1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

昨年も「紅白21を振り返る」を書いたので、今年も。視聴率は21年よりもよかったようだが、それでも40%には届かなかった様子。

大前提として、気づいたことがある。紅白を親戚宅などで酒とともに見て年を越すという方も多かろう。このコンテンツのすごいところは、何と言っても圧倒的に「間が持つ」のである。もし、何も見るものがなかったらと思うと恐ろしい。孫がじいちゃんに「この曲知ってる!」と得意げに教えるのを、じいちゃんが目を細くしながら「全部同じに見えるけど、よく知ってるね」というのが1つの風物詩なのだ。多世代型の選曲なので、とりあえず何らかの歌が引っ掛かるというのがポイント。「へえ、この歌手かわいいね」「懐かしいね、でも声が出てない」とか。何らかのコメントを引き出すことができるという効果があるのだ。これはなかなか他の追随を許さないすごい番組であることがみえてきた。

ーと、これは社会的な観点で分析した紅白像である。確実に日本の年末年始の過ごし方にまだまだ必要なものであるということはみえてきた。みえてきたが、純粋に「番組」としてとらえた時にはどうだったか。

唯一といってよい感動ポイントは、ダチョウ倶楽部と有吉の「白い雲のように」の歌唱シーンである。これは、様々な想いが去来して涙なしでは聞けない名シーンであった。

あとは新年早々、申し訳ないが以下愚痴である。まともに契約した覚えがないのに(結婚して引っ越してすぐ、地上波のときは「受信電波を検知しましたので」とあからさまな嘘を言われたし、BSのときは嫌がる妻を脅して無理やり代筆させて契約するとか無茶苦茶なことをやっているわけです)、安くない受信料を要は無理やり払っているので、この高額番組に愚痴をこぼすくらいは・・・・よいだろう。

まず相変わらず(必ずしも全員が)見ているわけでない朝ドラと大河の宣伝だらけ。一昔前のくだらない「応援合戦」が鳴りを潜めたと思ったら、それがただのCMに変わっただけではないか。そのぶん尺を減らせ、尺を。そもそもが長すぎるんじゃ。

歌だけで何時間も保たないから途中で歌以外のコーナーをはさむのだろうけれど、それだったら2時間くらいのコンパクトバージョンにすればいいのに、という話。

去年は、紅白歌合戦の後半に入る前に「今年も受信料ありがとうございました」と余計なメッセージも入っていた。本心なのか嫌味なのかは知らないが、ただただ「こんな金掛けたセット作るくらいなら値下げしろ」とか、「だったらとっととスクランブルにしろや(払わなくても見られる謎システムがおかしいっちゅうねん)」としか思わず、まともにカネ払ってる側からすると酒が不味くなるったらない。

あと、謎のサッカー推しね。処世術として、そりゃあ、「見たフリ」をして社会でおとなしく過ごしてはいるが、決してあの試合を「全国民が見た」わけではないのだよ。これは五輪にも言えることだが。これだけ価値観が多様化(細分化?)した今、もはや「国民的○○」など存在しない。幻想を無理やり作って意図的にまき散らすのはもうやめてほしい。コロナでも五輪でも一定の「空気」を作るのは大本営発表のころと変わってないって(この国の指導層は明治期から基本的に変わっていないので変わらないのは当たり前だが)。

また別にどうでもいいのだが、似たような「ダンスパフォーマンス」ばかりで、今までで一番「飽き」が強かったのも今回の残念ポイント。別に韓流だろうが何だろうが勝手に好きにすればいいのだが、とにかく途中から全部同じ歌・同じ踊り・同じ顔(←これは嫌味)に見えるという副作用がひどかった(←それは加齢かもしれない)。

・・え?「そんなに嫌なら見るな」ですって? その通り!

これまでずっと、少なくとも30年くらいは「結果発表」まで見て、「蛍の光」を聞いて、カウントダウンして(※最近は「ゆく年くる年」の落ち着きのよさに気づいてきたところだ)、年明けまで起きているみたいに「紅白視聴を習慣化」してきたわたしが、おそらく成人してからはじめて、結果発表前に「あ、もういいかな」と思って早々に床につくくらいには視聴習慣が崩れたのが今回の紅白であった(←それは加齢かもしれない)。

そもそも、最近は妻の実家で親戚と紅白を観ながら(眺めながら)過ごす感じになっているが、初めて自分以外の全員が大トリの「前」で「脱落」(寝落ちではなく、意思を以て就寝に向かうことを指す)し、私は独りでポツンと福山のド派手なスーツを観ながら過ごしたのだ。すごく寂しかったなぁ。そりゃ、「もう結果はいいかな。自分も寝るか」と思って当然なのである。・・と、これくらい、これまでの「視聴習慣」を破壊するのに十分な内容だったわけである。去年の紅白は。否、おととし、去年と続く紅白は、だ。

だいいち、だ。いつも書いている気がするが、このご時世に男女を色分けし、あろうことか「戦わせる」など、普段ポリコレなぞ見向きもしない私ですらちょっと「ウゲゲ」と思い出してくるようになってしまうくらい、因循な価値観が脈々と続いている(であろう)ところが問題だ。これでNHKがゴリゴリの保守なら「まあそういう方針の団体なんだよね」でいちいち目くじら立てるのも野暮だというものだが、一方で「SDGs」を大宣伝(喧伝?)しているNHKさんならば、SDGsの17の目標の5番が「ジェンダーフリーを実現しよう」であることはご存知のはずだ。知っててやっているのだ。

正直、私自身は男が白で女が紅で一向にかまわないのだけれど(「紅一点」という言葉もあるし)、とにかく気持ちが悪いのは一方でSDGsとやらを押し付け、一方で昭和な「男女別模擬戦争」を続けるその矛盾のほうなのだよ。目先のポリコレに囚われて、その矛盾というか、説明のつかないレトリックを「突く」ことを「金主」である視聴者は忘れてはならない。もっと直接的な表現を使うと、結局SDGsはビジネスで言っているだけで、本気で取り組もうとしていない「可能性」が窺えるところを突くべきなのだ(これはSDGsを掲げるすべての企業に突きつけるべき命題でもある)。本当に環境にやさしい状態ならば、いくつもいくつもあるチャンネルの放送を整理するだけで電気代がどれだけ浮くことか。でもそれは絶対にやらないわけでしょう。

・・と、愚痴を書きだしたら止まらないのが今回の紅白であった。私は一体誰と戦っているのだ。「ブラタモリ」とか、私はNHK好きですよ(だからまだテレビを捨てずに受信料を支払っているんですよ)。

しかし、まあ、新たな視点として「話題提供装置」としての紅白の重要性には改めて気づかされる面もあったのは事実だ。「紅白」という枠組みのレーゾンデートルは確かに、ある(ありそうである)。

もっとも、いずれはポリコレの圧に耐えられなくなり、1つは「紅白!歌の祭典!!」とか「紅白年越し歌謡ショー」のように合戦色がなくなる可能性はあるかもしれない。あるいは、合戦色を残すとしても、「紅白東西歌合戦」(メインボーカルの出身地で東西を分ける)とか、「新・紅白歌合戦」(小学校の運動会のように男女混合型)になるかもしれない。

こういうことを妄想しながら、時はいたずらに過ぎていくのであった。


2023年1月2日

年末年始が忙しい理由は、わずか数日で掃除から挨拶からなにからすべてやろうとするからだと気づいた。

仕事納めを受けて、そこから「さあ、大掃除だ」とかやっているから忙しいのであって、「納期分散」で何とかなりそうなことに気づいたということ。

■年賀状
・基本、割引率の大きい11月末から12月初旬までには外注で裏面印刷してしまう。手元のプリンターで印刷すると結局インク代が高くつく可能性があることに気づく。
・宛名は(外注にするとセルフチェックに時間がかかるので)手書きできる分量に抑えるとストレスが減る。
・昔は150枚くらい出していたものだが、ようやく30枚前後まで減らしている。上の世代の人たちがどんどん「今年で御仕舞」と言ってくれるのでとても助かるわい。どんどんやめたらいいと思う。
・早めに動いて、25日には投函してしまえばすっきり。

■大掃除
・年末の数日で片づけるのではなく、12月上旬から分散管理して実施する。「風呂」「窓」「台所」「トイレ」「洗面所」「ベランダ」「玄関」「埃払い」などを3ー4日程に分割して施工。
・イメージとしては、玄関のしめ飾りをクリスマスの直後(25日、26日)に行えるくらいの時期感で掃除できるのがベストかもわからぬ。

ーこれを取り入れただけで、年末からかなりゆっくりできるようになった。精神衛生的にもかなりよい。


2023年1月2日

最近の新入社員に聞くのが、「家にテレビってあるんですか?」(敬語)だ。
だいたい、「ありません」という答えのほうが多くなって久しい。昔は「テレビは置いてないんです(ドヤッ)」というのが、一種の「ステータス自慢」みたいな感じで妙に鼻についたものだが、今はそういう「自分だけ特別」感はない。

逆に「テレビは置いています」という人は、根っからのテレビ好きだったりする。単に趣味なのである。

すなわち、「置きたいから置く。置きたくないから置かない」ということだ。別に「NHKの受信料が負担で・・」とかそういうことでもなく、純粋に「置くか置かないかは趣味の問題」ということなのだ。クルマとか酒もそう。「〇〇離れ」の正体は、純粋に「趣味化」なのだ。主義主張でも、また多くは、深刻な「経済問題」でもない。単に、「好きでもないことにカネはつぎ込みたくない」だけなのだ(・・そういう意味では経済問題もあるが・・・)。おそらく、今の若者の所得が明日2倍になったとしても、テレビ、クルマ、酒、スキーなどにいきなりお金をつぎ込む―とはとても思えない。おそらく、黙って貯金に回すのが関の山だろう。老後が不安だからね。

==

隔世の感がある。子どものころは、テレビの番組1つで曜日を指折り心待ちにしていた時代が確かにあった。

月曜日は『志村けんのだいじょうぶだぁ』
火曜日は『サザエさん』の再放送と、『ドリフ大爆笑』
水曜日は『ドラゴンボール』
木曜日は『チンプイ』
金曜日は『ライブマン』からの『ドラえもん』
土曜日は『まんが日本昔ばなし』『おぼっちゃまくん』『クイズダービー』『8時だヨ!全員集合』/『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』
日曜日は『ウィンスペクター』『仮面ライダーRX』/『仮面ライダーブラック』『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』『世界名作劇場』

例えば上記の如くである。3―40年近く前でもはっきりと曜日を覚えているのだから、その影響力たるやとんでもないものがある。紛れもなくテレビっ子だった。

そして、もっと強烈にテレビと歩んできたのが、団塊の世代から少し下の世代くらいまでだろう。その証拠に、今やおじいちゃんとなった彼ら/彼女らの家では、ほぼ例外なく、大音響でずーっとテレビがついているのだ。もう「習慣」としかいいようがない。

しかし、今の若人に「視聴習慣」なるものはない。

今は例えば『おジャ魔女どれみ』だろうが、『プリキュア』だろうが、アマプラなりネトフリなりで過去のものであろうと何だろうと好きな時に好きなだけ見られるので、「あー、来週のドラえもん楽しみだなぁ」とはなかなかならない。別に見たいときに観ればよいのだから。

そしてそもそも、「倍速」で見る時代だ。放映される時間まで律儀に待って、その時間しか楽しめないなんてまどろっこしいったらない。

今の子どもが上記のようなスケジュールでテレビを楽しむとはとても思わないので、これからもどんどん「テレビ離れ」が進むだろう。これはもう抗いがたい時代の波としか言いようがない。

そしてそもそも、子どもが毎年80万人も生まれなくなっているので、マーケットとしてもおいしくない。かくて、「子供向け番組」はどんどんシュリンクし、ますます「将来のお客様」を奪っていく。

==

ファミリー層がターゲットのある企業が、テレビCMを見直してプロモーションを刷新した。結果は「売上減」。当然、「メッセージが伝わっていない」と大騒ぎになる。

でも、そりゃそうでしょう。そもそもファミリー層はもはやテレビを見ていないんだから。まず子どもがテレビを見ていない(Youtubeかサブスク、録画が中心)。大人も(多くは共働きで余裕がないので)テレビをのんびり眺める理由がない。

かといって「代替手段」たるWebのターゲティング広告も、トラッキングオフでターゲティングを外し、広告ブロックをかけてしまえばそれで終わり。メールもほとんどは「捨てアド」で登録して目につかないようにすればOK。見ないんだな、これが。

新聞広告も(誰もファミリー層は新聞を読んじゃいないので)激減・・となると、結局もっとも効率がよいのは「ポスティング」なのではないか―と。これまた、要塞化したマンションも増えているのでリーチするのはなかなか難しそうだが・・・・

・・・少し話がそれてしまった。テレビである。

そういえば我が家はどうだろう、と思って1日の家族のテレビ「画面」の視聴状況を振り返ってみた。

■妻
・NHKのBSのテニスの試合の録画(朝夕15分ずつ)

■娘
・NHKのニュース(朝起きてすぐの10分くらい×3日程度)
・アマプラでアニメ(1日60分)
・「ドラえもん」や「プリキュア」などの録画(週に計60分)

■私
・ブラタモリの録画(週に45分)

■家族で
・「ふたりはプリキュア」(週末に50分)

うむ。「テレビ」自体には接している。しかし、「テレビ」という機械には接していても、そもそも「テレビ放送」にほとんど触れていないことがわかる。

なので、スーパー銭湯などで久しぶりに民放を見て、CMを見ると懐かしい気持ちになる。タレントが分からない(ユーチューバーのほうが分かる)、親しみがわかない、だからますます見なくなる―という悪循環。

いかに「時間を割かせるか」の勝負は、手元で簡単にさわれるスマホに軍配が上がる。もはや、「リモコンを押す」という手間さえ億劫に思うようになってきた。「どんな番組をやっているのか」をザッピングするのさえ、実にしんどい。―と、かつての「テレビっ子」であった私ですら思うほどに、構造的な問題は深刻だ。

一日の長があるように思われてきた「コンテンツ制作力」ですらサブスク業者にお株を奪われつつある。また、「機動力」だってSNSに押されっぱなしだ。

一方で、「テレビの強烈なファン」というのも存在する。「マス」メディアの宿命として、「マス」へのアプローチは不可欠なところだが、でもしかし、コアなファンへ向けてニッチに収益を最大化することも、もしかするととても重要なことなのかもしれない。あ、書きながら思ったがそういう番組見たいかも。テレ東やEテレあたりがその方角に長けている気もするが、もっともっとぶっ飛んだテレビ、見てみたいなぁ。

Youtubeが完全に市民権を得て、ポリコレの波によって炎上しやすく多方面に配慮が必要な「テレビ化」をしていく(平たく言えば「つまらなくなっていく」)のであれば、テレビが「Youtube化」してニッチな方向で尖っていくのも面白いかもしれない!

もちろん、そこに行き過ぎるとそれこそ「飽きられたら終わり」の袋小路にハマってしまうわけだけれども・・・。


2022年11月29日

昔、娘の幼稚園で「学芸会」の主役を決めるときに、オーディション形式を導入していると聞いて驚いた。

立候補した数名を前に立たせ、いくつか台詞を言わせて、それをクラスメイトたちが挙手制によって投票するのだという。

「もっともよかった人」「次によかった人」に1票ずつ、そして「もっとも悪かった人」に1票を投じる(当然、票からはマイナスされる)仕組みとのことで、多数決の弱点である「反対意見をくみ取ることが困難」を見事に解消している。

ゆとり時代に騒がれた「手をつないでゴール」からずいぶんと時代は変わり、「勝ち抜き」という市場原理が幼稚園の学芸会にも導入されたわけである。私なんかは、変に子どもに主導権など与えず、先生が勝手に決めればいいのにと思うわけだが・・・(「どうしたら主役に選ばれるか」を考えることは、「どうしたら上司に高評価をもらえるか」の相似形であるからいつか仕事の役に立つのである)。

ちなみに我が子は最初から「町の人役」をやることを強く熱望したそうで、ちゃっかり第一希望を射止めていた。変に色気を出して、オーディションで落ちたらショックも増えるばかりだ。このリスク回避術、どこで覚えたのだろうか。この先ストレスなく生きていくには、「目だちすぎない」ことも一種の処世術である。


2022年11月22日

ワイヤレス掃除機が壊れてしまったので、実物を実際に動かしながら試してみようと思って家電量販店へ行く。

当然、国産メーカーのものに買い替えるのだろうな、と思ったらさにあらず。実際は、アメリカで掃除機のトップブランドだという、Shark製の掃除機を購入することになった。

「そうそう、こういうのでいいんだよ」という機能性や、操作性、シンプルさなどに惹かれたのが購入の理由だが、同時に、本当に「失われた30年」で「家電」の分野でさえ、日本が立ち行かなくなりつつあることを実感した。

すでに、デジタルガジェットの分野では日本メーカーのものがもう、ほとんどない。
自分の家にあるデジタル機器を眺めてみても、プライベートのPCはLenovoとMicrosoft(Surface)であるし、携帯もPixel(Google)とiPhone(Apple)である。タブレットもiPad(Apple)が2台とFire Tab(Amazon)、オンデマンド配信デバイスはFire Stick(Amazon)。見事に、GAFAM製品でほぼ独占している。DVDプレーヤーはASPILITY(エスキュービズム)で唯一、日本メーカー。あ、、もう年賀状も部数を絞ってオンデマンド印刷に切り替えたのでほとんど使っていないが、プリンタはキヤノンであった。

そういう意味では、ゲーム機として任天堂の3DS、Switch、Switch riteが世界規模でトップを張っているというのはすごいことだな、と思った。

一方、白物家電や生活家電に目を向けてみると、まだまだ日本メーカー製が多い。
テレビはPanasonic、冷蔵庫はSHARP(日本メーカー時代)、炊飯器は東芝、食洗機はPanasonic、洗濯機・乾燥機は日立、エアコンは三菱、といった具合である。

ちなみに、電子レンジはツインバード、オーブンレンジは山善、布団掃除機はアイリスオーヤマ、布団乾燥機は象印、ドライヤーはPanasonicーと、すべて日本メーカーであった。

・・・と、考えた時に、やはり我が家における国産メーカーの牙城が、まず「掃除機」から崩れたというのは、なかなか衝撃的な出来事だったのである。

なお、余談だが「敢えて電化生活から手動に戻った」ものもある。1つが電動歯ブラシ。いわゆる「ジレットモデル」で、むしろ歯ブラシを買い替えたほうが圧倒的に安いと気づいてしまったことが原因。もう1つが電動髭剃り。これも、使い捨ての髭剃りを丁寧にメンテナンスすれば、1本で何か月も使い回せることに気づいてしまったので使わなくなってしまった。そしてロボット掃除機。当初はとても便利で重宝していたのだが、毎回「床を片付ける」必要があるのが面倒くさすぎて結局使わなくなってしまった。今後、こういう「手動に回帰する」ものも増えてくるような予感がする。

===

ここで、厚生労働省『労働経済白書』『人口動態統計』、総務省『統計局人口推計』、財務省『国民負担率』、内閣府『国民経済計算』を参考資料として、2000年から20年間の日本の経済の弱り具合を確認しておきたい。

このグラフは、20年間の「現金給与総額(月額)」と、国民総所得に対する税金・社会保障への負担を示す「国民負担率」の推移を示したグラフである。

実質GDPは20年で8.2%の成長を見せているにも関わらず、給与はこの20年で1割以上も下落した(89.86%になった)。一方で、国民負担率は12.3ポイントも上昇している。

20年でわずか8%という超低率の経済成長の果実は「給与減」「国民負担率増」でスポイルされているため、景気回復の実感などないのが当たり前で、むしろ生活は格段に苦しくなっているとみるのが当然といえる数字である。

ちなみにこの間、人口は0.6%(ピークの2008年比では14年で-1.5%減)の減少に転じた一方、労働力人口は102.5%とむしろ微増。一方で出生数は、119万人から84万人へと20年で35万人も減少。これは率にして何と「約3割減」というとてつもない数字になっている。直近のニュースでは、22年上期の出生数がついに40万人を割った(前年よりも5%ショート)というから、いよいよ「出生数80万人割れ」も現実味を帯びてきた。わずか6年ほど前に「出生数100万人割れ」が騒がれたばかりなので、とてつもない勢いで少子化が進行していることが裏付けられている。

完全にシュリンクした経済下、これで国の活力が失われないほうが不思議である。
上記で挙げた家電が、米中韓欧台のメーカー名に根こそぎ変わる日が・・・そう遠くないのではないかという危惧が、もう笑えない現実となっているように思う。


2022年9月3日
1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

アーカイブ