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このウェブログのタイトルが「編集後記」だったことを今更ながら思い直した。

観る人からすると、お、何か掲載されているネタの裏話かな、なんて期待して開くと、突然、エコに対して激怒していたり、消費増税にブチ切れていたり、かと思うと突然映画のレビューをしていたり、全然このサイトの話をしていない(していることもあるが)。そう、まったく「編集後記」ではない。

・・・ということで、ちょっとは珍しく「編集後記」をしたいと思う。

***
2020年11月8日のトップページのネタについての制作話から。
まずオープニングとエンディング画像について。普段はソースを書かないが、これは千葉市花の美術館(三陽メディアフラワーミュージアム)である。ここはゆったりといろんな花を眺めることができるのでなかなかおすすめのスポットである。1つ1つ装飾もかわいいのよね。掲載した写真も、ディスプレイが可愛すぎてフォトジェニックすぎて、どうしても撮っておきたくて撮ったもの。愛らしいものが好き!

次にネタについて。コメントにものすごく時間がかかるネタもあるのだが、これはスパーンと決まった。ほとんど言葉なしでいける、シンプルなネタが一番気持ちいい。作っていて最高なのは、看板を見つけた瞬間にネタまで出来上がることだが、これは何となく感じるものがあって写真を撮って、PCに保存して、画像を見たときにコメントが急にインスピレーションが湧き上がってきたパターンである。気持ちいい!

ちなみに最近は電動自転車を買って、それでサイクリングをしながら神社巡りをしたり、サイクリングロードを走ったり、スーパー銭湯に行ったりするのが趣味になっているのだけれど、その道すがらで発見した看板がネタになっている。「趣味」と「実益(何のだ)」を兼ねているのだ。

最後にお約束のはとについて。「鳩時計」、そのまんま。気持ちいいくらい「鳩時計」。ちなみにここは葛西臨海公園。ここの葛西臨海水族園は非常におすすめである。メインはマグロ大水槽とペンギン島なのだが、それ以外にも様々な珍魚、海鳥などラインナップが充実。「ショーなし」だから比較的安いし、万人向けの好スポットだと思うなぁ。

***
youtuberの動画を見ていると、「僕の制作環境を発表します」的なのってよくある。誰がどんな機材や部屋でクリエイティブ活動をしているのか・・というのは、男心を実にそそられるのである(だからヨシダヨシオさんとか、「作業部屋」ベースだから超おもしろい)。

雑誌なんかで「漫画家の部屋公開」とか、「ここであのアニメが作られている!」的な企画も大好きである。

ということで、「ううせいじんの制作環境 大公開」のコーナーが突然はじまる。

(※画像が消えてしまいました/2022年1月補注)

これが私の制作環境である。
上段は時計、卓上カレンダー、ティッシュ、薬箱、しおり、置物であり、
下段は電気スタンド、ノートPC、マウス、アロマスティック、文房具入れ、置物である。

シンプルでしょう。
デスクトップもこんな感じである。

(※画像が消えてしまいました/2022年1月補注)

決してミニマリストではない。むしろ、「物を捨てられない野郎」「趣味は読書と積ん読です」的な感じだが、作業環境はシンプルなのだ。

さあ、お待ちかねのQ&Aコーナーである。

Q「どんなPCを使っていますか」
A「別に動画サイトでもないし、ごく普通のノートPCを使っています。え?スペックですか?2011年から8年間愛用していた(Windows7→8→10 Proと入れ替えて使ってきた年季モノでした)東芝のDynabook T551が壊れたので、2019年の秋にLenovoの IdeaPad L340に買い替えたんですよ。CPUはIntel Core i7-8565U(第8世代)、メモリは8GB、SSDは1TB。Windowsは10 Home。普通にこのサイトを編集する分には何のストレスもないですね」

Q「どんなソフトでサイトを作っていますか」
A「マイクロソフトのWebオーサリングツール「FrontPage2002」を使い続けています。Office XPの時代からのものだから、かれこれ・・・15年じゃくだらないくらいお世話になっています。さすがにWindows10で動かすにはちょっとした手間が必要だったのですけれど、ちゃんとマイクロソフトのライセンスも通ったし、愛用しています」

Q「写真は何で撮影していますか」
A「以前はデジカメを使っていました。ただ、iPhoneになってからはもっぱらiPhoneだけになりました。ちなみに今はiPhone8を使っていますよ。」

Q 「Youtubeはやらないんですか」
A インスタでもブログサービスでも、TwitterでもYoutubeでもなんでもいいんですが、せっかく自分でつくったものが「他人のトラフィック」になるんですよ。もしそのサービスが終了したら、「自分がやったこと」は、その痕跡ごと消えてしまう・・そんなの収集癖のある私にはとても耐えられません! 原則は自分のドメインで、つまり自分のお庭で遊んでいたいので、やらないと思います。楽天が買収したinfoseekのiswebが突然、全部消されて以降、クラウドサービスに頼るのはやめようと決意したので(使っても期待はしない、いつか消えると思う、ということです)。・・・で、答えていて気づきましたが、ここは「持ち家信仰」的なモノがあるのかも・・・


2020年11月8日公開

夏から秋にかけて、3本ほど映画を見たので、唐突にそのレビューをしてみたいと思う。
『映画ドラえもん のび太の新恐竜』
『ミッドナイト・スワン』
『朝が来る』の3本だ。ネタバレを含む。

■のび太の新恐竜
コロナで史上初の上映延期になった映画ドラえもん。
1作目「のび太の恐竜」、初リメイク「のび太の恐竜2006」・・とやって、「新恐竜」。しかもリメイクではなくて完全新作だという。はて。まったく前情報なしで観た。

なるほどね。これは確かに「新恐竜」だ。新発見の恐竜という意味でも(最初作のピー助はフタバスズキリュウ)、鳥に進化した最初の恐竜という意味でも、これまでの『恐竜』とは違った「映画ドラえもん」という意味でも。

もともと『のび太の恐竜』は「いつもと違ってドラえもんの道具に頼らぬのび太たちの努力」というところがテーマだった。今回の「新恐竜」も、「努力」がテーマであることには違いない。ただ、通底するテーマは近似なのだが、40年もたつと、その描かれ方はまったく変わってくる。これが最大の感想だ。以下、それを詳しく述べる。

のび太は、原作では「日本一ダメな少年」である。だから、『恐竜』および『恐竜2006』は、感動作品としてやや誇張的に語り継がれてはいるが、よくよく冷静に見ると、「のび太が育てた恐竜が大きくなりすぎて、過去の世界に返しにいくしかなくなった」という、ある意味で「少年が勝手に巻き起こした話」なのである。

これはちょうど、祭りで手に入れた「金魚」「ミドリガメ」「ひよこ」が大きくなりすぎて、飼えなくなって、どこかで放出する・・というのと同じ構図なのだ。

これ、妻に言わせると「のび太が身勝手すぎて作品に感情移入できない」という。怒ってすらいた(余談だが、『ドラビアンナイト』で静香が奴隷商人に連れまわされるシーンでも、「のび太の勝手で静香がひどい目にあっているのに、のび太たちはシンドバッドの宮殿で飲み食いしていて酷い」と怒っていた)。

ただ、ここが『ドラえもん』のキモなのだが、そもそものび太は日本一ダメな少年なのだ。子どもというのは基本的には無邪気に身勝手で、怠けたい気持ちもあって、それでもやさしさや「ちょっとがんばる気持ち」がある。決して「いい子ちゃん」ではない。ともすれば「残酷さ」すらある。F先生の描いている子どもというのは、そんな「どこにでもいる」普通の子どもである。

敢えて陳腐な言い回しをすれば、「等身大の子ども」を描いているのだ。日常に接続した非日常・・これを「SF(すこしふしぎ)」と表現したF先生の言葉はとても深い。だからこそ、子どもは違和感なくドラえもんの世界に夢中になれるのである。

『恐竜』の身勝手な部分(勝手に恐竜を育てて、急に育てられなくなる)とがんばる部分(それでもピー助のためにがんばるんだ)、すなわちある種の残酷さとやさしさの奇妙な同居、という「子どもらしい部分」のミックスというのが、『恐竜』前2作のポイントだったのである。

そこへきて今回の『新恐竜』だ。今作は、のび太自身が「僕のわがままで育てた」と責任を自覚している。これは明らかに、自覚的に「わざと」入れている表現だと私は直感した。今は、妻が抱いたような感想(身勝手すぎて感情移入できないという気持ち)を『恐竜』前2作で感じる観客が増えてきたということでもあるのだろう。こういうところが実に現代的である。

子どもが見たら『恐竜』前2作であれ、今回の『新恐竜』であれ、普通に楽しめるのだろうが、無邪気さをどこかにおいてきた現代の大人は、おそらく『新恐竜』のほうにより感情移入することになるのだろう。

以上を一言でいうと、「のび太は妙に大人になったなぁ」というところか。明らかに作品のトーンから「無邪気な残酷さ」は消えている。F先生の『恐竜』ではないという意味で、『新恐竜』。なるほどね、と一人膝を叩いたのである。

映画そのものは、気合の入った映像の美しさはもちろん、道具を使った伏線、思わず応援したくなるストーリー展開など、「子どもに安心して見せられる映画」の王道をいく内容だった。無理に「明確な敵」が登場しないのも新鮮でよかった。

敢えて言うとしたら、3つある。

1つが、木村拓哉だ。どうしても木村は木村になってしまう。重要な役回りで、別に演技単体では取り立てて悪材料もないのだが、「木村がしゃべってる」と一度思ってしまうと、どうしてもSMAPの謝罪会見を思い出してしまっていけない。あの会見は元SMAPのメンバーを見ていてもずっと思い出してしまうよね(「ブラタモリ(全国版)」の草彅のナレーションでも毎回、あの会見のシーンを思い出してしまうものなぁ)。これはまあ仕方がないか。

もう1つが、こういうのも申し訳ないが、やたらと長いこと。子ども映画でのこの時間は長い。3歳の娘の映画デビューで連れて行ったのだが、「怖い」といって3回くらいトイレに行っていた。特に後半のシーン、恐竜が飛べるようになるまでの尺がちょっと長すぎる気がした。今は同時上映もないので1作でそれなりの尺が必要なのだろうが、それにしても・・心の中で、「もうわかったよ、飛べよ・・」と思ってしまうくらいには長い。まあこれは、感情移入し切れずにどこか冷静に見てしまったこちらの心持ちがいかんね。

そして3点目。途中でピー助が登場する。これ自体はなかなかよいシーンだが、『恐竜』『恐竜2006』を見ていないと、たぶんわけがわからないのではないか、とも思った。物語の「転」にあたる重要なシーンなのだが。よく取ればファンサービスの一環というところなのだろうが。

あれこれ書いたが、普通に楽しんで最後まで観られたので、『ドラえもん』が好きな方は「現代的に解釈された映画ドラえもんの様式」を一度ご覧あれ。

本項の最後に、追加で特筆すべき事項が1つ。ドラえもん映画ではじめて、オープニングソングがカットされている(タイトルのみ!)。これは驚いた。「ちょっと寂しいけれど、こういうのもありかもね」という気持ちと、「せっかく50周年記念の作品なのだから、『ドラえもんのうた』を挿入すればよかったのに」という気持ちと、両方抱いた。

***

続いて『ミッドナイト・スワン』と『朝が来る』のレビューだ。どちらも、ダイバーシティ(多様性)とは何か、家族の愛とは何か、を突きつける社会派作品である。

人は、その人でないとわからない領域というのが必ずある。それを100%分かりあうことはできない。ただ、共感したり、「そういう人がこの世のどこかにいる」ことを認識することはできる。それが限界だし、それを超えてかかわるのは、むしろ偽善である。「自分は何も知らないということを知ること」と「関われない領域があることを知る」ことが重要なのだろう。そして、それを知って相手とかかわっていくことが「愛」なのかもしれない。

■ミッドナイト・スワン
とても良い映画だった。いい意味で後味は非常に苦く、もやもやした気持ちがいつまでも残った。これは狙い通りだろう。「よかったね」「感動したね」で終わらせず、「考えさせる」ことが目的なのだろうから。

主演の凪沙役を演じる草彅剛はまさに怪演。途中の一果との料理のシーン、バレエの先生から「お母さん」と呼ばれて喜びを隠しきれないシーン、バレエ大会で一果の髪を整えるシーンなどは、「一果のママ」にしか見えなくなった。これはドハマリといってよく、ただただ演技が素晴らしく、舌を巻いた。ちなみにヒロインの一果(服部樹咲)は今作でデビューという。彼女も新人とは思えないまさに迫真の演技だった(エンドロールで新人と知って驚いた)。こりゃすごいね。誰も彼も実在の人物かのように生き生き動いている。血の通った映画だ。

テーマはLGBTを扱っているようでいて、根本には「愛のある家族への飢え」を描いているように思えた。凪沙は一果のお母さんになりたくて、やがて不可逆的な破滅へと向かう。その過程はただただ物悲しいが、凪沙の中には確かに、一果へ寄せる「愛」があった。その「愛」を持てた”お母さん”の凪沙は、確かに「母親としての愛」を獲得できたのである。

そして、その愛ゆえに、実母の下で自傷行為を繰り返すしかなかった一果は、”お母さん”である「凪沙」の愛を自分自身にたくさん取り込んで、自己実現の手段を獲得していく。・・と、ここまで書いて気づいたが、バレエの先生からも一果は「愛」を受け取っている。東京での友人、りんからも。

一方、一見すると恵まれてた家庭に育ったようにみえる一果の友人、りん(上野鈴華)は、家族のだれからも実は愛されておらず、唯一の心の拠り所であったバレエの道までが断たれてしまう。はじめて愛した友人、一果さえも自分からは遠い存在に感じていく。そして、最期は、誰かの結婚式という新しい”家族”が生まれるまさにその場で、人知れず散っていく。これはあまりにも悲しい対比だ。

人は、その人でないとわからない領域がある。そのことへの想像力は、絶やしてはならない。

繰り返すが、この作品の後味はとても苦い。しかし、目の前の家族を大切にしよう、自分を大切にしよう、「愛」とは何かを考えよう、そんなあたたかい気持ちにもなれる、不思議な映画だった。

内容に文句は1つもない。ただ、あえて1つだけ言わせていただくと、エンドロールの後のタイトル画だけどうしても違和感があった・・・(なぜこの画を最後に出す?と思ったのは私だけではあるまい。一果の心理描写のつもりにしては、ちょっと変だしなぁ。あまりにも後味が苦いのでそれを中和する何かだろうか・・・いや、それにしても唐突すぎる画なんだよなぁ・・しかしこれは何らかの意味があるはず・・・はて・・・)

いずれにしても、「見ておくべき映画」の1つだろう。名作だと思う。

(補遺)
エンドロール後の「画」について。ネット上でこんな考察が飛び交っていることを知った。曰く、これは「受胎告知」ではないか、と。

参考:https://cinemarche.net/drama/midnightswan-endroll/

とても興味深い考察である。

「子」の存在によって、「女」は「母」となる。凪沙は確かに「母」になった・・・と考えると、「後味は苦い」どころか、超絶に「よい」ものに代わるのである。見れば見るほど、深い作品だ。

(さらに補足 2020年10月31日追記)
映画版が素晴らしかったので、小説版も購入してすぐに読んだ。私は「いい意味で後味は非常に苦い」と書いたが、小説を読むと「後味はすっきりさわやか」なものに変わった。これは己を恥とせねばなるまい。読み込みが甘かった。してやられた、という感じだ。

小説版を読むと、ラストのシーンの描写の意味もよく分かった。これは間違いなく「受胎告知」の図でしょうね。なるほどね。

とにかく、凪沙は確実に「母」になったのだ。一果の。

やはり、小説は深い。人物描写の奥のところもよく理解できた。映画版も小説版も超おすすめである。面白かったなぁ。

■朝が来る
辻村深月さんの原作を読んで読後感が素晴らしかったというのもあり、公開初日にレイトショーで見に行った。

原作がよいと、映画化した時に不安なのだが、今作は内容的には原作にかなり忠実で、後味も原作と同じように気持ちのいいものだった。特にエンドロールの最後の最後が重要な意味を持つ。描写を描く映像も丹念で美しい。

この作品は、不妊治療の末、特別養子縁組という手段を選択したタワマン住まいの都会のパワーカップルと、過干渉の家庭で育つものの中学生で妊娠し、子どもを手放すことになった片田舎の母親との対比で描かれる。

私たちも不妊治療で相当に大変な思いをして子どもを授かった身なので、栗原夫妻の苦悩、諦観、夫妻それぞれの複雑な気持ちはいちいち、胸に突き刺さるものがあった。

世の中には、悪気なく「子どもはつくらないの?」「子どもができたらどうする?」と聞く人というのがいるが、これが相当に人の心を傷つけかねない行為であるということは、不妊治療を経験してみないとたぶんわからない(ただ、私はそういう人を責めるつもりもまったくないので、そこは誤解のなきようにされたい)。

先述したが、人は、その人でないとわからない領域というのが必ずある。そういう想像力を持つだけでも、世の中はちょっとは平和になるんじゃないかな、と思う。でも、それが難しいのだ。この作品は、それを見事に言い当てている。

辛い思いを乗り越えて、朝斗とともに家族をつくってきた栗原夫妻は、堕落の果てに養父母の元にたどり着いた実の母、ひかりに対して「あなたは本当の母親ではないと思います」と冷たく言い放つ。

最後は誤解が解けて、感動のラストシーン(エンドロールを最後までみるしかない)へと誘われるわけだが、栗原夫妻にとってみても、やはり「その人でないとわからない領域」への想像力は持てない。まさか、実の母であるひかりが、家出をして、人知れず友人の裏切りで借金取りに追われ、堕ちるところまで堕ちる・・はずがない、と思うのは無理もない。まさに文字通り、「住む世界が違う」のだから。これだって、「その人ではないとわからないこと」の典型であろう。栗原夫妻にだって、その陥穽にはまるのだ(冒頭の「ジャングルジム転落事件」の描写で、わが子の内面すら100%は補足できないことが、見事に示唆されている)。

そう。この作品は、「人はどこまで、人に想像力を働かせられるのか」が問われている作品と言える。言ってしまえばひかりの家族が、少しでもひかりの内面を想像してあげれば、ひかりもここまで堕落することはなかったのである。

原作の魅力は、なんといっても丹念な人物描写だ。それは本作でも踏襲されている。そしてそれは、ご都合主義ではなく、「どうしようもない事実がある」ということをそのまま描写している。だからこそ、真に迫る作品に仕上がっているのだ。

・・「どうして自分がこんな目に」と嘆くひかりに対して、借金取りが「バカだからじゃね?」と言い捨てるシーンなどは、まさに救いようがないシーンだ。ひかりは、まったく希望のない現実を突きつけられる。ただ、こういう救いようがない状況にある人がいる可能性がある、というところを丹念に描写する辻村深月さんの人間描写がすごすぎるのだ。

原作では、ひかりはもっと騙されて、もっと堕ちていく。その挙句に栗原家に「登場」するのだが、本作ではそこはややマイルドに描かれていた印象である。ただ、そこまで描いたら3時間物の映画になってしまうので、仕方がないかもしれない(少しだけ心残りだけれど)。

その分、この映画で原作から「映画」化した部分というのは、子どもである「朝斗」の視点が取り入れられていることだ。育ての親は「朝斗に幸せになってほしい」と願い、産みの親もそれは同様。作品の後半で明かされるが、ひかりだって自分の存在を「なかったことにしないでほしい」のだ。自分の存在を残したいのだ。

2人の母親から愛を受けている肝心の朝斗は、どんな気持ちで2人の「母」をみてきたのだろう。それは、繰り返しになるが、エンドロールを見切った先に明かされる。

タイトルは「朝が来る」だ。明確に描写はされないものの、栗原家とひかり、そして朝斗にとって、やってくる未来はきっと明るい。そんなさわやかな読後感を持てる作品である。

こちらも名作だ。「見ておくべき作品」の1つであろう。
奇しくも、『ミッドナイトスワン』と同様、「子」の存在によって、「女」は「母」となるというところと、「人は、人の本当の内面をわかりきれない」というところ、これがシンクロする。

最後に余談だが、この作品は映像の手法として主観的なアングルが多用されている。酔いやすい人は、映画館で鑑賞する際は、できるだけ「見下ろす」位置を席に取ることをお勧めしたい。「見上げる」席で観たら、覿面に画面酔いして、後半の1時間半くらい、グロッキー状態で映画を見る羽目になった。寝不足だったり、疲れていたり、体調が悪いときに見ると画面酔いしやすいので、できるだけ体調がよく、目が疲れておらず、疲れてもいない状態で鑑賞すると、作品世界に没入できるかと思われる。せっかくいい作品なので、心配な人は上映前に「酔い止め」を飲んでもよいかも。

私の場合、金曜の仕事後のレイトショー(疲れている、目もおかしい)、夕食後(ビール飲んだ)、ちょっと空腹(何も買わずに入場)、寝不足、花粉症で鼻づまりというコンディションがあまりよくない状況で観たので、本当にキツかったです。映画は元気な時に観ましょう(って、当たり前か)。


投稿 2020年10月25日

なんでもそうだが、複雑化すると絶対に長続きしない。理由は簡単で、「疲れるから」だ。シンプルイズベストとはけだし名言である。

今、複雑化の極みにあるのがコンビニ(やスーパー)での買い物だろう。無根拠でやり玉に挙げられた「レジ袋」の有料化や、なし崩し的に導入されて誰もレジを通すまでは正確にその税率がわからなくなってしまった「軽減税率」などで、ますます混迷を深めている。

例えばあるビルの中のコンビニ(あるいはスーパー)で、ビールとお弁当を買ったとしよう。すると、ざっと挙げてみて、場合によっては15種類もの「選択」を私たちはしなければならないのだ。

すなわち・・・

<選択その1:購入方法>
(1)有人レジで購入する
(2)セミセルフレジで購入する
(3)セルフレジで購入する
⇒(解説)まずは「どんなレジで買い物をするか」という選択がある。毎朝『ウィルキンソン』1本を買うためにレジに並ぶのはどうも気が引けるので、セルフレジはありがたい。

<選択その2:レジ袋>
(1)レジ袋をつける(有料)→サイズを選ぶ(SML)
(2)レジ袋をつけない
・そのまま持って帰る
・エコバッグに入れる
・エコバッグに詰めてもらう(かご型エコバッグの場合)
⇒最高に面倒くさいことが加わった。外出先から帰宅するときに、「あっ、スーパーであれとこれ買わなくちゃ」と思ったときに、「でも袋を忘れたから今度にしよう」とか、コンビニで気になるお菓子があっても、「入れる袋がないからいいや」と、積極的に「ついで買い」の動機が失われていった。最高のデフレ施策だ。さすが環境にやさしいね!

<選択その3:袋の種類>
(1)袋は別にする
(2)袋は同じにする
⇒あたたかいものと冷たいものの袋を分ける。レジ袋をなくすより、こちらの慣習のほうがよほど「反エコ」だったのではないか。

<選択その4:付属物についての質問>
(1)割り箸
(2)スプーン
(3)フォーク
(4)割り箸とスプーン
(5)割り箸とフォーク
(6)スプーンとフォーク
(7)割り箸とスプーンとフォーク
⇒セルフレジで思わず取り忘れるものNo.1である。

<選択その5:商品のオプション>
(1)温める
(2)温めない
⇒レジ袋がなくなると、「あちちちち」と言いながら弁当を持ち運ぶ羽目になる。

<選択その6:年齢確認>
(1)20歳以上
(2)20歳未満
⇒毎朝検温記録を取らされる職場や学校は多いと思うが、これに匹敵する「やってますポーズ」の筆頭格だ。

<選択その7:食べる場所>
(1)外で食べる(持ち帰る)
(2)中で食べる(イートイン)
⇒中で食べると正直に言えば10%、一度外に持ち出して中で食べたら8%・・厳格に適用されているかはともかく、ふざけた制度だぜ。まったく。

<選択その8:ポイントカード>
(1)持っている
・貯める
・使う
(2)持っていない
・作る
・作らない
⇒これ以上物理的なポイントカードなど持ちたくないのが本音。スマホに一本化できればよいが、いちいちアプリを引っ張り出すのも面倒くさい・・・

<選択その9:クーポン>
(1)使う
(2)持っていない
⇒持ってき忘れるとテンションが大幅に下がる。

<選択その10:支払方法>
(1)現金
・全額
・一部(端数など)
(2)クレジットカード
・一括
・X回払い
・ボーナス払い
・リボ払い
(3)デビットカード
(4)プリペイドカード
(5)商品券
(6)電子マネー
(7)QRコード決済
(8)ポイント決済
・全部ポイント払い
・一部ポイント払い
⇒支払方法の選択肢が多すぎて、30年くらい前までの「現金だけ」だった時代を経て、「消費税増税のたびに小銭が増産されるニュースがあった」頃とは、隔世の感である。

<選択その11:支払方法のオプション>
(1)チャージする
・現金で
・クレカで
(2)何もしない
⇒レジがすごく並んでいるときにこれがあると、ちょっとピリッとしますよね。後ろが。

<選択その12:支払後のオプション>
(1)くじ引き
(2)福引券
(3)応募券
⇒買った後もいろんなものがもらえるんですよね・・・

<選択その13:駐車券>
(1)駐車券あり
(2)駐車券なし
⇒これを忘れると大変なことになります。

<選択その14:領収書の選択>
(1)レシート要
(2)レシート不要(本来は受け取るべきだが・・)
(3)領収書
⇒領収書が欲しいとき、それを口に出すのが憚られるくらい、ここまででヘトヘトになっていることってありませんか?

<選択その15:購入物の詰め方>
(1)自宅用
・その場で
・サッカー台で
(2)贈答用
・ラッピング
・熨斗紙
⇒最後に「詰め方」まで決めるのが今風なのです。

さて、こうなると、もはや臨界点だ。
「スマホだけ持って行って、自動決済」されるようなシンプルなお店(Amazon Go的な)が、近未来にはたくさんできる・・・・・・のだろうか???


公開 2020年9月27日

このコロナ禍は、いろいろな「気づき」を図らずもかつてないスケールで私たちに与えた。「本当はやらなくてもいいんじゃない?」という多くの気づきを、だ。

■定時通勤
「通勤は、体力を消耗させる。」・・定時出社を減らすだけで、体力・気力がここまでキープできるとは。もはや、「前」には戻れないという人は多いのではないか。
(キーワード)通勤電車

■集まっての会議
「集まることが仕事」化していたことに気づかされる。オンライン会議であれば、大量の資料をわざわざ紙に印刷する手間も省けるし、会議前の移動そのものも不要。とても効率的だ。
(キーワード)会議室

■出張
「出張することが仕事」化していたことに気づかされる。オンラインであれば、長い時間をかけて移動することも不要だし、家に居ながらにして国内はおろか全世界と同時に意思疎通が図れる。今まで「新幹線で移動して前泊して、会議に出て、ちょっとぶらついて帰る」という行為で丸2日かけていたことが半日で済むこともザラだ。いったい、今まで何をしていたのだろう。
(キーワード)新幹線、飛行機、ホテル

■リアル飲み会
緊急事態宣言以降、半年近くリアルな「飲み会」をしていない。私自身は、飲み会そのものの効用(職場の潤滑油的なこと)はよく実感するところだ。それにしても「毎週のように数時間で数千円を払って飲み食いする」ということが常態化していたのは、今思えば異常といえば異常だ。飲み会をしないことで、数か月単位でみればおそらく10万円単位でいわゆる交際費が浮いているのである。給与の縮減圧力が強まる昨今、誰もが一度「金がかからない」うま味を経験してしまったはず。簡単に「元に戻る」とは思えない。
(キーワード)居酒屋

■集団熱狂
オリンピック、ライブ、スポーツ観戦というのは「集団熱狂」というジャンルに属するものだ。感覚に個人差はあると思うが、感染リスクを鑑みると、この「集団熱狂行為」にとても「ひいて」しまう。一言でいうと、昔のように楽しめない気分なのだ。
たぶん、「24時間テレビ」「ハロウィンの仮想行列大会」「紅白歌合戦」あたりもこのジャンルに属していて、今や圧倒的な「違和感」でしかない。やるのは主催者の勝手だが、おそらく以前のような熱狂はおとずれないのではないか。
(キーワード)東京オリンピック、プロスポーツ、興行

■毎日出社すること
「会社に行くことが仕事」という時代が終わった。モバイルデバイスの発達で、基本的に、仕事はどこでもできる。オフィスに集まって、わいわい・・みたいなのは少なくとも20代の社員にとっては「なんでわざわざ集まるの?」くらいにしか思ってもらえず、どれだけその意義(その場にいることの重要性とか)を説明しても理解不能だろう。さらに今後数年以内に、オンライン授業世代が社会人になる。旧態依然としたオフィスを「是」としていると、人材も集まってこなくなるだろう。それくらい、コロナ禍で「オフィス観」は変わってしまったように思う。
(キーワード)オフィス、オフィス街のコンビニ


公開:2020年8月8日

このところ、改めてドラえもん映画(藤子・F・不二雄先生の大長編の原作があるものに限る)を見まくっていて、改めて「すごくおもしろいな」と思う。そして、見るごとに、自分のドラえもんへの理解の浅さが感じられて、本当に恥ずかしくなる。

知れば知るほど、深い。まだまだ理解が浅い。その深淵にたどり着くことは、私のような浅学菲才の身には不可能だろう。ドラえもんの世界は懐が深いが、見ようによってはどこまで掘ってもたどり着かない深谷のようなのだ。

藤子・F・不二雄先生は、本当に偉大だ。これだけの作品を継続的に提供できるストーリーテラーが、どれほど存在するだろうか。空前絶後の存在なのだと、改めて思い知らされる。

原作者亡き後の「映画ドラえもん」は、もちろん「ドラえもん」ではあるが、あくまでも「後世の人が脚色したドラえもん」である。やはり、大長編の裏付けのあるドラえもんの持つ魅力には代えがたい。

なぜ、「大長編」を原作に持つドラえもん映画はこんなにも面白いのか。とにかく感じるのは、次の魅力である。八点ほど挙げたい。

第一に、伏線と練られたストーリーだ。「なんだろう?」と思わせる謎が随所に散りばめられ、ストーリーの展開によって次々と明らかになっていく構成は、「物語のお手本」のようなものだ。「何気ないワンシーン」を、別のシーンで上書きし、あとで「あ、これだったか!」と膝を叩かせる・・これはおいそれとできるものではない。

様々な伏線が思い浮かぶが、『竜の騎士』の「ヒカリゴケ」で真っ暗な洞窟を明るく照らすアイデアは、まさかの後半に活きてくる。これなど物語づくりの好例中の好例だろう。「え?これも伏線だったの?」というのを仕込ませるのも巧い。『宇宙小戦争』でドラえもんが発する「どんな薬にも有効期限はあるの」というセリフは、直近で出てくる「チータローション」にかかってくるかと思えば、物語の核心に触れる重要な伏線である。また、例えば『銀河超特急』の「忍者の星」でジャイアンとスネ夫が「仮免許皆伝」で入手する「巻物」。この「ちょっとしたアイテム」、誰がストーリー上で重要な役割を果たすと思うだろうか・・・

第二に、日常とSFの自然な接続だ。藤子先生の定義によれば、SFは「すこし・ふしぎ」である。まさにこの言葉通りで、日常世界の中にフィクション・・あるいはファンタジーが混在するからこそ、見る者はその世界にどっぷりとつかることができるのだ。

『恐竜』で恐竜の卵をのび太が発掘するシーン、『宇宙開拓史』でのび太の部屋とコーヤコーヤ星が畳の裏1枚でつながるシーン、『鉄人兵団』で頭を冷やしに北極へ行ったドラえもんを探しに行く途中でのび太がジュドの頭脳を見つけるシーン、『竜の騎士』で0点のテストを隠した場所が地底世界の入り口だったシーン、『アニマル惑星』で登場した謎のピンクのもや、などはまさに「日常との接続」そのものである。

第三に、深い教養に裏打ちされた科学物語であるという点だ。古今東西の物語を広く・深く知悉していることで知られる藤子先生だが、併せて最新科学(自然科学だけでなく、歴史や神話などの人文科学を含む)への造詣も、相当に深いことが各作品からもよく窺える。要はまったく「浅さがない」のだ。1つ1つの物語が生半可な知識で描かれていないからこそ、深みのあるストーリーが展開されるといえよう。

その代表例が『創世日記』であろう。宇宙の創造から地球の形成・進化論といった宇宙科学・地球科学・生物学だけでなく、アダムとイブの神話からはじまりシャーマニズムの形成といった神話や宗教の概念、人類の発展史、果ては伝説、南極空洞説まで総動員した「今の人類に至るまでの知識のオンパレード」で1つの作品を成し、100分のボリュームに「子どもの鑑賞に堪えうる」レベルで仕立てるというのは、高名な専門家が束になっても、なかなか創れるものではない。また、『竜の騎士』で地底世界の首都エンリルに向けて地底船に乗るシーンで、多奈川底からアメリカ大陸へ向かう途中の火山帯を通過した時に、静香が「ハワイの近くかしら」とつぶやくシーンがあるが、これはもう、児童漫画で徹底的に培われた「知識をわかりやすく伝える」「技」のようなものである。ほかの漫画で、小4(映画では小5)の女の子に、「ハワイが火山帯」であることをごく自然に読者に開陳するようなシーンが挿入される作品など、見たことがない(ふつうは説明口調になるが、このシーンはもう、「自然」すぎて、視聴者は流してみるだろう。しかし、火山帯を通過する説明はこの静香の説明しかないのだ。もはやこのテクニックには、脱帽するほかない)。

第四に、キャラクタの特徴(ステレオタイプ)を活かしきった活劇であるという点だ。各キャラクタの生みの親は作者自身であるから、それはもう、生き生きと紙面を、画面上をドラえもんが、のび太が、静香が、ジャイアンが、スネ夫が動き回ったに違いないのである。「のび太だったら、こう動くだろう」という後世の人間が頭で考えた「造り」ではなく、もはや「のび太はのび太として自律的に動く」状態だったと想像される。ちなみに「キャラクタ」とは「特徴」のことであるから、必然的にステレオタイプ(いわゆるパターン)で動いてよいのである。

●ドラえもん・・・主人公の立ち位置には2つあって、主人公が動かない作品と、動く作品がある。ドラえもんやアンパンマン、ゴルゴ13は前者、こち亀は後者だろうか。そう。実は、彼は「傍観者」なのだ。アニメの「アンパンマン」を見ていると、彼はここぞという時にアンパンチでばいきんまんをやっつけるとき以外、常に「傍観者」であることに気づく。これと全く同じ構造で、ドラえもんがストーリーを動かすのではなく、周囲のキャラが勝手にストーリーを進めていく。「ここぞ」というときに動くからこそ、圧倒的存在感を放つのである。
●のび太・・・弱虫ですぐに人に頼って、ダメなところばかりだが、本質的に心が優しい。だから、親からも友人からも、先生からも見放されずに生きていける。それがのび太だ。『鉄人兵団』でリルルを撃てないのび太、がのび太の本質を表している。
※ちなみに、「ドラえもん」の主人公はのび太である。そもそも、のび太の成長を見守るロボットがドラえもん、である。原作の短編はもちろんのこと、『ブリキの迷宮』や『雲の王国』『創世日記』などでは、そもそもドラえもん不在でのび太が中心にストーリーを進めるシーンが多用されている。
●静香・・・子どもが幼稚園でもらってきた塗り絵の静香の説明に、「やさしくてしっかりもの」と書かれていた。本質を捉えている。もう少し詳しく書くと、静香は「少年が憧れるクラスのかしこい女の子」である。この「少年」の部分を「のび太」に変えても、究極には「藤子先生」に変えても、本質は全く同じだ。藤子先生のあこがれが投影されているのだから、本物の静香は、藤子先生にしか絶対に描けない。したがって、大長編原作のないドラえもん映画は、圧倒的に静香の描写ができていない。辛辣なことを言えば、「単にかわいい女の子」でしかない。でもそれは、静香とはまったく違うのだ。静香は、「藤子先生が憧れる、クラスのかしこい女の子」なのである。だからこそ、『銀河超特急』でみせるメルヘン好きの部分と、『宇宙小戦争』で(特にスネ夫に)みせる男気と、『海底鬼岩城』でみせる愛情と、『鉄人兵団』でみせるやさしさやかしこさと、、、そういった「こんな女の子、いいな」という要素が集まっているのが静香なのだ。『鉄人兵団』のワンシーンで、湖のザンタクロスの上で「ねえ、このロボットの名前、ラッコちゃんって名前にしない?」と静香が問いかけ、のび太が「そんな弱っちい名前、嫌だよ」と断るシーンがあるが、こういう静香の静香でしか出せない雰囲気を表すシーンは、絶対に藤子先生にしか描けないと思うのである。
●ジャイアン・・・ジャイアンは「乱暴者だが、人情に篤い男」である。要はガキ大将ということだが、すなわち、「シマの中では暴君としてふるまうが、シマの外の奴からは守ってやる」という性質で説明がつく。暴君ジャイアンと面従腹背の従者スネ夫、というコンビネーションは最高級のギャグ・パターンであり、もはや様式美であるとさえいえる。本領発揮は『ブリキの迷宮』であろう。ロボットに変身してチャモチャ星の首都、メカポリスに潜入するジャイアンとスネ夫の迷コンビぶりは、もはやその存在だけで人を元気にさせるコメディアンそのものである。
●スネ夫・・・スネ夫の性質は「臆病者だから、強いものに靡く」なのだが、作品の観点からみると、実は貴重なストーリーテラーでもある。『恐竜』『宇宙小戦争』『鉄人兵団』では導入から「きっかけ」を生み出しているし、『ドラビアンナイト』では彼の見る「幻覚」が物語の核心を突いていく。『竜の騎士』は彼のノイローゼなしには話が進まなかった(道に迷ったスネ夫は、ドラえもん、のび太、静香、ジャイアンの順に助けを呼ぶ・・この順番がまた面白いのだが、それは余談であった)。そして『雲の王国』に至っては、彼の資金力なくしては「雲の王国」を建設すらできなかったのである。表層的にはゴマすりをしているような印象が強いスネ夫だが、実は作品を有機的に動かす原動力となっている重要キャラなのであった。

第五に、子どもだましではない点だ。子どもは「子ども向け」を嫌う。「ここで笑わせておけばいい」「動きを大きくつけて飽きさせないように」「こんな難しい概念はわからないだろう」と馬鹿にして臨めば、それに気づくものだ。わかりやすさは必要だが、あくまでも「人」として扱う、そんな「扱いの丁寧さ」が、作品からひしひしと伝わってくるのである。

例えば『創世日記』は、宇宙の始まりから現代までを、「疑似宇宙」という空間の中で説明し切った作品だが、随所に「神話」「進化論」の概念を取り入れて構成されている。今の「ドラえもん映画」で、オープニングに「聖書」の一節を取り入れたり、さらっとシャーマニズムの概念を説明したりすることなど、おそらく誰もできないだろうと思う。ところで創世期の「神話」や「はじめて物語」は、大長編ドラえもんの中では1つのキーワードになっている。例えば『アニマル惑星』も動物世界の創世期の神話がストーリーの核となっているし(チッポに新年の物語として語らせている)、『鉄人兵団』もロボットのアムとイムがストーリーの最核心だ。『日本誕生』は物語そのものが日本の創世物語である。また『雲の王国』にも創世神話の影響が感じられる(劇中にシアターを設けて説明している)。『竜の騎士』も途中、博物館の中で恐竜の進化・絶滅と創世物語を組み合わせ、ここで地図に登場する「聖地」の形がその後のストーリーの重要な伏線にもなっている。このように、「私たちは何者なのか」を作品の中で丁寧に解説するからこそ、ストーリーに厚みが出て、子どもも、子どもなりの理解で「なんだか、すごい話だぞ」ということを理解するのである。「子どもに、雰囲気で納得させてしまう」というこの手順は「ドラえもん」において絶対に飛ばしてはならないことだと思うのだ。

第六に、あからさまなお涙頂戴でない点だ。感動の押しつけは、暴力である。「ほら、こういうシーンが感動するんでしょ?ほれ」とか、そら「ドラ泣き」だぞ、とかやっているようでは、まったくもって安っぽい作品にしかならない。大長編原作の「ドラえもん映画」には、狙った「お涙頂戴」は一切含まれていない。

こういうときによく言われる『恐竜』のピー助とのお別れのシーンなどは、むしろ「行き場が決まってよかったね」というような話だ。どちらかというと、「自分たちの力でピー助を送り届けた」という自立のほうにこそ感動の軸足が置かれるべき話である。『海底鬼岩城』のバギーと静香の絆、『鉄人兵団』のリリルと静香の友情も、すべてストーリー上の必然であって、「感動させよう」と思って感動させているわけではないことにぜひとも留意を置きたい。

第七に、動きが少ないことだ。もうおっさんだからなのかもしれないが、最近の絵は顔も含めて動きすぎて、落ち着いて見ていられないのである。見ている子どもを飽きさせないようにする工夫・・なのかもしれないが、いくら何でも動きすぎである。いたずらに作画を崩したり、鼻水を出したりする必要性も感じない。こんなに動いたら、却って見ているほうは集中できないんじゃないかと思うが、どうなのか・・・。

第八に、音楽とのリンクである。「ドラえもん映画」といえば武田鉄矢である。このハマり具合は尋常ではない。これは安っぽいタイアップでは絶対に作れない。表層的な曲づくりではなく、真に「ドラえもん」を理解し、作品のテーマと一体化しなければ、到底生まれてこない深すぎる歌詞。大人になって、ますます味わい深くなる曲ばかりである。以下、唐突に全曲レビューだ!!

■『恐竜』・・「ポケットの中に」
最初期にしてこの名曲。ドラえもんの声で聴くから、ますます余韻が深まる。そう、ドラえもんとはいつでも一緒なのだ・・・。ただし、大人になるまでは。 ピー助もそうだったように。     
■『宇宙開拓史』・・「心をゆらして」
さようなら、コーヤコーヤ星・・遠くて届かない、「大切なもの」・・
■『大魔境』・・「だからみんなで」
仲間がいるから、勇気が大きくなるんだね! 途中から元気を取り戻すジャイアンにそのまま投影される曲だ。
■『海底鬼岩城』・・「海はぼくらと」
海は広い。どこまでも。だから、いろいろなものを包み込む。海に散ったバギーの思いも、包み込む・・・。
■『宇宙小戦争』・・「少年期」
名曲中の名曲。劇中で、作中人物がこの歌を歌うところは涙ものである(曲を聴きながら寝てしまうのび太をドラえもんとジャイアンが優しく見つめるシーンなんてもう、涙なしでは見られない)。今から聴くと、若くして「大人」になってしまった大統領、パピの心うちも感じる。
■『鉄人兵団』・・「わたしが不思議」      
静香は言った。「時々理屈に合わないことをするのが、人間なのよ」。理屈とは違って心が変わってしまう不思議な”わたし”、”わたし”が不思議。これは天使になったロボット、リルルそのものの歌だろう。
■『竜の騎士』・・「友達だから」
初期以来のドラえもんの声のED。牧歌的でよいですねぇ。友達はずーっと友達・・違う服を着ていても、目指すところは一緒!
■『パラレル西遊記』・・「君がいるから」
明日を目指してGo to the West, まさに「パラレル」な西遊記を象徴するごきげんソングですね。「ロールプレイ」という観点で作品のテイストは『夢幻三剣士』と似ているので、曲も「夢の人」と近いジャンル。
■『日本誕生』・・「時の旅人」
1億年前も、1万年前も、2000年前も。そこに「空」があった。過去からずっと紡がれる「歴史」を想起させてくれる壮大な歌。
■『アニマル惑星』・・「天までとどけ」
「業」を抱えながらも、未来に向かって生きていく・・ニムゲ・・いえ、私たち「人間」の在り様がまっすぐに描かれているように思います。
■『ドラビアンナイト』・・「夢のゆくえ」
アラビアンナイトの世界から飛び出してきた、厚手の革製の素敵な装飾の絵本をめくるような、幻想的な曲が作品とびっくりするほどマッチしています。 まだまだ夢を見ているような・・。それは、のび太の見た「夢」でもあり、波乗りシンドバッドの「夢」でもあり、千夜一夜の「夢」でもあったのかもしれないな。    
■『雲の王国』・・「雲がゆくのは」
空の雲は今や空っぽ。雲は天上人の諦念と希望とを載せて今日も流れてゆく・・
■『ブリキの迷宮』・・「何かいいこときっとある」
ブリキの「宝石のおもちゃ箱」から飛び出したかのような曲。エンドロールで、のび太が念願の「家族旅行」に行けた、というのとサピオが自力で走れるようになった、というのが最高の感動ポイントである。「何かいいこと」がちゃんとあったのよね。
■『夢幻三剣士』・・「夢の人」
劇中歌とEDの2本立てという豪華版。こちらは『パラレル西遊記』の「君がいるから」も想起させるような、旅を盛り立てる勇ましい名曲だ。      
■『夢幻三剣士』・・「世界はグー・チョキ・パー」
このラインナップの中では異色を放つコミカルな曲。ただ歌詞は「多様性」の重要性を訴えるなかなか考えさせられる内容。行き過ぎたグローバル化・画一化への警鐘と考えると、かなり時代の先取りをしている感じもする。
■『創世日記』・・「さよならにさよなら」
すべては「時間」と「DNA」という螺旋の階段でつながっている、ということを気づかせてくれる名曲。だから、「さよなら」は「さよなら」じゃないんだね!
■『銀河超特急』・・「私の中の銀河」
星より遠くなってしまったもう会えない「あなた」の思い出は、海の貝殻の形、そして森に咲く花びらの色に”記憶”として、残っています・・というとても切ない歌。まるで天の川鉄道に乗って、「あなた」が行ってしまったかのような曲である。藤子先生は、『銀河超特急』の半年後に逝去され、武田鉄矢もED作詞から引退。奇しくもこの歌が、武田が藤子先生を思う歌のように聞こえて仕方ないのである。


公開:2020年7月24日

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