2020年10月アーカイブ

夏から秋にかけて、3本ほど映画を見たので、唐突にそのレビューをしてみたいと思う。
『映画ドラえもん のび太の新恐竜』
『ミッドナイト・スワン』
『朝が来る』の3本だ。ネタバレを含む。

■のび太の新恐竜
コロナで史上初の上映延期になった映画ドラえもん。
1作目「のび太の恐竜」、初リメイク「のび太の恐竜2006」・・とやって、「新恐竜」。しかもリメイクではなくて完全新作だという。はて。まったく前情報なしで観た。

なるほどね。これは確かに「新恐竜」だ。新発見の恐竜という意味でも(最初作のピー助はフタバスズキリュウ)、鳥に進化した最初の恐竜という意味でも、これまでの『恐竜』とは違った「映画ドラえもん」という意味でも。

もともと『のび太の恐竜』は「いつもと違ってドラえもんの道具に頼らぬのび太たちの努力」というところがテーマだった。今回の「新恐竜」も、「努力」がテーマであることには違いない。ただ、通底するテーマは近似なのだが、40年もたつと、その描かれ方はまったく変わってくる。これが最大の感想だ。以下、それを詳しく述べる。

のび太は、原作では「日本一ダメな少年」である。だから、『恐竜』および『恐竜2006』は、感動作品としてやや誇張的に語り継がれてはいるが、よくよく冷静に見ると、「のび太が育てた恐竜が大きくなりすぎて、過去の世界に返しにいくしかなくなった」という、ある意味で「少年が勝手に巻き起こした話」なのである。

これはちょうど、祭りで手に入れた「金魚」「ミドリガメ」「ひよこ」が大きくなりすぎて、飼えなくなって、どこかで放出する・・というのと同じ構図なのだ。

これ、妻に言わせると「のび太が身勝手すぎて作品に感情移入できない」という。怒ってすらいた(余談だが、『ドラビアンナイト』で静香が奴隷商人に連れまわされるシーンでも、「のび太の勝手で静香がひどい目にあっているのに、のび太たちはシンドバッドの宮殿で飲み食いしていて酷い」と怒っていた)。

ただ、ここが『ドラえもん』のキモなのだが、そもそものび太は日本一ダメな少年なのだ。子どもというのは基本的には無邪気に身勝手で、怠けたい気持ちもあって、それでもやさしさや「ちょっとがんばる気持ち」がある。決して「いい子ちゃん」ではない。ともすれば「残酷さ」すらある。F先生の描いている子どもというのは、そんな「どこにでもいる」普通の子どもである。

敢えて陳腐な言い回しをすれば、「等身大の子ども」を描いているのだ。日常に接続した非日常・・これを「SF(すこしふしぎ)」と表現したF先生の言葉はとても深い。だからこそ、子どもは違和感なくドラえもんの世界に夢中になれるのである。

『恐竜』の身勝手な部分(勝手に恐竜を育てて、急に育てられなくなる)とがんばる部分(それでもピー助のためにがんばるんだ)、すなわちある種の残酷さとやさしさの奇妙な同居、という「子どもらしい部分」のミックスというのが、『恐竜』前2作のポイントだったのである。

そこへきて今回の『新恐竜』だ。今作は、のび太自身が「僕のわがままで育てた」と責任を自覚している。これは明らかに、自覚的に「わざと」入れている表現だと私は直感した。今は、妻が抱いたような感想(身勝手すぎて感情移入できないという気持ち)を『恐竜』前2作で感じる観客が増えてきたということでもあるのだろう。こういうところが実に現代的である。

子どもが見たら『恐竜』前2作であれ、今回の『新恐竜』であれ、普通に楽しめるのだろうが、無邪気さをどこかにおいてきた現代の大人は、おそらく『新恐竜』のほうにより感情移入することになるのだろう。

以上を一言でいうと、「のび太は妙に大人になったなぁ」というところか。明らかに作品のトーンから「無邪気な残酷さ」は消えている。F先生の『恐竜』ではないという意味で、『新恐竜』。なるほどね、と一人膝を叩いたのである。

映画そのものは、気合の入った映像の美しさはもちろん、道具を使った伏線、思わず応援したくなるストーリー展開など、「子どもに安心して見せられる映画」の王道をいく内容だった。無理に「明確な敵」が登場しないのも新鮮でよかった。

敢えて言うとしたら、3つある。

1つが、木村拓哉だ。どうしても木村は木村になってしまう。重要な役回りで、別に演技単体では取り立てて悪材料もないのだが、「木村がしゃべってる」と一度思ってしまうと、どうしてもSMAPの謝罪会見を思い出してしまっていけない。あの会見は元SMAPのメンバーを見ていてもずっと思い出してしまうよね(「ブラタモリ(全国版)」の草彅のナレーションでも毎回、あの会見のシーンを思い出してしまうものなぁ)。これはまあ仕方がないか。

もう1つが、こういうのも申し訳ないが、やたらと長いこと。子ども映画でのこの時間は長い。3歳の娘の映画デビューで連れて行ったのだが、「怖い」といって3回くらいトイレに行っていた。特に後半のシーン、恐竜が飛べるようになるまでの尺がちょっと長すぎる気がした。今は同時上映もないので1作でそれなりの尺が必要なのだろうが、それにしても・・心の中で、「もうわかったよ、飛べよ・・」と思ってしまうくらいには長い。まあこれは、感情移入し切れずにどこか冷静に見てしまったこちらの心持ちがいかんね。

そして3点目。途中でピー助が登場する。これ自体はなかなかよいシーンだが、『恐竜』『恐竜2006』を見ていないと、たぶんわけがわからないのではないか、とも思った。物語の「転」にあたる重要なシーンなのだが。よく取ればファンサービスの一環というところなのだろうが。

あれこれ書いたが、普通に楽しんで最後まで観られたので、『ドラえもん』が好きな方は「現代的に解釈された映画ドラえもんの様式」を一度ご覧あれ。

本項の最後に、追加で特筆すべき事項が1つ。ドラえもん映画ではじめて、オープニングソングがカットされている(タイトルのみ!)。これは驚いた。「ちょっと寂しいけれど、こういうのもありかもね」という気持ちと、「せっかく50周年記念の作品なのだから、『ドラえもんのうた』を挿入すればよかったのに」という気持ちと、両方抱いた。

***

続いて『ミッドナイト・スワン』と『朝が来る』のレビューだ。どちらも、ダイバーシティ(多様性)とは何か、家族の愛とは何か、を突きつける社会派作品である。

人は、その人でないとわからない領域というのが必ずある。それを100%分かりあうことはできない。ただ、共感したり、「そういう人がこの世のどこかにいる」ことを認識することはできる。それが限界だし、それを超えてかかわるのは、むしろ偽善である。「自分は何も知らないということを知ること」と「関われない領域があることを知る」ことが重要なのだろう。そして、それを知って相手とかかわっていくことが「愛」なのかもしれない。

■ミッドナイト・スワン
とても良い映画だった。いい意味で後味は非常に苦く、もやもやした気持ちがいつまでも残った。これは狙い通りだろう。「よかったね」「感動したね」で終わらせず、「考えさせる」ことが目的なのだろうから。

主演の凪沙役を演じる草彅剛はまさに怪演。途中の一果との料理のシーン、バレエの先生から「お母さん」と呼ばれて喜びを隠しきれないシーン、バレエ大会で一果の髪を整えるシーンなどは、「一果のママ」にしか見えなくなった。これはドハマリといってよく、ただただ演技が素晴らしく、舌を巻いた。ちなみにヒロインの一果(服部樹咲)は今作でデビューという。彼女も新人とは思えないまさに迫真の演技だった(エンドロールで新人と知って驚いた)。こりゃすごいね。誰も彼も実在の人物かのように生き生き動いている。血の通った映画だ。

テーマはLGBTを扱っているようでいて、根本には「愛のある家族への飢え」を描いているように思えた。凪沙は一果のお母さんになりたくて、やがて不可逆的な破滅へと向かう。その過程はただただ物悲しいが、凪沙の中には確かに、一果へ寄せる「愛」があった。その「愛」を持てた”お母さん”の凪沙は、確かに「母親としての愛」を獲得できたのである。

そして、その愛ゆえに、実母の下で自傷行為を繰り返すしかなかった一果は、”お母さん”である「凪沙」の愛を自分自身にたくさん取り込んで、自己実現の手段を獲得していく。・・と、ここまで書いて気づいたが、バレエの先生からも一果は「愛」を受け取っている。東京での友人、りんからも。

一方、一見すると恵まれてた家庭に育ったようにみえる一果の友人、りん(上野鈴華)は、家族のだれからも実は愛されておらず、唯一の心の拠り所であったバレエの道までが断たれてしまう。はじめて愛した友人、一果さえも自分からは遠い存在に感じていく。そして、最期は、誰かの結婚式という新しい”家族”が生まれるまさにその場で、人知れず散っていく。これはあまりにも悲しい対比だ。

人は、その人でないとわからない領域がある。そのことへの想像力は、絶やしてはならない。

繰り返すが、この作品の後味はとても苦い。しかし、目の前の家族を大切にしよう、自分を大切にしよう、「愛」とは何かを考えよう、そんなあたたかい気持ちにもなれる、不思議な映画だった。

内容に文句は1つもない。ただ、あえて1つだけ言わせていただくと、エンドロールの後のタイトル画だけどうしても違和感があった・・・(なぜこの画を最後に出す?と思ったのは私だけではあるまい。一果の心理描写のつもりにしては、ちょっと変だしなぁ。あまりにも後味が苦いのでそれを中和する何かだろうか・・・いや、それにしても唐突すぎる画なんだよなぁ・・しかしこれは何らかの意味があるはず・・・はて・・・)

いずれにしても、「見ておくべき映画」の1つだろう。名作だと思う。

(補遺)
エンドロール後の「画」について。ネット上でこんな考察が飛び交っていることを知った。曰く、これは「受胎告知」ではないか、と。

参考:https://cinemarche.net/drama/midnightswan-endroll/

とても興味深い考察である。

「子」の存在によって、「女」は「母」となる。凪沙は確かに「母」になった・・・と考えると、「後味は苦い」どころか、超絶に「よい」ものに代わるのである。見れば見るほど、深い作品だ。

(さらに補足 2020年10月31日追記)
映画版が素晴らしかったので、小説版も購入してすぐに読んだ。私は「いい意味で後味は非常に苦い」と書いたが、小説を読むと「後味はすっきりさわやか」なものに変わった。これは己を恥とせねばなるまい。読み込みが甘かった。してやられた、という感じだ。

小説版を読むと、ラストのシーンの描写の意味もよく分かった。これは間違いなく「受胎告知」の図でしょうね。なるほどね。

とにかく、凪沙は確実に「母」になったのだ。一果の。

やはり、小説は深い。人物描写の奥のところもよく理解できた。映画版も小説版も超おすすめである。面白かったなぁ。

■朝が来る
辻村深月さんの原作を読んで読後感が素晴らしかったというのもあり、公開初日にレイトショーで見に行った。

原作がよいと、映画化した時に不安なのだが、今作は内容的には原作にかなり忠実で、後味も原作と同じように気持ちのいいものだった。特にエンドロールの最後の最後が重要な意味を持つ。描写を描く映像も丹念で美しい。

この作品は、不妊治療の末、特別養子縁組という手段を選択したタワマン住まいの都会のパワーカップルと、過干渉の家庭で育つものの中学生で妊娠し、子どもを手放すことになった片田舎の母親との対比で描かれる。

私たちも不妊治療で相当に大変な思いをして子どもを授かった身なので、栗原夫妻の苦悩、諦観、夫妻それぞれの複雑な気持ちはいちいち、胸に突き刺さるものがあった。

世の中には、悪気なく「子どもはつくらないの?」「子どもができたらどうする?」と聞く人というのがいるが、これが相当に人の心を傷つけかねない行為であるということは、不妊治療を経験してみないとたぶんわからない(ただ、私はそういう人を責めるつもりもまったくないので、そこは誤解のなきようにされたい)。

先述したが、人は、その人でないとわからない領域というのが必ずある。そういう想像力を持つだけでも、世の中はちょっとは平和になるんじゃないかな、と思う。でも、それが難しいのだ。この作品は、それを見事に言い当てている。

辛い思いを乗り越えて、朝斗とともに家族をつくってきた栗原夫妻は、堕落の果てに養父母の元にたどり着いた実の母、ひかりに対して「あなたは本当の母親ではないと思います」と冷たく言い放つ。

最後は誤解が解けて、感動のラストシーン(エンドロールを最後までみるしかない)へと誘われるわけだが、栗原夫妻にとってみても、やはり「その人でないとわからない領域」への想像力は持てない。まさか、実の母であるひかりが、家出をして、人知れず友人の裏切りで借金取りに追われ、堕ちるところまで堕ちる・・はずがない、と思うのは無理もない。まさに文字通り、「住む世界が違う」のだから。これだって、「その人ではないとわからないこと」の典型であろう。栗原夫妻にだって、その陥穽にはまるのだ(冒頭の「ジャングルジム転落事件」の描写で、わが子の内面すら100%は補足できないことが、見事に示唆されている)。

そう。この作品は、「人はどこまで、人に想像力を働かせられるのか」が問われている作品と言える。言ってしまえばひかりの家族が、少しでもひかりの内面を想像してあげれば、ひかりもここまで堕落することはなかったのである。

原作の魅力は、なんといっても丹念な人物描写だ。それは本作でも踏襲されている。そしてそれは、ご都合主義ではなく、「どうしようもない事実がある」ということをそのまま描写している。だからこそ、真に迫る作品に仕上がっているのだ。

・・「どうして自分がこんな目に」と嘆くひかりに対して、借金取りが「バカだからじゃね?」と言い捨てるシーンなどは、まさに救いようがないシーンだ。ひかりは、まったく希望のない現実を突きつけられる。ただ、こういう救いようがない状況にある人がいる可能性がある、というところを丹念に描写する辻村深月さんの人間描写がすごすぎるのだ。

原作では、ひかりはもっと騙されて、もっと堕ちていく。その挙句に栗原家に「登場」するのだが、本作ではそこはややマイルドに描かれていた印象である。ただ、そこまで描いたら3時間物の映画になってしまうので、仕方がないかもしれない(少しだけ心残りだけれど)。

その分、この映画で原作から「映画」化した部分というのは、子どもである「朝斗」の視点が取り入れられていることだ。育ての親は「朝斗に幸せになってほしい」と願い、産みの親もそれは同様。作品の後半で明かされるが、ひかりだって自分の存在を「なかったことにしないでほしい」のだ。自分の存在を残したいのだ。

2人の母親から愛を受けている肝心の朝斗は、どんな気持ちで2人の「母」をみてきたのだろう。それは、繰り返しになるが、エンドロールを見切った先に明かされる。

タイトルは「朝が来る」だ。明確に描写はされないものの、栗原家とひかり、そして朝斗にとって、やってくる未来はきっと明るい。そんなさわやかな読後感を持てる作品である。

こちらも名作だ。「見ておくべき作品」の1つであろう。
奇しくも、『ミッドナイトスワン』と同様、「子」の存在によって、「女」は「母」となるというところと、「人は、人の本当の内面をわかりきれない」というところ、これがシンクロする。

最後に余談だが、この作品は映像の手法として主観的なアングルが多用されている。酔いやすい人は、映画館で鑑賞する際は、できるだけ「見下ろす」位置を席に取ることをお勧めしたい。「見上げる」席で観たら、覿面に画面酔いして、後半の1時間半くらい、グロッキー状態で映画を見る羽目になった。寝不足だったり、疲れていたり、体調が悪いときに見ると画面酔いしやすいので、できるだけ体調がよく、目が疲れておらず、疲れてもいない状態で鑑賞すると、作品世界に没入できるかと思われる。せっかくいい作品なので、心配な人は上映前に「酔い止め」を飲んでもよいかも。

私の場合、金曜の仕事後のレイトショー(疲れている、目もおかしい)、夕食後(ビール飲んだ)、ちょっと空腹(何も買わずに入場)、寝不足、花粉症で鼻づまりというコンディションがあまりよくない状況で観たので、本当にキツかったです。映画は元気な時に観ましょう(って、当たり前か)。


投稿 2020年10月25日

アーカイブ