモリは8GB、SSDは1TB。Windowsは10 Home。普通にこのサイトを編集する分には何のストレスもないですね」

Q「どんなソフトでサイトを作っていますか」
A「マイクロソフトのWebオーサリングツール「FrontPage2002」を使い続けています。Office XPの時代からのものだから、かれこれ・・・15年じゃくだらないくらいお世話になっています。さすがにWindows10で動かすにはちょっとした手間が必要だったのですけれど、ちゃんとマイクロソフトのライセンスも通ったし、愛用しています」

Q「写真は何で撮影していますか」
A「以前はデジカメを使っていました。ただ、iPhoneになってからはもっぱらiPhoneだけになりました。ちなみに今はiPhone8を使っていますよ。」

Q 「Youtubeはやらないんですか」
A インスタでもブログサービスでも、TwitterでもYoutubeでもなんでもいいんですが、せっかく自分でつくったものが「他人のトラフィック」になるんですよ。もしそのサービスが終了したら、「自分がやったこと」は、その痕跡ごと消えてしまう・・そんなの収集癖のある私にはとても耐えられません! 原則は自分のドメインで、つまり自分のお庭で遊んでいたいので、やらないと思います。楽天が買収したinfoseekのiswebが突然、全部消されて以降、クラウドサービスに頼るのはやめようと決意したので(使っても期待はしない、いつか消えると思う、ということです)。・・・で、答えていて気づきましたが、ここは「持ち家信仰」的なモノがあるのかも・・・


2020年11月8日公開

夏から秋にかけて、3本ほど映画を見たので、唐突にそのレビューをしてみたいと思う。
『映画ドラえもん のび太の新恐竜』
『ミッドナイト・スワン』
『朝が来る』の3本だ。ネタバレを含む。

■のび太の新恐竜
コロナで史上初の上映延期になった映画ドラえもん。
1作目「のび太の恐竜」、初リメイク「のび太の恐竜2006」・・とやって、「新恐竜」。しかもリメイクではなくて完全新作だという。はて。まったく前情報なしで観た。

なるほどね。これは確かに「新恐竜」だ。新発見の恐竜という意味でも(最初作のピー助はフタバスズキリュウ)、鳥に進化した最初の恐竜という意味でも、これまでの『恐竜』とは違った「映画ドラえもん」という意味でも。

もともと『のび太の恐竜』は「いつもと違ってドラえもんの道具に頼らぬのび太たちの努力」というところがテーマだった。今回の「新恐竜」も、「努力」がテーマであることには違いない。ただ、通底するテーマは近似なのだが、40年もたつと、その描かれ方はまったく変わってくる。これが最大の感想だ。以下、それを詳しく述べる。

のび太は、原作では「日本一ダメな少年」である。だから、『恐竜』および『恐竜2006』は、感動作品としてやや誇張的に語り継がれてはいるが、よくよく冷静に見ると、「のび太が育てた恐竜が大きくなりすぎて、過去の世界に返しにいくしかなくなった」という、ある意味で「少年が勝手に巻き起こした話」なのである。

これはちょうど、祭りで手に入れた「金魚」「ミドリガメ」「ひよこ」が大きくなりすぎて、飼えなくなって、どこかで放出する・・というのと同じ構図なのだ。

これ、妻に言わせると「のび太が身勝手すぎて作品に感情移入できない」という。怒ってすらいた(余談だが、『ドラビアンナイト』で静香が奴隷商人に連れまわされるシーンでも、「のび太の勝手で静香がひどい目にあっているのに、のび太たちはシンドバッドの宮殿で飲み食いしていて酷い」と怒っていた)。

ただ、ここが『ドラえもん』のキモなのだが、そもそものび太は日本一ダメな少年なのだ。子どもというのは基本的には無邪気に身勝手で、怠けたい気持ちもあって、それでもやさしさや「ちょっとがんばる気持ち」がある。決して「いい子ちゃん」ではない。ともすれば「残酷さ」すらある。F先生の描いている子どもというのは、そんな「どこにでもいる」普通の子どもである。

敢えて陳腐な言い回しをすれば、「等身大の子ども」を描いているのだ。日常に接続した非日常・・これを「SF(すこしふしぎ)」と表現したF先生の言葉はとても深い。だからこそ、子どもは違和感なくドラえもんの世界に夢中になれるのである。

『恐竜』の身勝手な部分(勝手に恐竜を育てて、急に育てられなくなる)とがんばる部分(それでもピー助のためにがんばるんだ)、すなわちある種の残酷さとやさしさの奇妙な同居、という「子どもらしい部分」のミックスというのが、『恐竜』前2作のポイントだったのである。

そこへきて今回の『新恐竜』だ。今作は、のび太自身が「僕のわがままで育てた」と責任を自覚している。これは明らかに、自覚的に「わざと」入れている表現だと私は直感した。今は、妻が抱いたような感想(身勝手すぎて感情移入できないという気持ち)を『恐竜』前2作で感じる観客が増えてきたということでもあるのだろう。こういうところが実に現代的である。

子どもが見たら『恐竜』前2作であれ、今回の『新恐竜』であれ、普通に楽しめるのだろうが、無邪気さをどこかにおいてきた現代の大人は、おそらく『新恐竜』のほうにより感情移入することになるのだろう。

以上を一言でいうと、「のび太は妙に大人になったなぁ」というところか。明らかに作品のトーンから「無邪気な残酷さ」は消えている。F先生の『恐竜』ではないという意味で、『新恐竜』。なるほどね、と一人膝を叩いたのである。

映画そのものは、気合の入った映像の美しさはもちろん、道具を使った伏線、思わず応援したくなるストーリー展開など、「子どもに安心して見せられる映画」の王道をいく内容だった。無理に「明確な敵」が登場しないのも新鮮でよかった。

敢えて言うとしたら、3つある。

1つが、木村拓哉だ。どうしても木村は木村になってしまう。重要な役回りで、別に演技単体では取り立てて悪材料もないのだが、「木村がしゃべってる」と一度思ってしまうと、どうしてもSMAPの謝罪会見を思い出してしまっていけない。あの会見は元SMAPのメンバーを見ていてもずっと思い出してしまうよね(「ブラタモリ(全国版)」の草彅のナレーションでも毎回、あの会見のシーンを思い出してしまうものなぁ)。これはまあ仕方がないか。

もう1つが、こういうのも申し訳ないが、やたらと長いこと。子ども映画でのこの時間は長い。3歳の娘の映画デビューで連れて行ったのだが、「怖い」といって3回くらいトイレに行っていた。特に後半のシーン、恐竜が飛べるようになるまでの尺がちょっと長すぎる気がした。今は同時上映もないので1作でそれなりの尺が必要なのだろうが、それにしても・・心の中で、「もうわかったよ、飛べよ・・」と思ってしまうくらいには長い。まあこれは、感情移入し切れずにどこか冷静に見てしまったこちらの心持ちがいかんね。

そして3点目。途中でピー助が登場する。これ自体はなかなかよいシーンだが、『恐竜』『恐竜2006』を見ていないと、たぶんわけがわからないのではないか、とも思った。物語の「転」にあたる重要なシーンなのだが。よく取ればファンサービスの一環というところなのだろうが。

あれこれ書いたが、普通に楽しんで最後まで観られたので、『ドラえもん』が好きな方は「現代的に解釈された映画ドラえもんの様式」を一度ご覧あれ。

本項の最後に、追加で特筆すべき事項が1つ。ドラえもん映画ではじめて、オープニングソングがカットされている(タイトルのみ!)。これは驚いた。「ちょっと寂しいけれど、こういうのもありかもね」という気持ちと、「せっかく50周年記念の作品なのだから、『ドラえもんのうた』を挿入すればよかったのに」という気持ちと、両方抱いた。

***

続いて『ミッドナイト・スワン』と『朝が来る』のレビューだ。どちらも、ダイバーシティ(多様性)とは何か、家族の愛とは何か、を突きつける社会派作品である。

人は、その人でないとわからない領域というのが必ずある。それを100%分かりあうことはできない。ただ、共感したり、「そういう人がこの世のどこかにいる」ことを認識することはできる。それが限界だし、それを超えてかかわるのは、むしろ偽善である。「自分は何も知らないということを知ること」と「関われない領域があることを知る」ことが重要なのだろう。そして、それを知って相手とかかわっていくことが「愛」なのかもしれない。

■ミッドナイト・スワン
とても良い映画だった。いい意味で後味は非常に苦く、もやもやした気持ちがいつまでも残った。これは狙い通りだろう。「よかったね」「感動したね」で終わらせず、「考えさせる」ことが目的なのだろうから。

主演の凪沙役を演じる草彅剛はまさに怪演。途中の一果との料理のシーン、バレエの先生から「お母さん」と呼ばれて喜びを隠しきれないシーン、バレエ大会で一果の髪を整えるシーンなどは、「一果のママ」にしか見えなくなった。これはドハマリといってよく、ただただ演技が素晴らしく、舌を巻いた。ちなみにヒロインの一果(服部樹咲)は今作でデビューという。彼女も新人とは思えないまさに迫真の演技だった(エンドロールで新人と知って驚いた)。こりゃすごいね。誰も彼も実在の人物かのように生き生き動いている。血の通った映画だ。

テーマはLGBTを扱っているようでいて、根本には「愛のある家族への飢え」を描いているように思えた。凪沙は一果のお母さんになりたくて、やがて不可逆的な破滅へと向かう。その過程はただただ物悲しいが、凪沙の中には確かに、一果へ寄せる「愛」があった。その「愛」を持てた”お母さん”の凪沙は、確かに「母親としての愛」を獲得できたのである。

そして、その愛ゆえに、実母の下で自傷行為を繰り返すしかなかった一果は、”お母さん”である「凪沙」の愛を自分自身にたくさん取り込んで、自己実現の手段を獲得していく。・・と、ここまで書いて気づいたが、バレエの先生からも一果は「愛」を受け取っている。東京での友人、りんからも。

一方、一見すると恵まれてた家庭に育ったようにみえる一果の友人、りん(上野鈴華)は、家族のだれからも実は愛されておらず、唯一の心の拠り所であったバレエの道までが断たれてしまう。はじめて愛した友人、一果さえも自分からは遠い存在に感じていく。そして、最期は、誰かの結婚式という新しい”家族”が生まれるまさにその場で、人知れず散っていく。これはあまりにも悲しい対比だ。

人は、その人でないとわからない領域がある。そのことへの想像力は、絶やしてはならない。

繰り返すが、この作品の後味はとても苦い。しかし、目の前の家族を大切にしよう、自分を大切にしよう、「愛」とは何かを考えよう、そんなあたたかい気持ちにもなれる、不思議な映画だった。

内容に文句は1つもない。ただ、あえて1つだけ言わせていただくと、エンドロールの後のタイトル画だけどうしても違和感があった・・・(なぜこの画を最後に出す?と思ったのは私だけではあるまい。一果の心理描写のつもりにしては、ちょっと変だしなぁ。あまりにも後味が苦いのでそれを中和する何かだろうか・・・いや、それにしても唐突すぎる画なんだよなぁ・・しかしこれは何らかの意味があるはず・・・はて・・・)

いずれにしても、「見ておくべき映画」の1つだろう。名作だと思う。

(補遺)
エンドロール後の「画」について。ネット上でこんな考察が飛び交っていることを知った。曰く、これは「受胎告知」ではないか、と。

参考:https://cinemarche.net/drama/midnightswan-endroll/

とても興味深い考察である。

「子」の存在によって、「女」は「母」となる。凪沙は確かに「母」になった・・・と考えると、「後味は苦い」どころか、超絶に「よい」ものに代わるのである。見れば見るほど、深い作品だ。

(さらに補足 2020年10月31日追記)
映画版が素晴らしかったので、小説版も購入してすぐに読んだ。私は「いい意味で後味は非常に苦い」と書いたが、小説を読むと「後味はすっきりさわやか」なものに変わった。これは己を恥とせねばなるまい。読み込みが甘かった。してやられた、という感じだ。

小説版を読むと、ラストのシーンの描写の意味もよく分かった。これは間違いなく「受胎告知」の図でしょうね。なるほどね。

とにかく、凪沙は確実に「母」になったのだ。一果の。

やはり、小説は深い。人物描写の奥のところもよく理解できた。映画版も小説版も超おすすめである。面白かったなぁ。

■朝が来る
辻村深月さんの原作を読んで読後感が素晴らしかったというのもあり、公開初日にレイトショーで見に行った。

原作がよいと、映画化した時に不安なのだが、今作は内容的には原作にかなり忠実で、後味も原作と同じように気持ちのいいものだった。特にエンドロールの最後の最後が重要な意味を持つ。描写を描く映像も丹念で美しい。

この作品は、不妊治療の末、特別養子縁組という手段を選択したタワマン住まいの都会のパワーカップルと、過干渉の家庭で育つものの中学生で妊娠し、子どもを手放すことになった片田舎の母親との対比で描かれる。

私たちも不妊治療で相当に大変な思いをして子どもを授かった身なので、栗原夫妻の苦悩、諦観、夫妻それぞれの複雑な気持ちはいちいち、胸に突き刺さるものがあった。

世の中には、悪気なく「子どもはつくらないの?」「子どもができたらどうする?」と聞く人というのがいるが、これが相当に人の心を傷つけかねない行為であるということは、不妊治療を経験してみないとたぶんわからない(ただ、私はそういう人を責めるつもりもまったくないので、そこは誤解のなきようにされたい)。

先述したが、人は、その人でないとわからない領域というのが必ずある。そういう想像力を持つだけでも、世の中はちょっとは平和になるんじゃないかな、と思う。でも、それが難しいのだ。この作品は、それを見事に言い当てている。

辛い思いを乗り越えて、朝斗とともに家族をつくってきた栗原夫妻は、堕落の果てに養父母の元にたどり着いた実の母、ひかりに対して「あなたは本当の母親ではないと思います」と冷たく言い放つ。

最後は誤解が解けて、感動のラストシーン(エンドロールを最後までみるしかない)へと誘われるわけだが、栗原夫妻にとってみても、やはり「その人でないとわからない領域」への想像力は持てない。まさか、実の母であるひかりが、家出をして、人知れず友人の裏切りで借金取りに追われ、堕ちるところまで堕ちる・・はずがない、と思うのは無理もない。まさに文字通り、「住む世界が違う」のだから。これだって、「その人ではないとわからないこと」の典型であろう。栗原夫妻にだって、その陥穽にはまるのだ(冒頭の「ジャングルジム転落事件」の描写で、わが子の内面すら100%は補足できないことが、見事に示唆されている)。

そう。この作品は、「人はどこまで、人に想像力を働かせられるのか」が問われている作品と言える。言ってしまえばひかりの家族が、少しでもひかりの内面を想像してあげれば、ひかりもここまで堕落することはなかったのである。

原作の魅力は、なんといっても丹念な人物描写だ。それは本作でも踏襲されている。そしてそれは、ご都合主義ではなく、「どうしようもない事実がある」ということをそのまま描写している。だからこそ、真に迫る作品に仕上がっているのだ。

・・「どうして自分がこんな目に」と嘆くひかりに対して、借金取りが「バカだからじゃね?」と言い捨てるシーンなどは、まさに救いようがないシーンだ。ひかりは、まったく希望のない現実を突きつけられる。ただ、こういう救いようがない状況にある人がいる可能性がある、というところを丹念に描写する辻村深月さんの人間描写がすごすぎるのだ。

原作では、ひかりはもっと騙されて、もっと堕ちていく。その挙句に栗原家に「登場」するのだが、本作ではそこはややマイルドに描かれていた印象である。ただ、そこまで描いたら3時間物の映画になってしまうので、仕方がないかもしれない(少しだけ心残りだけれど)。

その分、この映画で原作から「映画」化した部分というのは、子どもである「朝斗」の視点が取り入れられていることだ。育ての親は「朝斗に幸せになってほしい」と願い、産みの親もそれは同様。作品の後半で明かされるが、ひかりだって自分の存在を「なかったことにしないでほしい」のだ。自分の存在を残したいのだ。

2人の母親から愛を受けている肝心の朝斗は、どんな気持ちで2人の「母」をみてきたのだろう。それは、繰り返しになるが、エンドロールを見切った先に明かされる。

タイトルは「朝が来る」だ。明確に描写はされないものの、栗原家とひかり、そして朝斗にとって、やってくる未来はきっと明るい。そんなさわやかな読後感を持てる作品である。

こちらも名作だ。「見ておくべき作品」の1つであろう。
奇しくも、『ミッドナイトスワン』と同様、「子」の存在によって、「女」は「母」となるというところと、「人は、人の本当の内面をわかりきれない」というところ、これがシンクロする。

最後に余談だが、この作品は映像の手法として主観的なアングルが多用されている。酔いやすい人は、映画館で鑑賞する際は、できるだけ「見下ろす」位置を席に取ることをお勧めしたい。「見上げる」席で観たら、覿面に画面酔いして、後半の1時間半くらい、グロッキー状態で映画を見る羽目になった。寝不足だったり、疲れていたり、体調が悪いときに見ると画面酔いしやすいので、できるだけ体調がよく、目が疲れておらず、疲れてもいない状態で鑑賞すると、作品世界に没入できるかと思われる。せっかくいい作品なので、心配な人は上映前に「酔い止め」を飲んでもよいかも。

私の場合、金曜の仕事後のレイトショー(疲れている、目もおかしい)、夕食後(ビール飲んだ)、ちょっと空腹(何も買わずに入場)、寝不足、花粉症で鼻づまりというコンディションがあまりよくない状況で観たので、本当にキツかったです。映画は元気な時に観ましょう(って、当たり前か)。


投稿 2020年10月25日

なんでもそうだが、複雑化すると絶対に長続きしない。理由は簡単で、「疲れるから」だ。シンプルイズベストとはけだし名言である。

今、複雑化の極みにあるのがコンビニ(やスーパー)での買い物だろう。無根拠でやり玉に挙げられた「レジ袋」の有料化や、なし崩し的に導入されて誰もレジを通すまでは正確にその税率がわからなくなってしまった「軽減税率」などで、ますます混迷を深めている。

例えばあるビルの中のコンビニ(あるいはスーパー)で、ビールとお弁当を買ったとしよう。すると、ざっと挙げてみて、場合によっては15種類もの「選択」を私たちはしなければならないのだ。

すなわち・・・

<選択その1:購入方法>
(1)有人レジで購入する
(2)セミセルフレジで購入する
(3)セルフレジで購入する
⇒(解説)まずは「どんなレジで買い物をするか」という選択がある。毎朝『ウィルキンソン』1本を買うためにレジに並ぶのはどうも気が引けるので、セルフレジはありがたい。

<選択その2:レジ袋>
(1)レジ袋をつける(有料)→サイズを選ぶ(SML)
(2)レジ袋をつけない
・そのまま持って帰る
・エコバッグに入れる
・エコバッグに詰めてもらう(かご型エコバッグの場合)
⇒最高に面倒くさいことが加わった。外出先から帰宅するときに、「あっ、スーパーであれとこれ買わなくちゃ」と思ったときに、「でも袋を忘れたから今度にしよう」とか、コンビニで気になるお菓子があっても、「入れる袋がないからいいや」と、積極的に「ついで買い」の動機が失われていった。最高のデフレ施策だ。さすが環境にやさしいね!

<選択その3:袋の種類>
(1)袋は別にする
(2)袋は同じにする
⇒あたたかいものと冷たいものの袋を分ける。レジ袋をなくすより、こちらの慣習のほうがよほど「反エコ」だったのではないか。

<選択その4:付属物についての質問>
(1)割り箸
(2)スプーン
(3)フォーク
(4)割り箸とスプーン
(5)割り箸とフォーク
(6)スプーンとフォーク
(7)割り箸とスプーンとフォーク
⇒セルフレジで思わず取り忘れるものNo.1である。

<選択その5:商品のオプション>
(1)温める
(2)温めない
⇒レジ袋がなくなると、「あちちちち」と言いながら弁当を持ち運ぶ羽目になる。

<選択その6:年齢確認>
(1)20歳以上
(2)20歳未満
⇒毎朝検温記録を取らされる職場や学校は多いと思うが、これに匹敵する「やってますポーズ」の筆頭格だ。

<選択その7:食べる場所>
(1)外で食べる(持ち帰る)
(2)中で食べる(イートイン)
⇒中で食べると正直に言えば10%、一度外に持ち出して中で食べたら8%・・厳格に適用されているかはともかく、ふざけた制度だぜ。まったく。

<選択その8:ポイントカード>
(1)持っている
・貯める
・使う
(2)持っていない
・作る
・作らない
⇒これ以上物理的なポイントカードなど持ちたくないのが本音。スマホに一本化できればよいが、いちいちアプリを引っ張り出すのも面倒くさい・・・

<選択その9:クーポン>
(1)使う
(2)持っていない
⇒持ってき忘れるとテンションが大幅に下がる。

<選択その10:支払方法>
(1)現金
・全額
・一部(端数など)
(2)クレジットカード
・一括
・X回払い
・ボーナス払い
・リボ払い
(3)デビットカード
(4)プリペイドカード
(5)商品券
(6)電子マネー
(7)QRコード決済
(8)ポイント決済
・全部ポイント払い
・一部ポイント払い
⇒支払方法の選択肢が多すぎて、30年くらい前までの「現金だけ」だった時代を経て、「消費税増税のたびに小銭が増産されるニュースがあった」頃とは、隔世の感である。

<選択その11:支払方法のオプション>
(1)チャージする
・現金で
・クレカで
(2)何もしない
⇒レジがすごく並んでいるときにこれがあると、ちょっとピリッとしますよね。後ろが。

<選択その12:支払後のオプション>
(1)くじ引き
(2)福引券
(3)応募券
⇒買った後もいろんなものがもらえるんですよね・・・

<選択その13:駐車券>
(1)駐車券あり
(2)駐車券なし
⇒これを忘れると大変なことになります。

<選択その14:領収書の選択>
(1)レシート要
(2)レシート不要(本来は受け取るべきだが・・)
(3)領収書
⇒領収書が欲しいとき、それを口に出すのが憚られるくらい、ここまででヘトヘトになっていることってありませんか?

<選択その15:購入物の詰め方>
(1)自宅用
・その場で
・サッカー台で
(2)贈答用
・ラッピング
・熨斗紙
⇒最後に「詰め方」まで決めるのが今風なのです。

さて、こうなると、もはや臨界点だ。
「スマホだけ持って行って、自動決済」されるようなシンプルなお店(Amazon Go的な)が、近未来にはたくさんできる・・・・・・のだろうか???


公開 2020年9月27日

このコロナ禍は、いろいろな「気づき」を図らずもかつてないスケールで私たちに与えた。「本当はやらなくてもいいんじゃない?」という多くの気づきを、だ。

■定時通勤
「通勤は、体力を消耗させる。」・・定時出社を減らすだけで、体力・気力がここまでキープできるとは。もはや、「前」には戻れないという人は多いのではないか。
(キーワード)通勤電車

■集まっての会議
「集まることが仕事」化していたことに気づかされる。オンライン会議であれば、大量の資料をわざわざ紙に印刷する手間も省けるし、会議前の移動そのものも不要。とても効率的だ。
(キーワード)会議室

■出張
「出張することが仕事」化していたことに気づかされる。オンラインであれば、長い時間をかけて移動することも不要だし、家に居ながらにして国内はおろか全世界と同時に意思疎通が図れる。今まで「新幹線で移動して前泊して、会議に出て、ちょっとぶらついて帰る」という行為で丸2日かけていたことが半日で済むこともザラだ。いったい、今まで何をしていたのだろう。
(キーワード)新幹線、飛行機、ホテル

■リアル飲み会
緊急事態宣言以降、半年近くリアルな「飲み会」をしていない。私自身は、飲み会そのものの効用(職場の潤滑油的なこと)はよく実感するところだ。それにしても「毎週のように数時間で数千円を払って飲み食いする」ということが常態化していたのは、今思えば異常といえば異常だ。飲み会をしないことで、数か月単位でみればおそらく10万円単位でいわゆる交際費が浮いているのである。給与の縮減圧力が強まる昨今、誰もが一度「金がかからない」うま味を経験してしまったはず。簡単に「元に戻る」とは思えない。
(キーワード)居酒屋

■集団熱狂
オリンピック、ライブ、スポーツ観戦というのは「集団熱狂」というジャンルに属するものだ。感覚に個人差はあると思うが、感染リスクを鑑みると、この「集団熱狂行為」にとても「ひいて」しまう。一言でいうと、昔のように楽しめない気分なのだ。
たぶん、「24時間テレビ」「ハロウィンの仮想行列大会」「紅白歌合戦」あたりもこのジャンルに属していて、今や圧倒的な「違和感」でしかない。やるのは主催者の勝手だが、おそらく以前のような熱狂はおとずれないのではないか。
(キーワード)東京オリンピック、プロスポーツ、興行

■毎日出社すること
「会社に行くことが仕事」という時代が終わった。モバイルデバイスの発達で、基本的に、仕事はどこでもできる。オフィスに集まって、わいわい・・みたいなのは少なくとも20代の社員にとっては「なんでわざわざ集まるの?」くらいにしか思ってもらえず、どれだけその意義(その場にいることの重要性とか)を説明しても理解不能だろう。さらに今後数年以内に、オンライン授業世代が社会人になる。旧態依然としたオフィスを「是」としていると、人材も集まってこなくなるだろう。それくらい、コロナ禍で「オフィス観」は変わってしまったように思う。
(キーワード)オフィス、オフィス街のコンビニ


公開:2020年8月8日

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