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辞めるときに「円満」っていうのはない。
だって、現状に何らかの不満があるから辞めるんだもの。

【円満(えんまん)】かどだたず、おだやかな様子(oxford Languages)

「円満退社」「円満離婚」という言葉が使われるが、これは語義が矛盾している。どちらかというとこのニュアンスは、「納得退社」「納得離婚」に近い。

【納得(なっとく)】他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること(oxford Languages)

そう、「納得」ならわかるのよ。お互い「もっともだ」と思って合意に至ることでしょう。

これまで「笑顔で」退社、というのはいくつも見てきたが、わざわざ揉める必要がないからお互い笑顔なだけであって、やめればどこかに角は立つし、抜けた穴を埋める必要もあるから穏やかなことばかりじゃない。こういうのを円満とはやはり言わないのだ。

採用の格言に、「前の会社の悪口を平気で言う人材は、絶対に採用してはいけない」というのがある。表立って悪口を言うのはそれだけ「危険人物」ということだ。そういう社会通念があるから、誰もわざわざ和を乱さないだけのことである。

だから、退職ということについて「円満」を強調することには何の意味もない。強調すればするほど、「円満」・・もとい、「納得」退社ではない、ということを自ら証明することになってしまうのである。

・・・といったことを考えながら、大著『詐欺とペテンの大百科』を読む。古今東西、人は人を安易に信じて、いつも容易く騙される。

まあ、「この人のいうこと、すごい!」って思って心酔してしまうと危険なんだろうな、ということは朧気ながらでもわかる。複数の相反する人の意見を受け入れるくらいでちょうどよいみたいだ。「中庸が大切」とはよく言ったものである。

でも、それを実践するのは骨の折れることだ。認知コストを下げるために、どこかの「輪」に入って、「考えることをやめる」方が圧倒的にラクなのよね。

でも、その「楽さ」、すなわち「考えることをやめること」というのが、付け込まれるポイントなわけだ。心が弱っているとき、その「隙」が忍び寄ってくる。


2021年2月2日

厭戦気分ってやつだ。もう笑っちゃうくらい、政府と国民の心が乖離しているのが分かる。政府はオリンピックが命なので国民のことなんてどうでもいい(死なない程度に税金を納めてくれ)とおそらく本気で思っているし、国民は国民でそんな政府の魂胆は見えているから「生きていける程度に」いうことをきく、と。そんな「相互不干渉の均衡」で日常が成り立っている。

まあ、昔からそうかもしれないが、ある意味、政府と国民の距離感としては今みたいな「相互不干渉の均衡」くらいでちょうどよいのだろう。近すぎても管理型になってウザいし、遠すぎてもカネが回らなくなって死んじゃうし。こんなもんなのだろうな、と思う。お互いに期待しない感じ。ある意味心地よくないですか。

なんでもそうだが、期待するから裏切られて怒り狂うわけで。とっくの昔に「期待」をぶつけ合う「政治の季節」なんて終わっていて(だから野党は受け入れられないのだ)、人口が増え続けていたから享受できた「経済の季節」もとうに過ぎて(だから可処分所得は減り続けるのだ)、余ったカネで一儲けする「拝金の季節」も終わりを告げて、「あきらめの季節」が到来しているのである。

その証拠に、子どもが減っているでしょう。だから人口も減り続けている。今から何やったって「減ったペア」からしか再生産はされないのだから、国自体が確実にどんどんダウンサイジングしていくわけですよ。政府も国民に期待していなけりゃ、国民も政府に期待していない。同じ考えなのだから、期待値はどんどん下がる。まあ、よい均衡じゃないですか。もっとも、縮小均衡だけど。

***

さて。みんな大好き「オリンピック」である。現状は、とにかくオリンピックをやりたくて仕方ない人たちと、別にどーでもいいほとんど(8割)の国民。そこから遊離する選手たち。何がスポーツマンシップか。どこが復興か。

私は別に「お金のために」大運動会をやることを非とは思っていない。興行ですからね。確立したビジネスモデルだから、やりたければやりたいひとがやるのはよいと思う。需要があれば金が回るわけですからね。カネが回れば復興にもつながるしね。論理はどうあれ、また倫理的にどうあれ、「やりたければやればいい」という性質のものでしょう。

ただ、それって平時ならね。ここがポイントなのよね。

今は戦時だから、「こんなところにカネをかけてんじゃねーよ」と思っている人がたぶん、普通のときよりは間違いなく多いということよね。コロナで大赤字に陥ったスポンサー企業の従業員だったら、「それを給料に回せよ」ってたぶん思うよね。国民だって、「そんなところに税金回すなよ」という気持ちは、平時よりも強いはず。

もちろん、選手個人に罪はまったくない。この状況は非常に気の毒である。だが、「中止したら準備をしてきた選手がかわいそう。時期を逃す」という言葉で良心を攻撃するのはちょっと違う。

いいですか。どれだけの人がこのコロナで涙を呑んできたか。コロナで傷ついたり、ボーナスがカットされたり、おかしくなってしまったり。選手「だけ」が特権階級なのではなくて、多くの人が日常の生活を狂わされているわけです。何かを特別扱いをすると、必ず分断を生みます。

「時期を逃す」といったら、じゃあ、「卒業式」「入学式」「甲子園」「成人式」その他、「一生に一度」のイベントを逃した人は何万人いるんだって話なわけですよ。

もともと、オリンピックで利益を得るはずだった業界の損失を補填する「GOTO」キャンペーンだって、それが直接の原因かどうかはともかくも、国民の気を思い切り緩ませて、次の緊急事態宣言を惹起してしまったわけでしょう。金が回るはずだった業界を傾斜的に支援しているつもりが、却って深刻な損をさせることにもなっている。

今の「飲食店一律給付」だって、飲食店を応援するつもりが、「コロナバブルだ!」と批判を生む温床にもなってしまっているわけですからね。支援で分断を生んでどうする。

ただでさえ「上級国民」というスラングが人口に膾炙している時代である。オリンピック基準で傾斜的な財政出動ばかりをしているために「プチ分断」が起こっている中、オリンピックを強行すれば、スポーツそのものはもとより、スポンサー、その他「オリンピック」を連想するものへの風当たりが強くなることは火を見るよりも明らかだ。

もはや何がやりたいのかさっぱりわからない。平和の祭典どころか、分断の序章みたいなことをやってどうする。

ただ、そういう諸事象への怒りはまったく沸かない。ここまでくると、批判する気持ちにもなれず、ただただ、諦観するほかなくなるのである。

「オリンピック」に一億火の玉、心頭滅却すれば火もまた涼しで飛び込むのもよし。できもしない「コロナ撲滅」でぺんぺん草も生えないくらい経済を壊滅させて、経済が焦土化するくらいのロックダウンをするも自由だ。もう好きにしたら、という感じである。

今の気持ちでいうと、「やろうがやるまいがどうでもいいけれど、とにかく早く終わってくれ。ただ、お願いだから巻き込むな」という感じだろうか。

・・・こうやって書いていたら、本当にどうでもよくなってきた。巻き込まれたら全力で拒否する所存だが、巻き込まれない限りは、ちょっともう関知する気持ちにもなれない。それくらい、少なくとも私の心は倦んでいる。

***

マスクつけて、手洗いうがいをして、三密を避けて、早寝早起きをして、三食食べて、健康に生活しようっと。別にオリンピックをやろうがやるまいが、自分の生活には関係ないんだった。もっと自分のことを心配しようっと。


2021年1月30日

■当たり前を見直す
コロナ禍で、痛切に感じたのが「当たり前は、実は思い込んでいるだけ」ということがいかに多いか、ということであった。

「人が一堂に会さないと仕事はできない」というのは虚構も虚構であった。あらゆる「デスクワーク」は、文字通り「デスク」ワークであって、「オフィス」ワークではないということを思い知らされた1年であった。

さて。これだけ「人と会うな、社会的距離を取れ」の大合唱を受けると、これまでのいろいろな常識や慣習も、もしかしたら「思い込んでいるだけ」なのではないかと感じることが多くなってきた。

「列車の中でタバコを吸うのが当たり前の時代」と、「電車の中でタバコを吸うなんてとんでもないという時代」には隔絶がある。

「駅前に公衆電話がずらりと並んでいる時代」と、「携帯電話でいつでもどこでも連絡が取れる時代」にも隔絶がある。

「コンサートやライブはチケットを買わないと見られない時代」と、「オンラインで誰でもライブを視聴できる時代」にも隔絶がある。

■「コモンセンス」と「変化」の合間で

最初に断っておくと、長年培われてきた「慣習」「習慣」「慣行」「常識」「伝統」といったものは、絶対に馬鹿にするべきものではない。これまでの人類の営みの集合で「やっておくべき」「やっておいたほうがいい」あるいは「やらないとまずい」そんな「知恵」の集合体だからである。

ただし、一方で、社会は常に変容するものでもある。「歌は世につれ、世は歌につれ」なんていう言葉もある。「進化論」を持ち出すまでもなく、「社会の変化に適応できなければ、淘汰される」危険性もある。例えば今、ちょんまげで入社試験を受ければ、間違いなく就職は困難を極めるだろう。お歯黒でミスコン1位も難しいだろう。太陰暦だけで生活をしていれば、社会生活も儘ならない。

ということで、こういう「常識」と「変化(進化)」の中庸で私たちは生きていく必要がある。ものすごく長い間の「伝統」だと思ったら、実は明治以降の慣習だったりすることも多い。そのあたりをよくよく吟味して注意深く生活していく必要がある。

■年賀状について

そして、今の時期柄、最も「変化」させるべきと思うのが、私にとっては「年賀状」であった。

年賀状の起源は、平安時代後期まで遡れる(「年賀状博物館」)という説もあり、やや人口に膾炙している感のある「郵便制度ができた明治以降の制度だから、伝統なんてない」ということではどうやらなさそうである。

そもそも、「年始のあいさつ回り」の代わりとなる書状が「年賀状」であるからして、「年始の何らかの挨拶」というのは、かなりの昔から「伝統」として続いてきている、ということだ。

要は、「新年のあいさつ」そのものは、形を変えど、残り続けている。今は、「直接会う人は直接」、「そうでない人とはほぼLINE」ということに相場が決まりつつある。あいさつがなくなるのはどうかと思うが、人々は挨拶そのものを捨てたわけではない。「何らかの形であいさつする慣習」は非常に根強く、人々の間に残っているわけだ。

それでいいんじゃないか、と思う。
というか、そう思う人が増えた。「年賀状じまい」とか、「職場間や企業間での虚礼廃止」はもはや普通のことになった。よく考えると、私自身をみても、20年/21年比で-50%である。最盛期はおそらく120枚くらい書いていたので、もはや感慨深くすらある。

年賀状そのものはなくならないはずだが、おそらく、賀状のやり取りは「親戚」「恩師」「恩人」くらいに収斂していくのではないか。

結果として急速に年賀状の発行枚数は落ちている(ピークが2003年の44億5946万枚、2021年が19億4198万枚。前年比で-17.4%減、ピーク比で-56.5%)。ちなみに、この間の象徴的な出来事として、「プリントゴッコ」は2008年に販売終了している。

■拝金社会では決して抗えない「コスパ」

一度、「やめてみると、こんなに時間とお金が浮くのか」と知ると、人々は、ますますラクな方に靡いていく。これは世の道理である。

*お金は、「年賀状代」「印刷ソフト代または印刷委託代」「プリンターのインク代」
*時間は、「デザイン決定」「住所録メンテナンス」「コメントを書く」「デザイン決定までの家族間の喧嘩」

これらの手間暇が、「LINEのスタンプをポチ」という「0円・ほぼゼロ時間」に経済合理的に勝てるわけがないのだ。

■「元旦に届く」ということの意味を問い直す

私は、元日に年賀状を確認する(郵便受けを確認する)ことを、ちょうど今年からやめた。いつも、年明けの昼前頃に「あ、あの人に出していなかった」とか「あ、あの人に出したのに届いていない」とかやきもきするのが、いい加減に厭になったからである。

また新年早々、「コメントなし」の賀状を見て、「無理して出されなくてもよいですのに」と一瞬でも思ってしまうのも、もう嫌なのだ。

で、「元日に年賀状を見ない」を実践したところ、驚くほど精神衛生上の安定が得られて自分でも驚いた。「年賀状は、元旦に届くもの。こ昼前には確認しなければ!」という一種の強迫観念である。この感情、明らかに不要なものであった。

・・で、この考え方を延長させていくと、「別に、コストをかけて元旦に配達しなくてもよくない?」ということに思い至る。元日の夕方でもよいし、3が日にしたってよいし、もっといえば「松の内まで」にしてもよい(7日ないし15日まで)。考え方によっては、旧正月までだってよい。企業宛の年賀状なんて、どうせ年明けにしかポストを開かないわけだし。

「働き方改革」のご時世である。電車だって終電を繰り上げて、終夜運転すらしないのだ。コンビニやファミレスも「24時間営業」の看板を取り下げはじめている。「年賀状配達」だって、無理に「元旦」に届ける必要が、もしかするとないのかもしれない。

「実家に帰省していて、3日の夜に帰ってきたら年賀状がポストにどっさり。明日から仕事だというのに、長距離移動で疲れた体で慌ててプリンターを起動したらインクが切れてて大騒ぎ・・・」なんて人も多かろう。こういう人にとって、「1日」に年賀状が届いている必然性など、全くないのではないか。

ただでさえ、はがきは値上がりしているのである。平成の頭は「41円」だった。令和の今や「63円」である。30年で1.5倍だ。値上げそのものにどうこう言っているのではない。「必ず元旦に配ることのコスト」と「まあ、正月の間に配れればよいや、のコスト」との感覚はどうなっているのか、という話である。

■年賀状を「松竹梅」に分けたらどうなの?

そこで、提案。

相手にわからない形(バーコード)で「特急年賀状(28日までに投函で必ず元旦に届く)」と「普通年賀状(28日までに投函で1月7日までに届く)」「エコノミー年賀状(28日までに投函で1月15日までに届く)」に分けたらよい。デザインを同じにすれば、わかるまい。

「特急」は+200円(つまり263円)、「普通」は+50円(113円)、「エコノミー」は63円である。

所謂「松竹梅」の商法と同じで、大多数は、おそらく「普通(竹)」を選ぶだろう。63円→113円と179%の値上げなので、仮に発行部数が30%程度減少しても売り上げ実額は確保できることになる(もっと減るかもしれないが・・・)。

年賀状は、何となく「特別感」があるように見せて、実は最も「急を要する文書」ではない。だからして、エコノミーの値段を普通郵便と同じにして変えなければ、実は国民生活を脅かすことには至らないのである(エコノミーという選択肢は担保されている)。ここがポイントだ。


2021年1月2日

これまで、ありがたいことに多くの方から取材を受けたり、メディアに掲載していただいたりしてきた。

中には、こういう個人サイトをハナから馬鹿にして、「取材してやってるんだ、協力するのが当たり前だろ」的な対応を取るメディアもあれば、反対に、非常に懇切丁寧に、(個人だというのに)どういう過程でメディア化するかを説明してくださる会社もあった。扱いは全く違う。

さすがに「どこがよかった」とはここでは書かないが、これは、メディアの規模の大小関係なく、担当者ないしはリサーチャー、ライターの人柄、ひいては社風に依るものだと感じた。

総じて(規模は関係なく)長く続いているところは続くだけの理由があり、新興メディアでも対応がいいところは結局、その後も長く続くものだ。一方で、「ああ、やっぱり」と思って消えていったメディアも少なくない。「ああ、こういうところなら続くよな」と思うメディアとは、やはり違う。

有名なたとえ話で、「石職人の話」というのがある。「何をしているんですか?」という旅人の問いに対し、「石を切ってるんだよ。見ればわかるだろ」と答えるか、「みんなが集う教会を作っているんです!」と答えるか、要は「自分が何をしているかの目的意識」の話なのだが、これはそのまま、取材姿勢にも通ずるものがある。

お互いが気持ちよくやり取りをする、これはとても大切なことだ。その背後には必ず「目的意識」が潜んでいる。

***

この「目的意識」というのは実はすごく大切で、こういう「気持ち」の部分がないと、何事も続かないものである。

最近流行の「ワークライフバランス」というのは、要は「自分の境遇(将来への期待値を含む)が、自身のライフ観・ワーク観と合致しているか」ということである。

「ブラックな仕事」というのは、ここが(大多数にとって)破綻しているわけだ。それでもライフ観・ワーク観と合致していればその人にとっては「ブラック」ではない可能性もある。

まあ、ブラック度が高ければ高いほど、他者への当たりもきつくなって、結局、よい客・取引先を逃すから、どんどんブラックになっていくわけですよね。「他者は鏡」とはよく言ったもので、ブラックな仕事は自ずからブラック(いらぬトラブル)を引き寄せている可能性もある、と。これはまさに、「引き寄せの法則」のマイナススパイラルバージョンであった。

***

「気は心」。よい「気」で相手様に接していきたいものである。


2021年1月2日

百花繚乱・・・もとい、諸説紛々の「英語教育界」に、「英語を学ぶには、絵本がよい」という流派があることを最近知った。よくある「日本人は9年間も(今は12年間)も英語を勉強するのに、ちっとも話せない。それは受験英語に問題がある」という批判の急先鋒ともいえる論点であり、興味深く思った。

絵本か・・・まずは有名な英語の絵本、「Clifford the Big Red Dog(おおきいあかいクリフォード)」を手にしてみよう。いきなり原書のハードルが高ければ、CDつきのクリフォード初歩の初歩、「フォニックスファン」シリーズからでよいと思う。たぶんこれくらいとっつきやすくないと、続かないと思う。

しかし「絵本」と馬鹿にするなかれ。まずびっくりするはずである。文字だけだと、すべての意味が分からないことにすぐに気づくからだ。

そこで絵を頼りにすると、何とか推測して文章を読み進めることができる。「英語は絵本で」派の主張はまさにここで、「絵を頼りに、文脈を補足する」ことの積み重ねこそが、英語力の基盤になる、と言っている(やや乱暴なまとめかもしれないが)。なるほどそうかもしれないな、と思う。

とあるTOEIC850点の才媛ですら、当該書籍を初読で「意味が分からない単語があった」と言っているくらいなので、私が読めなくても当然なのだが、現地人はこれを2、3歳で読み聞かせされて意味が分かるわけだ。それだけ、「テストの英語」と「実際の英語」が乖離しているということだろう。

例えば英単語の「POP」。絵を見れば「じいじ」のことだとわかるが、「祖父」=Grand Father もしくは Grand-Paなんて機械的に覚えている脳には、どうしても「POP=じいじ」とは思い浮かばない。こういうのがたくさんあることに、「クリフォード」シリーズを1冊読むだけでも、愕然とさせられるのだ。

日本人が、ちょっとふざけて「うちのじーちゃんがさぁ」という話をするようなノリで、英語圏の人と「My POP was ●●●、HAHAHA,,,」なんてやられて、「?」だったら、「こいつ、こんな言葉も知らねぇのかよ」と思われること請け合いである。

***

翻って、言葉を学ぶには、「絵本がよい」ということなのだろうと思う。よく「歌と読み聞かせが大切」というが、確かに、語彙も十分に獲得していない乳幼児が、ことばの世界を広げていくには、情景を想像できる(その言葉が表す意味内容が具体的に表象される)「メロディ」や「絵」の存在が決定的に大切なのだろうと思う。

わが子には、0歳から約2年かけて「読み聞かせ1万冊」を実践してみたが、それから約2年。約100分の「ドラえもん映画」の内容を理解し(例えば名作の1つである「宇宙小戦争」の感想を述べることはできる)、「すみっコぐらし」の映画で感動して泣くくらいの状況把握力は身に着けてくれている。「絵本に触れさせることの大切さ」は、日に日に(事後的に)体感しているところである。内田樹さんが著書『日本辺境論』で、「学びとは、事後的に体得されるもの」ということを書かれていて「なるほど!」と思ったものだが、本当に「絵本」の効果は事後的に顕れるように思うのである。

「言葉」で生活する人間は、その言葉の獲得を、何かで担保せねばならない。その1つの方法が、確かに絵本なのではないか、ということはわが子への実践からも何となく感じるのであった。


2020年12月29日

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