2020年12月アーカイブ

百花繚乱・・・もとい、諸説紛々の「英語教育界」に、「英語を学ぶには、絵本がよい」という流派があることを最近知った。よくある「日本人は9年間も(今は12年間)も英語を勉強するのに、ちっとも話せない。それは受験英語に問題がある」という批判の急先鋒ともいえる論点であり、興味深く思った。

絵本か・・・まずは有名な英語の絵本、「Clifford the Big Red Dog(おおきいあかいクリフォード)」を手にしてみよう。いきなり原書のハードルが高ければ、CDつきのクリフォード初歩の初歩、「フォニックスファン」シリーズからでよいと思う。たぶんこれくらいとっつきやすくないと、続かないと思う。

しかし「絵本」と馬鹿にするなかれ。まずびっくりするはずである。文字だけだと、すべての意味が分からないことにすぐに気づくからだ。

そこで絵を頼りにすると、何とか推測して文章を読み進めることができる。「英語は絵本で」派の主張はまさにここで、「絵を頼りに、文脈を補足する」ことの積み重ねこそが、英語力の基盤になる、と言っている(やや乱暴なまとめかもしれないが)。なるほどそうかもしれないな、と思う。

とあるTOEIC850点の才媛ですら、当該書籍を初読で「意味が分からない単語があった」と言っているくらいなので、私が読めなくても当然なのだが、現地人はこれを2、3歳で読み聞かせされて意味が分かるわけだ。それだけ、「テストの英語」と「実際の英語」が乖離しているということだろう。

例えば英単語の「POP」。絵を見れば「じいじ」のことだとわかるが、「祖父」=Grand Father もしくは Grand-Paなんて機械的に覚えている脳には、どうしても「POP=じいじ」とは思い浮かばない。こういうのがたくさんあることに、「クリフォード」シリーズを1冊読むだけでも、愕然とさせられるのだ。

日本人が、ちょっとふざけて「うちのじーちゃんがさぁ」という話をするようなノリで、英語圏の人と「My POP was ●●●、HAHAHA,,,」なんてやられて、「?」だったら、「こいつ、こんな言葉も知らねぇのかよ」と思われること請け合いである。

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翻って、言葉を学ぶには、「絵本がよい」ということなのだろうと思う。よく「歌と読み聞かせが大切」というが、確かに、語彙も十分に獲得していない乳幼児が、ことばの世界を広げていくには、情景を想像できる(その言葉が表す意味内容が具体的に表象される)「メロディ」や「絵」の存在が決定的に大切なのだろうと思う。

わが子には、0歳から約2年かけて「読み聞かせ1万冊」を実践してみたが、それから約2年。約100分の「ドラえもん映画」の内容を理解し(例えば名作の1つである「宇宙小戦争」の感想を述べることはできる)、「すみっコぐらし」の映画で感動して泣くくらいの状況把握力は身に着けてくれている。「絵本に触れさせることの大切さ」は、日に日に(事後的に)体感しているところである。内田樹さんが著書『日本辺境論』で、「学びとは、事後的に体得されるもの」ということを書かれていて「なるほど!」と思ったものだが、本当に「絵本」の効果は事後的に顕れるように思うのである。

「言葉」で生活する人間は、その言葉の獲得を、何かで担保せねばならない。その1つの方法が、確かに絵本なのではないか、ということはわが子への実践からも何となく感じるのであった。


2020年12月29日

この2020年は、「当たり前を疑う」ことをつくづく、思い知らされた1年であった。

コロナ禍によって、「当たり前」だと思っていたことがいかに「常識の壁」によって阻まれていたか、思い知らされることになった。

***テレワークでわかった、仕事の「当たり前」の虚構

「市井の生活者」という視点で一番大きかったのが、やはりテレワーク化の急激な進展であろう。これ以前の生活様式が、もはや嘘のようである。

そう。もはや、完全に身体がテレワーク仕様になってしまったのである。
今までどうして、「決まった時間に電車に乗って、決まった時間に出社して、決まっていない時間に帰宅」していたのだろうか。信じられない苦行をしていたものだ。

仕事のうち、「資料作成」「情報収集」「アポ取り」「情報共有」「会議」「打ち合わせ」「構想を練る」に関わる領域は、ほぼ間違いなく、「会社でやらなくてもできること」だ。というか、「デスクワーク」というくらいだから、机でやれることは基本的にはオフィスでやらなくてもできてしまうのであった。どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう!

物理的に見ても、判子は必須ではなくなりつつあるし、経費精算だって電子化が進む。印刷はコンビニでもできるし、FAXなんて使うことはほぼない(よく考えたら、今年はついに1件もFAXを送らなかった!)。

物理的に「オフィスでしかできないこと」が急激な勢いでなくなっているのだ。

では、オフィスで必要なこと(オフィスでしかできないこと)は何か。究極的には「日常の動きの中で、刺激を受けること」くらいしかないのではないか。「〇〇さんの会話を小耳にはさんで自然と学ぶ」とか「ちょっと相談」とか。いわゆる昭和型の「ワイガヤオフィス」で得られた「暗黙知」の部分である。

こればかりはTeamsなりSlackなりZoomなりSkypeなり、オンラインツールでは出来得ない「何か」空気的なものなのだと思う。だからオフィスは「完全には」なくならないし、なくすべきではない。

とはいえ、である。オフィスで毎日働きづめる必要もないのだ。
人類は「楽な方向」へ行くように進化する。
もはや、「毎日出社」社会には間違いなく戻らない。なぜならば、それが楽だから。

すると経済合理的にみて、賃料の高い都心部のオフィスは急激に減床(社員の収容数をハナから100%で設計しない)していくことが容易に想定される。これはもはや、「時代の転換」というやつだ。

そうなると、どういうことが起こるか。少し考えてみるだけで、以下の10点が思い浮かぶ。急激すぎる大転換である。

(1)電車に乗る回数が激減する
「移動せずにできること」が極めて多いことに、誰もが気づいてしまった。通勤だけでなく、移動や出張も「わざわざしなくても・・」ということになる。

(2)通勤経路に乗じたビジネスが変容する
通勤頻度が減るのだから、会社帰りにわざわざ単価の高いエキナカ・エキチカのお店に寄る、といったことがそもそも少なくなる。

さらに通勤手当が廃止されて「交通費の都度清算」が増えれば、ますます「通勤経路の途中で寄り道してお買い物」などもしなくなる。

(3)ビジネス街の商売が変容する(訪問販売、ビジネス街のコンビニ、昼食など)
通勤しないのだから、必然的にお昼もそこで食べなくなる。給茶機の減りも悪くなり、オフィスのお菓子も全然なくならない。

仮に部署の半数の人間が週2テレワークをするだけで、単純に胃袋の数は4割減である。この影響はかなり大きい。

(4)オフィスファッションビジネスが変容する
スーツを着なくなる。革靴を履かなくなる。ネクタイを締めなくなる。腕時計もしない。ベルトも痛まない。鞄もほとんど持ち出さない。・・オフィスファッションは極端な変容を見せるはずだ。

(5)在宅勤務向けのビジネスが伸長する
家具の新調。気になる部屋の掃除。「家にいる時間が長くなる」ゆえのビジネスは伸長する。

(6)駅チカではなく、家チカビジネスが伸長する(近所のスーパー、商店街など)
駅チカにわざわざ行くのではなく、家チカで昼を済ませる。気分転換は近所の散歩。「あ、こんな店あったんだ。意外とおいしい」で常連へ。家チカビジネスが相当にアツい。

(7)「飲み会」が消滅する
最初に書いておくと、「飲ミニケーション」というのは、先述した「暗黙知」の1要素であり、ここで会社の「空気」を学ぶという要素があるという点で、飲み会は(少なくともコロナ前の時代においては)重要なコミュニケーションの場であったことは疑いない。

しかし、「集まらない」社会になってしまったゆえに、1回で3?5000円/人が費消されてきた「飲み会」(懇親会、会社帰りの愚痴大会、忘年会、納会、新年会、歓迎会、送別会、2次会周り)は、もはや風前の灯火である。まさか「忘年会」や「新年会」がなくなるなんぞ、去年は誰も思わなかっただろうなぁ。「三密を避ける」を大義名分に、これ幸いと右へ習えで「やーめた」って人も多いのではないか。

飲みたい人どうしは言われなくても飲むわけで、「飲みたくない人が駆り出されない」という点で、「よかった」という向きはとても多いのではないか。これまで、「特に飲みたくない人と飲む」ことにどれだけの人が時間と金銭とことによっては健康コストを費やしてきたかと思うと頭がくらくらする。

ちなみに「オンライン飲み会」などの手段もあったが、それとて「切りどきが分からず意外としんどい」ので定着しきらず(最初は珍しさで流行ったが)、ちょっと残念な感じになっている気がする。おそらく、これは従来の「飲み会」の代替にはならないだろうな、と感じている(1時間強制終了・再入室不能くらいのシステムじゃないと、毎回やる気にはならないだろうね)。

(8)「終電ビジネス」が変容する
多くの鉄道会社が、コストばかりかかっていたであろう深夜帯の列車運行の切り上げに舵を切った。そもそも遅い時間に飲み歩く人の絶対数が減っているから、終電逃がしの「タクシー」「深夜バス」といった分野も以前ほどの需要は見込めない。折からの人手不足で深夜のコンビニも休業するケースが出てきた。夜の歓楽街の人手が減ったので、畢竟、漫画喫茶やカラオケ、カプセルホテルなどの「一晩過ごせる」空間の需要の絶対数も変容をみせるはずだ。

(9)「貸会場」も変容する
コロナ前、コスト削減の観点から「オフィスを減床して、大きめの会議やセミナーなどは会議室を都度借りたほうが安くない?」みたいなことが流行した。実際は、同じことを考えている企業が多かったので、会議室を借りるコストが意外と高くつき、「想定していたよりもコスト削減にならない!」なんていう笑えない話を見聞きした。が、それも今は昔。

オンラインで会議やセミナーができてしまうのだから、わざわざ高コストの会議室を借りる誘因が完全になくなってしまった。「打ち合わせや会議、ミーティングは原則オンラインで。オフィスには会議室は設けない(その分減床する)。どうしようもないときだけ、外部会場を借りる。」というのがこれからの標準的なオフィス設計になってくる。そこへどう「貸会場」が切り込むか。

(10)なんでもオンラインが普通になる
結果として、ビジネスモデルは大きく変容していかざるを得ない。平たく言えば、「直接会うこと」はほとんどなくなり、「なんでもオンライン」が普通になるということだ。これに適応できるかどうか、がそのまま自分自身のQOLともつながっていくことになる。

このように、あまりにも「仕事の当たり前」が、実は虚構に満ち溢れていたことに気づかされるのである。「これまでのこうあるべき律」からの脱却・・これは、人口オーナス期に突入し、「放っておいても売り上げが上がる時代」をとうに過ぎた日本が直面する「生産性向上」のための第一条件であるのかもしれない。

***長い「自粛生活」でわかった、日常の「当たり前」の束縛

都合、我々は2月中旬くらいからほぼ1年間にわたって、「非日常の日常化」というフェーズを歩んできた。ほぼずっと「自粛生活」を余儀なくされ、それがむしろ普通になる「ニューノーマル」を演じることとなったわけだ。この結果、日常の「当たり前」が、むしろ「それ、今やらなくてもいいんじゃない?」ということの連続によって成り立っていることに気づかされたのである。もちろん「歳時記」は重要であるが、あまりにも「やること」に私たちは追い立てられていたのではないか。

(1)学校に毎日通うこと
昔から、「皆勤賞のために、クラス一丸となって全員が出席できるクラスをつくる!風邪でも1時間だけ出席したからOK!」というニュースを見るたびに、「頑張るところが違うよなぁ」と思ってきたが、このコロナ禍で「皆勤賞」という仕組みの虚構性が浮き彫りになった。「具合が悪かったら、休む(人にうつさない、自分も早く治す)」という当たり前のことが、ようやく・・・ようやく日本の公教育で認められたのである。

だいたい、徒歩20分かけて毎日通学させる必要はもはやなくて、オンラインでできるものはオンラインでやればいいし、飛び級も落第も作って「できる奴を伸ばす、できない奴も救う」という個人別教育を入れていくべきなのだ。必要なのは多様化・個人別カスタマイズであって、「みんなで同じ空間で同じ字を書いて、同じ絵を描く」ことではないはずだ。

これからの時代、「テストで習っていない漢字を書く生徒には×」とか、「りんごが5個入ったかごが7個あります、という問題に7×5と式を立てると×」とか、狭隘な視点の教育は淘汰されるべきなのである。まったく意味がないから。

※ちなみに私は「集団教育に意味がない」とは一言も書いていない。集団で何かをすることの意義はある。しかしそれは、あらゆる時間を同じカリキュラムでやることとはイコールではないはずだ。

(2)GW、お盆、年末年始の過ごし方
「長期休み=旅行、レジャー」という構図が、完全なる強迫観念であることが分かった。必ずしもこの時期に誰も彼もが民族大移動をする必要はないし、時間があるからこそ「家やその近所で過ごす」という楽しみ方もある、ということは多くの国民にとっての「気づき」となったはずである。

(3)多くのイベントと付随する購買行動
新興のハロウィンをはじめとして、「イベント=バカ騒ぎ、何か記念になることをする」がすっかり定着してしまった。これも一種の集団強迫観念であったことが判明した。別にハロウィンで渋谷に集まらなくても、クリスマスでイルミネーションを見なくても、別の楽しみを見出してしまえることに気づいてしまった。

(4)「24時間社会」
24時間社会の旗振り役であったコンビニが、「深夜営業」に白旗を上げつつある。人手不足から、ファミレス業界は早々に(コロナ前から)「24時間営業」の旗を降ろしてきたが、いよいよ「深夜に開いている意味」が問われる社会が到来した。

飲食店への度重なる営業自粛要請、さらにこれに追い打ちをかけるように鉄道各社の終電切り上げと、「夜型社会」そのものの存在が問われようとしている。

(5)病院に気軽に行くこと
日本の医療費負担(特に高齢者)が相対的に軽いことで、「病院が高齢者のサロン化」していたことはよく指摘されてきたことである。今は高齢者が行かなくなったので、病院がむしろ「空いている」。コロナ発生後に都合3回ほど病院にかかったが、いずれも空いていて、スピーディーに診療していただけた。こんなこと、今まではなかった。・・・ということは今までどれだけ、「サロン」に国民の血税(実質税の健保料含む)が費やされてきたのか!

・・と、思いつくだけでいろいろと「当たり前」だったことが「当たり前」でなくなっていることに気づかされるのである。


2020年12月27日公開

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