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mtfuji

飛行機の窓から見えた富士山の威容。


公開:2013年6月23日

このサイトが公開されて10年。振り返ってみると、「10年ひと昔」という言葉通り、世の中は確実に変わっていることに気づかされる。

「何にも変わってないじゃん!」と思いがちでも、よくよく考えてみると、当時は「ブログ」なんてものはまだなかった。個人でWebサイトをもっていること自体が(今以上に)一般人には奇特な目で見られる時代だった。もっとも、この頃になるとワープロ感覚でサイトを作れるだけのツールやネットインフラは整いつつあったのだが・・・

無論、Facebookやtwitterもないし、LINEなんてものもない。そもそもスマートフォンなんて想像の埒外で、携帯電話は、ようやく、「カラー」「TFT液晶」「写メール」なんてものが主流になりだしつつあった時代である。そういえば、「着メロ」なんてのもまだまだ貧相な和音であったことを思い出す。

***

10年前ー2003年とは、どんな時代であったか。日本は、ちょうど小泉政権の為政下である。中国では新型肺炎SARSが大流行し、かの「イラク戦争」の起こった年でもあった。

以下、出来事を列挙してみたいと思う。

江戸幕府開府400年のイベント華やぐ中、「鉄腕アトム」が誕生したのが2003年4月7日である。JR高田馬場駅の発車メロディが、アニメ「鉄腕アトム」の曲に切り替わったのは、この年の3月である。当時早稲田の学生であった私は、この駅に降り立つと妙な気持にさせられたものである。「これが、アトムの生きた未来か・・」と。まだ、山手線に旧型車(今の埼京線と同じ車両)が現役で走っていた時代のことだ。

貴乃花、引退(1月)。つづいて武蔵丸も引退(11月)。若貴ブームからはじまった「平成前期の相撲ブーム」も、一つの転換点を迎えていたころだ。

そんな折、我が国の経済は、大きな「どん底」を経験しようとしていた。

まず、大和銀行とあさひ銀行が合併し、りそな銀行が発足している。そのわずか4か月後には、同グループに2兆円弱の公的資金が注入されている。三井住友銀行とわかしお銀行も合併。地銀の雄である足利銀行が経営破綻したのもこの年だ。

思えば、2003年とは、山一証券の自主廃業から怒涛のごとく進んでいった「金融再生」が、小泉政権、そしておそらくは米国政府の意向も慎重にくみ取りながら、総仕上げに向かって動き出していた時代だったように思う。その象徴として、日本郵政公社が発足。あの「郵政民営化」への先鞭もつけられた。

そんな中、日経平均株価は7607円88銭という、82年来の大幅安値をつける。捉えようによっては、もはや「バブル前」にまで経済水準が落ち込んだことが示唆されるのであった。

これはもはやバブルの後遺症というよりも、「日本型戦後経済システムの終焉」を意味していた。

そんな、経済の冷え切った時代である。もはや、旧来の常識は通用しない。それを象徴的に表しているのが、「阪神とダイエーの日本シリーズ」である。

1996年の『ドカベン プロ野球編』。作者の水島新司が「夢」という設定で、こんなシーンを描いている。
>「は は 阪神対ダイエーの日本シリーズじゃとーー 嘘じゃろーーー」

その、漫画にされるほどの嘘が現実になったのが、2003年という年であった。王政権の下で実力をつけていたダイエーはともかく、阪神に至っては、18年ぶりのセ・リーグ優勝である。「今年の漢字」が「虎」になったのもむべなるかな。

そんな、「激動の時代」というにふさわしい2003年。政治の世界にも地殻変動が起こっていた。

自由党と民主党が合併し、「民主党」発足。のちの政権交代劇の端緒である。

流行語に「毒まんじゅう」(野中広務)と「マニフェスト」の2つが選ばれたのも象徴的だ。まさに、「なんでだろう」(テツandトモ)なことがたくさん起こっていた時代なのである(テツandトモも03年の流行語大賞受賞者)。

かつての自社のなれ合い政治の下では考えられなかった「有事法制」の整備や住基ネットの稼働なども、政治の世界が確実に変化してきていると、私の眼には映ったものだ。

ところで当時、PCのメモリは1GBも積んでいれば、スーパーハイスペックと言えた。ハードディスクもせいぜい300GBが最高値で、「テラバイト?何それ?」という時代。そんな頃、アトムの時代らしく、科学の世界にも変化がみられたことをはっきりと記憶している。

最大のトピックスは、「ヒトゲノム」の解読完了であろう。人類はどこまでその活動領域を広げ得るのか。倫理面も含め、素人考えでありながらも、なかなか悩ましく思った記憶がある。

日本は、かの「はやぶさ」の打ち上げに成功。のちに、「小惑星イトカワから物質を持ち帰る」という偉業を成すことになる。

東京では、「六本木ヒルズ」がオープン。東京タワーに肉薄するパノラマビューは、新しい東京のスポットとして好評を博す。この「ヒルズ」が、良くも悪くも我が国の「ITバブル」を引っ張るのはもう少し先の話。

ITと言えば、この頃、音楽流通の大革命が起こった。iTunes Music Storeのオープンである。「ネットで音楽を買える」ことが、CDやDVD、将来のブルーレイといった「円盤メディア」を一気に「レガシーメディア」に変え、人々に「物よりデータ」を強く印象付けることになるまで、数年を要しなかった。

音楽の話が出たついでに、この頃流行した音楽をさらってみよう。

・NHK「プロジェクトX」の主題歌、中島みゆき『地上の星』がロングセラーに
・SMAP『世界に一つだけの花』ダブルミリオン達成
・ORANGERANGE『上海ハニー』が若者中心にヒット
・『さくらんぼ』で世を成すことになる大塚愛、デビュー

あたりがトピックスだろうか。まさに、「歌は世に連れ、世は歌に連れ」である。AKBジャニーズでCD売り上げが独占されている10年後とは、隔世の感である。

とんがりお鼻の新幹線100系が引退。地デジ放送が三大都市圏で開始。トヨタ「クラウン」とホンダ「オデッセイ」のモデルチェンジがあったのもこの年だ。ダイハツ「タント」も発売開始。沖縄では、戦後初の鉄道となる「沖縄都市モノレール(ゆいレール)」が開業している。

鉄道ネタでいえば、営団地下鉄(現・東京地下鉄)の半蔵門線が全線開業したのもこの年だ。併せて、半蔵門線経由で東急田園都市線と東武伊勢崎線(現・東武スカイツリーライン)が相互直通運転を開始。

当時は、「東急(ハイソタウン)と埼玉(イモタウン)が1本でつながるなんて」と揶揄されたこともあったとか、なかったとか。

ちょうど大学で都市計画を学んでいたこともあって、「都市のイメージ」というのに敏感だった私は、「東急の電車広告はファッション・マンション・デパート。東武の電車広告はサラ金・パチンコ・債務整理。客層が違うが大丈夫か?」なんて、まことしやかに書かれた雑誌の記事なんかを、結構読んだ気がする。事実関係はともかくも。「ひどいこと書くもんだなぁ」と思いつつ、「なるほどな」と思ってしまうところも意地が悪い。

・・気になって当時の文献をあさってみると、原武史さんの『鉄道ひとつばなし』(講談社現代新書)にも同旨のことが書かれていた。このあたりの機微が気になる方はご一読されたい。その時代の空気感を表しているので。

そうそう、埼玉と言えば、さいたま市が合併を繰り返し、千葉市に続いて政令指定都市になったのも2003年である。「そんなにまでして千葉と対抗したいのか」と、私は今でも思っている。

サブカルチャーに目を向けると、当時のゲーム機はソニーの「PS2」と任天堂の「ゲームボーイアドバンス」の時代。一世を風靡する「ニンテンドーDS」や「Wii」は、まだこの世に出ていない。

トピックスは「スクウェア・エニックス」の発足だろう。「ドラクエ」と「FF」が同じ会社から出ることになるとは、当時のゲームファンたちは夢にも思わなかったことだ。

それだけ、「ビデオゲーム」の開発に体力(資金力)が必要であるということを示唆していたかのようだ。事実、この頃のゲーム市場は「大作主義」が祟り、新規層を取り込めず、市場が縮小するじり貧状態にあった。任天堂が「DS・Wii旋風」を巻き起こすまで、ライト層からは見向きもされないマニアックな市場に陥りつつあった。後世の歴史家からは、「ビデオゲーム暗黒の時代」とおそらく記銘されよう。

まだ、今よりはテレビも元気であった。ドラマは木村拓哉のTBS系列『GOOD LUCK!!』が高視聴率をはじき出しており、お笑いブームの一端を担った日本テレビ系列『エンタの神様』もこの年。バラエティでいえば、フジテレビ系列『トリビアの泉』が好評を博していた。・・その後、フジテレビが週間視聴率「4位」に凋落(2012年1月末)するとは、誰も想像し得なかったが・・・

年末には、世相を反映して、週刊少年ジャンプで『デスノート』の連載が開始。のち、ブームを巻き起こすことになる。このことはまだ、誰も知らない。

***

とまあ、概観するとこのような時代。
次の10年後、どのような時代になっているのか?そして今がどのように評されるのか?

今から楽しみである。


公開:2013年6月23日

●「ぶりっ子が嫌い系女子」

ぶりっ子が嫌い系女子の言い分は、「ぶりっ子を見ていると、絶対(キャラを)作ってるだろ、と思っちゃう。でも、男子はそんな女に騙される。馬鹿みたい」って。

でも、男子は基本的にバカだが、それでも別に十把一絡げにぶりっ子が好きなわけではないぞ。

「ぶりっ子していると知っていて分かっているけどやめられない」系男子がぶりっ子に靡くのであって、別にすべての男子が「ぶりっ子が好き」というわけではない、というか。

このあたりの機微、分かっていただけると世の中はもう少しスムーズに動くんだと思う。

で、結構「ぶりっ子が嫌い系女子のツンデレなところが好き系男子」、というのもいるわけで。だから、「ぶりっ子が嫌い系女子」はそのあたりをもっとアピールするといいですよ。っていうか、その一人が私です。だいたい、これまでに好いた女性はこの属性なのだ。

もっとも、それは私がMっ子だからだろうか。

しかし半面、「ぶりっ子していると知っていて分かっているけどやめられない」系男子でも、私はあるわけですが。やめたいけど、やめられない、っていう中毒的心理はあるんですね。不思議なものですね。

「押すな」ってボタンは、男子にとっては永遠の「押せ」なんですよ。

●「ウォーターサーバー商法」

「2等が当たりました!おめでとうございます!」ってやつ。ホームセンターやスーパー銭湯などでくじ引きをして、「1等 テレビ 2等 ウォーターサーバー 3等 ティッシュ、駄菓子」みたいな感じでやってるやつ。

1等当たらないの。2等しか当たらないの。しかもその2等、当たったっていっても仕込みなの。カモっぽい人に2等の券を開けさせるの。

2等って微妙に嬉しいの。だからその高揚感で、「ウォーターサーバー設置無料」って言葉に惹かれるの。

でも、設置は無料でも、水は有料なの。しかも一定量が毎月届くの。だいたいが1年縛りとかで、途中解約するとお金取られるの。

だったら初めから、「ウォーターサーバーは水の会費商売です」って言えばいいと思うの。「富士山の水を1年間、毎月2000円でお届けします」って新聞広告したほうがむしろ申込が多いような気がするの。

同じことだもん。

もし引っかかったら(←水を飲みたくない人向けの表現。毎月飲みたい人はご自由に)、クーリングオフするといいの。

クーリングオフは自分でできるの。簡易書き留めで送ればいいの。
書き方はググればあるわよ。

・・なんでこんなに詳しいかって?
引っかかりそうになったからじゃないの!

「自分は絶対に引っかからない」ってアナタ、一番危ないわよ!

●「勉強だけできてもねぇ・・症候群」へのかなり口汚い反駁

よく、「勉強だけできてもね・・」って言うじゃないですか。これ、その通りなんですよ。

さらに、「答えの決まっている勉強ができても、それ以外のことができなかったら・・」って言いますよね。これも、その通りなんですよ。

反対に、「勉強はできないけれど・・」とか、「答えの決まっている勉強はできなくても、それ以外のことが素晴らしい」っていう人もいますよね。これも、その通りなんです。

例外はどんな世界にもありますから。

ある難関資格を持っている奴を知っていますが、ソイツの人間性は蛆虫のクソ以下ですしね。初対面の人間に「あんた」呼ばわりを平気でするので、頭が一回りして狂ってるとしか思えない、とか。

まあ、その逆もあるでしょうね。
こういうのは例外ですけれど。

繰り返します。「勉強はできるけれどねぇ・・」という要素は確かにあるんです。

ただ、「答えの決まっている勉強"すら"できない」ことを擁護する必要性も私は感じないんですね。

大人は、むしろ「答えの決まっている勉強"くらい"できろ!」と子どもを叱咤するべきなのではないか、と最近すごく思うのです。

「♪ナンバーワンになるつもりがないなら、オンリーワンの才能もない癖に もともと無個性のお前らがオンリーワンなんて ププ」っていう歌、流行しないかな?

***

今の大人、敢えて言わないんです。「勉強しろ」って。

「勉強することが実はとても大切なことなんだ」って教える家庭とその子どもたちが、将来の利益を独占し、圧倒的大多数の愚民から搾取する経済構造を維持するためにも、敢えて今は言わないんです。

もはや「勉強しろ」っていうのは一部の層にとっては死語かもしれません。格差は固定され、格差内での身分維持のために過当競争が完全に「悪」になっています。おまけにパイのおいしい部分は縮む一方ですからね。「勉強しろ」が大人の文句でなくなった今日この頃。

ああ・・でもこれも嘘がありますね。きれいにまとめすぎた感。

本当はね、もうぶっちゃけると、環境の違いなんです。「勉強しろ」って言わないと子どもが勉強しない環境になってしまっている時点でもう、厳しいんです。これ、誰も言いませんがね。

本当に勉強ができる人って、自分からやるんですよ。

試しに、周りの「勉強好きだな」って思う人に聞いてみてください。親から「勉強しろ」って言われ続けて育った人、存外に少ないはずですから。

勉強しろって言われたってしないですよ普通。だって、学びという行為は、本質的に自発的なものなのですから。自発性なくして学びなし。強制の学びに意味はないんです。そんなの洗脳と一緒ですから。

「勉強しろ」って言われずに子どもが勝手に勉強する家庭環境を作れる層が、結局は支配層になっていくんです。これに気づくか気づかないか。

もうはっきり言います。「勉強しろ」っていう前に、自分がやれよ、姿見せろよ、って話なんです。実は。

どんな塾もここまで言いませんよ。本当のことを言ったら嫌われるもの。でも、そういうことなんです。「学びは環境」なんですよ。どんなに子どもの尻叩いても、「テメエが率先垂範しなかったら無駄だよ」って。絶対に誰も本当のことは言ってくれませんけどね。

あー、だから、任せっぱなしは最悪。次に、干渉しすぎるのも逆効果なんです。「学びは自発的行為である」のですから、「どうやったら自分から学ぶようになるか」を追求するのが大人の役目。自発的行為に結びつかない学びは身に付きません。

よしんば最初は強制だったとしても、いつか「学びが好き」になっていなければ、本当に身につかない、これは間違いないんですね。感覚的には、「つ」のとれるくらい、要するに「9つ」→「10さい」くらいで勉強が嫌いになっていると、なかなか厳しいでしょうね。例外はありますが。

さて先ほど、諸々「環境で決まる」と書きました。もっと具体的に言いましょう。読書好きの子は、家にたくさんの本があるんです。親が日常で本を読んでいるんです。これがすべてです。

本を読まない親が、「本を読め」って子どもに言ってもそりゃ読みませんよ。勉強と読書、「自発性」という意味できわめて親和性があります。率先垂範して読書をしましょう。そして、「読書させる」のではなく、「読書をしたくなる」ように仕向けましょう。これが、将来のリーダー育成の第一歩です。

もちろん「鳶が鷹を産む」の例外もありますよ。
何事も例外はあります。

***

本筋でいえば、「勝て。勝てば官軍じゃ。建前では『平和』と言っておけばいい。本音ではとにかく勝つのじゃ。」くらい言う教育もあっていいんですけどね。なかなか、ないなぁ・・・。


公開:2013年5月24日

視聴率の王者、「サザエさん」。

この圧倒的安定感は、ジャンプにおける「こち亀」と双璧を成すものであります。
もはや、「そこにある」ことが存在理由

日曜6時半は、そこに(日本唯一残った)セル画のアニメが放映しているという事実。
ジャンプの真ん中をめくれば、そこに(休載することの決してない)4段の漫画が連載しているという事実。

その「余裕」は、『巨人の星』の言葉を借りて言うなれば、
「白鳥は、優雅に泳いでいるようで、足元で必死に足をばたつかせている」、関係者の不断の努力なくしては到底成し得ないものなのであります。

新聞のラテ欄の「サザエさん」は、もはや常軌を逸するレベルの余裕が感じられます。

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サザエさん
イクラと花沢さん▽穴子さん ほか

・・・どうしろと?
どうしろというのでしょうか。

外国人に「日本で一番多くの人に見られているゴールデン番組」として「サザエさん」を説明するとして、このラテ欄を見せるとしたら・・

「Today's "SAZAE-San" programs are "Ikura and Ms.Hanazawa", And, "Mr.Anago".」

「HAHAHA.. 」

ってなもんですよ。わけがわかりません

煽り文句一切なし。このレベルに到達することこそ、真の王者なわけです。

これ、並の凡百の番組でしたら、
「イクラと花沢さんまさかの競演!?▽穴子また暴走!」とかやらかすわけですよ。
そんなの、実につまらないでしょう。

「サザエさん」はこれでいいわけです。王者だから。


公開:2013年5月19日

●「問答無用」という価値観

2013年の大河ドラマ『八重の桜』の初回タイトルは、会津藩校の「什(じゅう)の掟」からの引用、「ならぬものはならぬ」でした。そこでハッとしたのは、この「ならぬものはならぬ」という考え方であります。

会津藩校の「什の掟」は、現代社会の「しつけ」においても十分に通用する文句であると思います。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(参考:会津藩校日新館ウェブサイトより)

もちろん、最後の「女と口を利くな」など、現代にはそぐわない文言もあるわけですが、それは時代が違うだけの話。おおむね、この価値観は時代が変われども、首肯すべきことのように思われます。

ここで一番大切なことは、「ならぬことはならぬ」と言い切る、確信に満ちたその迫力にあります。問答無用で、「ならぬことはならぬ」―そういって、子どもに強くしつけができる価値観が、現代にありましょうか。

(親世代も含めて)なんでも与えられ、何不自由なく育っている現代っ子に、この「ならぬことはならぬ」という言葉が通じるのでしょうか。非常に空恐ろしい気持ちがしてくるのであります。

●テレビ還暦

テレビは60歳ですか。人間でいうと還暦ですね。企業でいうと、定年ということになります。

視聴率の低迷、コンテンツの魅力低下、若者のテレビ離れ・・と、現象面では明らかに斜陽の様相を呈しているわけですが、その圧倒的影響力はもちろんのこと、そもそも強大な護送船団式規制産業である業界ですから、経営面ではまだまだ持ちこたえることでしょう。

まあ、このままいきますと、人間に例えるならば、「組織に影響力だけ残す老害」あるいは「若者にいちいち文句だけつけてくる加齢臭のするクソジジイ」・・で終わってしまうような雰囲気があるのですが・・

還暦を機に、あらたに生まれ変わってくれるといいなと、純粋に「本来の」テレビが嫌いではない私は思います。まぁ、今日もある番組を見ていたら無理やり某国のアイドルゴリ押しを(いまだに)やっていたので無駄な願いだとは確信しましたが。

●「客を選ぶ」という発想

「客なだけで偉い」と勘違いしている馬鹿野郎が多すぎるのは何故だろう。

日本には「おもてなしの心」というのが、ほぼすべての日本人に浸透しているものだから、「客はもてなされて当然」というふうに、ついつい勘違いしそうになる。しかし、突き詰めて考えれば、ここまで「おもてなしの心」が人々に深く根付いているのは、そもそも「お互い様」という根本精神があるからこそなされてきた所業であるのだと気づく。

自分が相手(客人)に尽くすことで、相手(客人)が喜んでくれる。客人が感じたその喜びは、次の人(その客人にとっての客人)への「おもてなし」につながって、やがてその喜びが連鎖していく・・というのが、「おもてなし」の本分であろう。すべては、お互い様なのだ。よい行いは、回りまわって自分のところに必ず帰ってくる。「情けは人の為ならず」ともどこかしらつながる精神構造である。

ところがバカは、「客人は尽くされるものだ」というところで思考がストップしている。ある行いが、「まわりまわって自分のところに帰ってくる」という思考は、夢にも考えない。「客人は尽くされて当然」・・そこで思考はストップしているのだ。

よい行いは連鎖するが、悪い行いも同様に連鎖する。よい客を集めればよい店になっていくが、「客は偉くて当然」という悪い客を集めれば、悪い店になっていく。

だから、店にとって悪い客は「入れない」のが理想であるし、そもそも商売をする側も、「客を選ぶ」ことは自由なのである。これは、クレームを防ぐための要諦でもある。

「貧すれば鈍する」という言葉があるが、本当にその通りで、お金に困って「どんな客でも来ればいい」という発想で、採算度外視の破格の値段で客を呼び込めば、結局はその程度でしかサービスを受けようとしない底辺の客しか集めることができなくなる。そのサービスを受ける層の民度が低くなれば、これまでは考えられなかったような些末なクレームも増える。畢竟、そういう客に向けての商品開発や顧客対応に経営のリソースが割かれていくから、どんどんとそのサービスの魅力は低下して、却って儲けを少なくしてしまうことになる。遠からず、従業員の質も低下して、やがて大事故・大事件を引き起こすことだって否定できないのである。

このフレームワークは、あらゆるサービスに言えることだ。

商売の構造とは、単純化すると、<ターゲット層に対して、事業者が比較優位(ターゲット層が比較劣位)にあるサービスを提供(仲介)することを通じて、原価以上の対価を得る(利益を得る)ことを目指す仕組み>ということになる。

ここでもっとも重要なのがターゲット層の設定で、そもそもここの前提が狂ってしまえば、事業者の比較優位性(事業戦略)も大きく狂うことになってしまう。

「原価以上の対価を得る」というのは結果である。ここにとらわれ過ぎて、目を曇らせてしまっているケースは意外と多い。ターゲットを見誤れば、利益以前の問題で「客が来ない」のである。

商売の本質は、あくまでも「事業者が(ターゲット層に比べて)比較優位にあるサービスを提供する」というところにあることを忘れてはならない。なぜならば、商売(通貨流通)のルーツは、物々交換にあるからだ。

山人にとっての比較優位である「獣」と、海人にとっての比較優位である「魚」を交換することと、現代の商売の基本構造はまったく変わっていない。

あくまでも、「相対するターゲットにとっての比較劣位を抽出し、サービス提供者が行い得る優位なものをサービスとして提供する」という前提においてのみ、事業戦略は構築されるべきなのである。自ずと、それが利益につながっていくからだ。

この話で行くと、例えば某ファストフードチェーンが苦境にあえいでいるのは、下流工程である「利益を得る」ことを重視し過ぎた結果、「値下げ」「値上げ」を繰り返して、ターゲット層を不明確にしてしまったところにもあるように思える。

デフレの先陣を切った「値下げ」の結果、想定していた以上に客層が悪化したことは想像に難くない。客単価も大幅に下がったのだろう。慌てて高級路線に舵を切り、「値上げ」をしたところで、すでにそのチェーンは一般的には「DQNのたまり場で高級路線だなんて」というイメージを持たれたとしてもおかしくない。

私の経験上も、比較的スモールビジネスの話にはなるが、「成功している事業主」と「うまくいかない事業主」を比較していると、明らかに前者は「客を選ぶから、客からも選ばれる」という好循環を達成しているのに対し、後者は、「客を選ばないから、客からも選ばれない」という負のサイクルに落ちてしまっていることがわかる。

成功する事業主には、明確な「事業のイメージ」がある。それはターゲットの明確化によって、事業主自身の経営戦略(どんなサービスを/誰に/どのように提供するか)がみえているということだ。ひと昔前の言葉でいえば、ビジョナリーな経営を(意識的か無意識的かは別として)行っているのである。

そういう企業にはある種独特なカルチャーがある。そのカルチャーを要約するならば、「弊社の方針になじまなければ、別に我々はあなたに客になってもらわなくても構わない。でも、弊社の考えになじむのであれば、我々は全力であなたの生活を応援する用意がある」という「意思」とでも言えようか。

ここで敢えて社名を出すと、例えば任天堂やアップル、かつてのソニーには「信者」(※)という現象がみられるが、まさにこれは「客を選ぶから、客からも選ばれる」典型であろう。

(※)「信者」を獲得している企業は、アーリーアダプタをはじめから獲得しているのと同じである。こういう人たちの購買行動をみて、自然とフォロワー層、浮動層もついてくるから、その会社のサービスは加速度的に広がりやすいという点も付記しておく。

一方、うまくいかない事業主には、明確な「事業のイメージ」というものがない。そもそも「利益を出したい」というところから出発してしまっているから、ターゲットが明確化していないことも多い。仮にターゲットが見えていたとしても、事業主自身の戦略は不明瞭である。古臭い言い方をすれば、「ビジョンが見えない」のである。

そういう事業主によくあるのが、とにかく客の意見を聞くことが大切、と八方美人になりすぎているケースである。もちろん、客の意見を聞かずに商売をすることは不可能で、独り善がりは商売上の最大の害悪になり得るけれども、それは「客の言いなりになる」ということではない。この塩梅を間違えると、「言いなり」に甘える客が増え、ターゲットの質を低下させ、自滅することになる。

言いなりになるのは事業のイメージに自信がないからである。事業のイメージが明確であれば、それに反することに対してははっきりと「NO」と言える。虚心坦懐に顧客の意見を聞くことと、顧客の意見に従って事業を進めていくことというのは、まったく似て非なるものである。

私はこれまで、顧客からの苦情を直接受けることもあったので、自分なりにその内容と対策を分析してきた。

そもそも、クレームには4種類ある。「こちらが悪いとき」「誤解が生じているとき」「理不尽なもの」「こちらの事業方針と違(たが)う要望を受けたとき」である。

もっとも判断に迷い、かつ、今回の議論の主題である「客を選ぶ」に関わるのは最後の「こちらの事業方針と違う要望を受けたとき」なのだが、まずはそれぞれみてみよう。

・「こちらが悪いとき」
誠心誠意謝り、次に活かす。当然である。

・「誤解が生じているとき」
誠心誠意説明し、次に活かす。「伝わるべきことが伝わらない」のは大いに反省する。

・「理不尽なもの」
そもそも、相手にする必要がない。表向きには謝るなり何なりアクションを起こすことはあっても、基本的には無視するしかない。理不尽な奴は、客ではなく地球外生物として扱えばよい。

・「こちらの事業方針と違う要望を受けたとき」
これは一見、クレームには思えないことがある。しかし日常においてもっとも多くの人々が接し、悩み、何とか対応しているのは、これではないか、と思うようになってきた。

以下は、この議論をしていこうと思う。

ちなみに、この場合の最適解は、「堂々と断る」の一点に尽きるというのが私の結論である。そして、この「断る」というところこそが、今回長らく議論してきた「客を選ぶ」要諦なのだと気づいた。

簡単な例を出そう。たとえばとんこつラーメン店で、「塩ラーメンを出せ」と言われれば、店主は断るだろう。野球場で、「サッカーの試合を見せろ」と言われれば、チケットの売り子は断るだろう。

実はこういう単純な話を私はしようとしているのだが、現実はもっと複雑だ。例えば、こんなケースはどうだろうか。

○観光地のコンビニ。中年の男性観光客が店員に、何も買わないにも関わらず、「△△ホテルへの行き方を教えてくれない?」と聞いてくる。

○5教科を教えている個別指導の補習塾。保護者が慌ててやってきて、「明日、技術・家庭科の中間テストがあるんだけれど、その対策も一緒にやってくれないかしら?」とお願いしてくる。

○閉店時間は22:00のドラッグストア。シャッターをしめようとしたところ、22:01に駆け込んできた中年のおばさん。「買うのはクリーム1個だけだし、ちょっと買わせてくれない?」

・・・「これぐらい、サービスとしてやるのが当たり前だろ」と思っているのだとしたら、相当、「お客様は神様教」に毒されていると思ったほうがいい。あるいは、日本的やさしさに甘え過ぎだろう。

実際は、これくらいのサービス、日本に住む人間であれば普通に享受できるのだと思う。でも、これを「当たり前」と思うほどに甘えてはならない。自戒を込めて書く。

そもそも、コンビニは別に交番ではないので、何も買わない奴に道など教える必要はない。個別指導の補習塾も、5教科を対価をもとに教えているのだから、専任以外の教科を―それもよそのガキの―をプラスアルファでみる義理はない。そして効果があるのかないのかわからん安物のクリームを買いに来たババアのためだけに閉店時間後に店を開ける義務など微塵もないのだ。

実際は、これらサービスを断ると、こういう結果が待っているのだろう。

○コンビニの場合:「なんだよ!道くらい教えろよ」と悪態をつく。

○塾の場合:「それくらいやってくれたっていいじゃないのよ」と捨て台詞を吐く。

○ドラッグストアの場合:「何よケチ!もうこのお店では買わないから!」と怒鳴る。

しかし、本当は、サービスは対価において生じるという原理原則を踏まえて対応することが、長期的スパンではその店の為になることは間違いない。

コンビニであれば、「金も払わずに色々と要求してくる客」を減らせる。塾であれば、「指導項目以外をわざわざコストをかけて指導することを要求してくる客」を減らせる。ドラッグストアであれば、「閉店後にやってくる客」を減らせる。

この逆をやると、

○コンビニの場合:過剰サービス要求に従業員が疲弊してしまい、人材の流出がはじまる。採用難、もしくは採用単価のアップで経営にも影響が出るようになる。

○塾の場合:過剰サービスを受け入れてくれたことが口コミで伝播し、「うちにもやってほしい」と言われるようになる(し、断れなくなる)。塾は一般的に稼働率商売(箱にいかに詰め込めるか)だが、今回の例のような個別指導の場合はここに「回転率」(箱の効率性)も加味されるから、余計なことをすることによって回転率は低減し、その累計で経営効率の悪化が避けられないことになる。

○ドラッグストアの場合:「ちょっと」の時間外営業が常態化すると、店員の疲弊はもとより、ルーズな気持ちが伝播し、規律の乱れが目立つようになる。結果として人材流出はじめ経営への影響はじわじわと増大していく。

日本の客は一般的に、日本のサービス提供者の「厚意」にかなり依拠している。もちろん、それは「お互い様」の部分ではあるのだが、そろそろ、この「当たり前」が本当に「当たり前」なのかは考え直したほうがいいように思えてならない。

それは、この「当たり前」を、「顧客の当然の権利」と思い込み、「客なだけで偉い」と勘違いしている層が、着実に増えてきているからである。

残念なことだが、そろそろ、サービス提供者は「断る」ことで「よい客を選ぶ」時代に入ってきているということだ。

一億総中流の時代は終わった。民度の二極分化も著しい。そんな時代、「よい客を選び、よい客に選んでもらう」ターゲティング戦略が必要なのである。

●九段下駅の壁の撤去よりも、新宿線の全車「10両編成化」が先だろう

東京メトロと都営地下鉄の「経営統合」へ向けた象徴と言われているのが、東京メトロ半蔵門線と都営地下鉄新宿線九段下駅との間を隔てる、通称「バカの壁」撤去工事です。

年度末にはマスコミによって、多大に「これで不便が解消される」と喧伝されることでしょう。都知事もホクホク顔で、「これで経営統合へ向けた第一歩が記された」と高らかに宣言するでしょう。

それはそれで構わないのですが、もし、そこで報道が終えられたのだとしたら、その報道機関の取材力を疑うほかありません。

なぜならば、身も蓋もない話をすると、これは半蔵門線⇔新宿線で乗り換える客「だけ」が得をする話だからです。新宿線や半蔵門線を利用する圧倒的大多数の利用客にとっては、それほど恩恵がない話です。

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九段下駅を通る東西線、半蔵門線は全列車が10両編成ですが、新宿線はいまだに全車10両化が達成されていません。8両編成の車両がラッシュ時にも平気な顔で投入されており、利用客には大変な不便を強いています。

おまけに、8両車にも無理やり「女性専用車両」を組み込んでいるのが大きな仇となっています。新宿線の女性専用車両は先頭車両に配置されていますが、新宿線の主要な乗換駅である上、ホームの端に出入り口があり、さらに8両車がホームの端まで停車することがない「馬喰横山」「市ヶ谷」などでは、男性が8両車を利用する場合、階段から都合「3両編成分」(※)も移動する必要が生じ、危険な駆け込み乗車を行うケースが後を絶ちません。

(※)編成が2両足りない分と、女性専用車1両の合計3両。1両20メートルなので、都合、ホームの端から最低でも60メートルは歩かされる計算になる(徒歩で40秒のロス)。「朝の40秒」を想像していただきたい。

結果的に、列車の遅延も起こりがちです。こちらの方が、よほど早急に解決すべき事案だと私は思います(せめて女性専用車は2両目に配備すべきだと私は提案したいのですが)。

新宿線は、10両車が4編成しか配備されておらず、残り28編成はすべて8両での運行です(※都営直通の京王は原則全車10両車)。

ちょっとの乗客のためにしかならない「壁」を取り除くよりも先に、同じお金を使うなら、56両を新造し(1両1億円とすると56億円もかかりますが)、「全車10両化」することのほうが、よほど乗客のためになるのに・・と思います。

ま、それは「経営統合の宣伝」にはならないですから、すすんでやらないのでしょうが・・。

もっとも、「10両化」の準備を進めているという話は聞きます。ただ、もしこの壁の工事が行われたことによって「全車10両化」が遅れているのだとしたら、こんなにバカな話はないだろう、と思うのです。こういう背景も報道してこそはじめての「マスコミ」でしょう。もし、都の都合しか報道しないニュースがあったら、そこの取材力を疑うほかありません。


公開:2013年2月11日
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