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『推しの子』で、SNSをバズらせるために登場人物たちがあれこれ工夫しているシーンを見て唐突に思い出した。

もう20年近く前、個人サイトが隆盛だった時代。少し運営に慣れてアクセスが伸びてくると、今風に言えば「バズる勘所」みたいなものが見えてきたことがあった。「ああ、この記事を書けば、あのニュースサイトとこのニュースサイトが取り上げてくれるだろうから、一晩でこのくらいはアクセスが増えるだろうな」みたいな。

今は時代が変わってしまったのでとても無理だが、誤解を恐れずに言えば、ひと昔前は数字を読んで狙って記事を出すことができた瞬間が確かにあった。「バズる」から「共振」へ、そして「流行する」ってそういうことなんだろうなと経験から私は多くのことを学んだ。

ちなみに当時、テキストサイトのアクセスランキング(Readme)で6位まで行ったことがある。これはなかなかすごい経験だったと今でも思う(上位サイトは有名どころばかりである)。

(2005年8月3日の記録)

この時は、「静香ちゃんの入浴シーン」をリスト化したものが信じられないほどヒットした(公開したのは7月29日)。すでに「ドラえもん」ネタでサイトのアクセスが増えつつあったころだ。テーマがテーマだけに、それなりにヒットするとは正直見込んでいた。だいたい、ニュースサイトに取り上げられてアクセスが増えるのが公開日の半日あとくらいから1週間程度まで続くので、ここで日当たり数万はアクセスを増やせる(ピークは翌日に当たるだろう)と思ってはいた。しかしこのときは思った以上に多くのニュースサイトに掲載されまくり、数字が上がり続けてピークが数日後にやってきた。ネタとしては「大バズリ」した。異例だが、海外からのアクセスもかなりあった。普通は1週間くらいで記事の注目度なんてものは下がるが、このときは数週間はフィーバーした。

ここまで当たると気持ちよいが、その後も「ドラえもん」ネタを定期的に供給することで、ある程度アクセス数の伸びを予測することはできていた。そんな時代が確かにあったのだ。

時が変わって同じような「数字の読み・狙い」がきっと「アフィリエイトブログ」「Twitter」「Tiktok」「Instagram」「Youtube」で行われているのだろう。

私の場合は完全に趣味でサイトをやってきた(やっている)ので、閲覧数がそのまま収入になるわけではない。だから呑気なものである。

一方、生業としてブログやYoutubeをやっている人にとっては、数字がそのまま生活の糧になるわけで、それは本当に(精神的に)辛いだろうな、とある意味同業者としてすごく思う。趣味でやっていてすら、「狙い通り」にいけたときの快感と、「狙いを外した」時の喪失感はとんでもなく大きかったのだ。ここに「生活の糧」がかかっていると、並の神経で続けられるものではないと身震いする。「人気商売」そのものだからだ。

Google(プラットフォーム)の匙加減1つで、広告単価もアクセス順位も変わってしまうというのはなかなかしんどいだろう。「毎日更新」しても飽きられる危険性があるし(ネタが続かない恐れもある)、あまりにも更新頻度を落とすと忘れ去られてしまうリスクもある。「つかず、離れず」で登録者数を伸ばして、再生数を稼ぐ。とんでもなくリスキーな商売だ。

ある程度は想像がつくが、おそらくそれなりに登録者がついてくると動画の再生数(≒収入)も読めるようになるはずだ。「この動画は50万再生行くぞ!」と思って(時間とお金を)投資して作った動画が、うまく当たればよいのだが・・・・中には、なぜか想定よりも再生されない動画というのもあって、それはそれは凹むだろう。生活がかかっているから猶更である。

この数字の予測→出稿→結果の確認→次の動画の作成という、まあ言ってみれば記事や動画作成のPDCAサイクルを延々と回し続けているのが「アフィリエイトブロガー」なり「Youtuber」ということになるのだろう。神経をすり減らすこと必至だと思うので、私からすると見ていて他人事ながら本当にハラハラする。

そこでリスクヘッジとして、物販したり、オンラインサロンを作ったり、カップラーメンを作ったりして、「副業」をスタートするわけである。いやもう、「大変だな」と。アイドルでもなんでもそうだが、「あこがれの職業」であれなんであれ、なんでも裏側というのは泥臭くて、血のにじむような努力がそこにはなされているわけで。

だからこそ私は完全に趣味でサイトを運営してきた。サラリーマンで定収を得て、余暇でサイトに心の懊悩を吐き出すということをやってきた。これを商売にしたら(私の場合は)絶対に身が持たないからだ。

「数字を読む」ことでカネにするのは、ふだんの仕事で充分だ(それを仕事にできる人は、できるだけの理由がちゃんとある、ということだろう)。



2023年6月21日

昔は若者が「テレビを見ない」というと「意識高い系」の代名詞だったが、もはや今はそれがマジョリティ。むしろ、若者が「テレビを見ています」というと、「趣味は映画鑑賞です」的な高尚さすら覚える時代。

「元SMAPの中居と香取が、松本の新番組で共演」・・・これだけのパワーワード、かつ、日曜のゴールデンタイムである。私は、ひそかにリアルタイムの視聴率がいかほどのものか注目していた。

結果は「10.5%」だったという。

一昔前なら、「30%」でも行きそうな数字だが、想像以上にテレビが「倦まれている」ことを示す結果となった。

かくいう私も、そもそも日曜の夜9時なんてのんびりしたい時間だし、「まあ、どこかのサイトでまとめ記事が出るだろう」「本当に面白そうだったら配信で見ればいいか」「CMを考えると、テレビの前に座すこと自体が面倒だ・・・」と思ってリアルタイムで視聴しなかった(というか、忘れていた)のだが・・・。

しかも、結局まとめ記事を読めば概要が分かってしまったので、それ以上特に動画自体を見るわけでもなく・・・。

そもそもが倍速視聴の時代である。ショート動画すらじれったいのだ。私はそのうち、動画から静的メディアに揺り戻しが来る(読めばわかることは動画で見る必要がないと気づかれる)とすら思っている。かつてはそんな「読めばわかる」内容を、口を開けて1時間ボーっと見ていたんだな、と思うと、なんだか悲しくなってくる。

まだこうして話題化しているのでよいが、そのうち話題にもならなくなってきたらいよいよまずいということだろうな。


2023年5月3日

■ソフト化

  • 直営はフランチャイズへ。フランチャイズはライセンスへ。
  • ネタ見せはひな壇へ。ひな壇からコメンテーターへ。そして司会業へ。
  • 製造業は蓄えたキャッシュを活かして金融へ。
  • 有名になったらグッズ販売、そしてサロンへ。
  • 当たった作品は続編頼みとなって、やがてスピンオフへ。
  • 現金は銀行振込へ、そして電子マネー、オンラインのポイントへ。
  • アナログカセットはデジタルディスク、そしてデータ販売、ストリーミングへ。
  • 所有権の販売から、使用権の販売へ。
  • 買い切りモデルからサブスクリプションもしくはメンテナンスモデルへ。
  • 多機能優勢から機能特化型へ。
  • モノ消費からコト消費、そしてストーリー消費へ。
  • コモディティ化の進展で一般化、差別化へ。
  • 重厚長大から短小軽薄へ。
  • 面倒からラクへ。
  • 切り抜きから倍速視聴、そしてショート動画へ。
  • 手動から自動へ。

高いところから流れる水の如く、ことほど左様に「快適」を目指して社会は"発展"してゆくのであった。

■AI

未知のもの、よくわからないものを恐れる心はもっともだが、とはいえ、ChatGPTに端を発した世界的な「これ、ヤベーかも」ムーブは、かつての「小説ばかり読んでいると・・」「漫画ばかり読んでいると・・」「映画ばかり見ていると・・」と同様、「新文明」に対する惧れそのものであるように感じられる。おそらくどんなに規制したところで・・・もう流れは止められないのではないか。

人間の思考回路は、突き詰めれば電気信号である。過去・経験の蓄積から「着想」を得るわけだが、・・・翻ってAIも同じく動作回路は電気信号だ。過去・経験の"蓄積"から"着想"を得るのだからして、アウトプットだけを求めれば、実はもうそのプロセス(人間が生み出したのか、AIが構築したのか)は「判別不能」な領域にもなってきている。

何だろうか・・いうなれば、地理を「桃鉄」で覚えようが、「ガリ勉」で覚えようが結果は同じじゃない?・・・・ということだろうか。

人間は自分がインプットできる(要は能動的)存在で、機械は常に受動的であるという見解もあるが、これはプロセスの問題であって、成果物に遜色がなければ、すでに「差分」ではなくなっている。

また「AIは間違いもある」というが、それは人間も同様だ。卑近な例で言うと、自分が少し詳しい分野で「Youtuberの解説系動画」を見てみればわかるでしょう。堂々と間違えているって。もちろん、新聞だって、本だって同じだ。間違える。そんなものだ。要は、「間違えるか、間違えないか」でAIと人間との差分を測る意味はあまりないのだ。

インプットの質やアウトプットの成果だけではかろうとすると、見誤る。人間とAIの絶対的な差分は、肉体と感情でしょう。すなわち、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚(五感)、痛覚・疲れ・喜び・悲しみ・楽しさ・嬉しさ・怒り・煩悶・嫉妬・恨み・・・

純粋なインプット/アウトプット論ではなくて、「人間とAI」とを分かつのは「肉体感」と「感情感」に収斂するのではないか。


2023年4月30日

本格的な冬になった12月の「電気代」(1月検針分)。1月大寒波もノー暖房で乗り切ったわが家も、それでも「前年比3000円以上アップ」の請求書が画面に表示されていて愕然とした。もし暖房を使っていたらどうなっていなのだろうか。恐ろしい。

政府の電気代・ガス代支援の前なものだから、全国どこでも阿鼻叫喚の状況である。Twitterのトレンド検索するとどれだけヤバい状況かよくわかる。

リアルでも、「電気代が8万円を超えた」という声を聞いた。8万円である。ほぼ家賃分じゃないか。当人は笑い話にしていたものの、これは相当堪えると思う。オール電化の家庭だと、普通に電気代が2桁越えもあるともいう。掛け値なしで「家計がピンチ」だ。

すでに寒さで手がぶるぶる震えながらテレワークして、「暖を取るために会社に行く」なんて冗談も飛び交う始末。「電気代 暖を取るため 会社行き」・・・これはひどい。

大きなお世話かもしれないが、「最近家を買った」となると、笑い事では済まされないだろう。ただでさえバブルの様相が強いところを、ローン+修繕積立金+管理費などでカツカツな状況に、数万円の電気代、さらに金利アップ・・である。泣きっ面に蜂の状況であることは素人でもわかる。こんな状況で少子化が改善するとはとても思えないのであった。

ささやかな自衛策としては、まずはとりあえず暖房を使わないことだろう。とにかく厚着だ。半纏の上に1万円くらいする高級なルームウェアを着て、靴下は3枚重ね。サーモスの耐熱グラスにアツアツのハーブティーを入れてガブガブ飲み続ける。すると汗ばむくらいになるのでその状態をキープ。そうするととりあえず暖房レスで乗り切れることが判明した。夜は早めに寝てしまおう。布団は暖かいので。

あとは風呂を減らすこと。テレワークが続いて外に出ない日が続くのであれば、そもそも毎日入浴する必要はないかもしれない(自己責任でお願いします)。これで電気代、ガス代、水道代、消耗品費(石鹸など)がまとめて浮く。そもそも30年くらい前は、「毎日洗髪」なんて習慣はそれほど一般的ではなかったはずだ。冬場などは特に、数日に1回、「湯シャン」で充分だった時代があったはずなのだ(自己責任でお願いします)。

それからトイレ。感染症の問題もあるのでうんこは都度流すべきだが、尿はどうだろうか。家族でshareすれば水道代が大幅に浮く(自己責任でお願いします)。これなど、まさに「塵も積もれば山となる」である。

あるいは、テレワークをやめるという手もある。出社すれば「電車の中」「会社の中」は暖かい。交通費も出るし、電気代もかからない。水分補給は給茶機を活用すればよい。

それから・・どうだろう。半径5キロ圏内くらいはクルマを使わないとか。サブスクを解約するとか(3000円くらいの値上がりだったらこれで十分吸収できる)。携帯の高額オプションを全外しして、できるだけLINEで連絡を取るとか。工夫できることは、いろいろあるだろう。

いずれにしても、ミニマムな構成にして生活をシンプルにしておいたほうがよさそうだ。そしてこういうことに気を付けなければいけなくなっている時点で、すでに日本は「最先進国」ではなくなってきているということを、はっきり自覚しなければいけないのだろうな。まさか2020年代で「暖房なしで生活」するのがデフォルトになるとは。


2023年2月5日

昨年も「紅白21を振り返る」を書いたので、今年も。視聴率は21年よりもよかったようだが、それでも40%には届かなかった様子。

大前提として、気づいたことがある。紅白を親戚宅などで酒とともに見て年を越すという方も多かろう。このコンテンツのすごいところは、何と言っても圧倒的に「間が持つ」のである。もし、何も見るものがなかったらと思うと恐ろしい。孫がじいちゃんに「この曲知ってる!」と得意げに教えるのを、じいちゃんが目を細くしながら「全部同じに見えるけど、よく知ってるね」というのが1つの風物詩なのだ。多世代型の選曲なので、とりあえず何らかの歌が引っ掛かるというのがポイント。「へえ、この歌手かわいいね」「懐かしいね、でも声が出てない」とか。何らかのコメントを引き出すことができるという効果があるのだ。これはなかなか他の追随を許さないすごい番組であることがみえてきた。

ーと、これは社会的な観点で分析した紅白像である。確実に日本の年末年始の過ごし方にまだまだ必要なものであるということはみえてきた。みえてきたが、純粋に「番組」としてとらえた時にはどうだったか。

唯一といってよい感動ポイントは、ダチョウ倶楽部と有吉の「白い雲のように」の歌唱シーンである。これは、様々な想いが去来して涙なしでは聞けない名シーンであった。

あとは新年早々、申し訳ないが以下愚痴である。まともに契約した覚えがないのに(結婚して引っ越してすぐ、地上波のときは「受信電波を検知しましたので」とあからさまな嘘を言われたし、BSのときは嫌がる妻を脅して無理やり代筆させて契約するとか無茶苦茶なことをやっているわけです)、安くない受信料を要は無理やり払っているので、この高額番組に愚痴をこぼすくらいは・・・・よいだろう。

まず相変わらず(必ずしも全員が)見ているわけでない朝ドラと大河の宣伝だらけ。一昔前のくだらない「応援合戦」が鳴りを潜めたと思ったら、それがただのCMに変わっただけではないか。そのぶん尺を減らせ、尺を。そもそもが長すぎるんじゃ。

歌だけで何時間も保たないから途中で歌以外のコーナーをはさむのだろうけれど、それだったら2時間くらいのコンパクトバージョンにすればいいのに、という話。

去年は、紅白歌合戦の後半に入る前に「今年も受信料ありがとうございました」と余計なメッセージも入っていた。本心なのか嫌味なのかは知らないが、ただただ「こんな金掛けたセット作るくらいなら値下げしろ」とか、「だったらとっととスクランブルにしろや(払わなくても見られる謎システムがおかしいっちゅうねん)」としか思わず、まともにカネ払ってる側からすると酒が不味くなるったらない。

あと、謎のサッカー推しね。処世術として、そりゃあ、「見たフリ」をして社会でおとなしく過ごしてはいるが、決してあの試合を「全国民が見た」わけではないのだよ。これは五輪にも言えることだが。これだけ価値観が多様化(細分化?)した今、もはや「国民的○○」など存在しない。幻想を無理やり作って意図的にまき散らすのはもうやめてほしい。コロナでも五輪でも一定の「空気」を作るのは大本営発表のころと変わってないって(この国の指導層は明治期から基本的に変わっていないので変わらないのは当たり前だが)。

また別にどうでもいいのだが、似たような「ダンスパフォーマンス」ばかりで、今までで一番「飽き」が強かったのも今回の残念ポイント。別に韓流だろうが何だろうが勝手に好きにすればいいのだが、とにかく途中から全部同じ歌・同じ踊り・同じ顔(←これは嫌味)に見えるという副作用がひどかった(←それは加齢かもしれない)。

・・え?「そんなに嫌なら見るな」ですって? その通り!

これまでずっと、少なくとも30年くらいは「結果発表」まで見て、「蛍の光」を聞いて、カウントダウンして(※最近は「ゆく年くる年」の落ち着きのよさに気づいてきたところだ)、年明けまで起きているみたいに「紅白視聴を習慣化」してきたわたしが、おそらく成人してからはじめて、結果発表前に「あ、もういいかな」と思って早々に床につくくらいには視聴習慣が崩れたのが今回の紅白であった(←それは加齢かもしれない)。

そもそも、最近は妻の実家で親戚と紅白を観ながら(眺めながら)過ごす感じになっているが、初めて自分以外の全員が大トリの「前」で「脱落」(寝落ちではなく、意思を以て就寝に向かうことを指す)し、私は独りでポツンと福山のド派手なスーツを観ながら過ごしたのだ。すごく寂しかったなぁ。そりゃ、「もう結果はいいかな。自分も寝るか」と思って当然なのである。・・と、これくらい、これまでの「視聴習慣」を破壊するのに十分な内容だったわけである。去年の紅白は。否、おととし、去年と続く紅白は、だ。

だいいち、だ。いつも書いている気がするが、このご時世に男女を色分けし、あろうことか「戦わせる」など、普段ポリコレなぞ見向きもしない私ですらちょっと「ウゲゲ」と思い出してくるようになってしまうくらい、因循な価値観が脈々と続いている(であろう)ところが問題だ。これでNHKがゴリゴリの保守なら「まあそういう方針の団体なんだよね」でいちいち目くじら立てるのも野暮だというものだが、一方で「SDGs」を大宣伝(喧伝?)しているNHKさんならば、SDGsの17の目標の5番が「ジェンダーフリーを実現しよう」であることはご存知のはずだ。知っててやっているのだ。

正直、私自身は男が白で女が紅で一向にかまわないのだけれど(「紅一点」という言葉もあるし)、とにかく気持ちが悪いのは一方でSDGsとやらを押し付け、一方で昭和な「男女別模擬戦争」を続けるその矛盾のほうなのだよ。目先のポリコレに囚われて、その矛盾というか、説明のつかないレトリックを「突く」ことを「金主」である視聴者は忘れてはならない。もっと直接的な表現を使うと、結局SDGsはビジネスで言っているだけで、本気で取り組もうとしていない「可能性」が窺えるところを突くべきなのだ(これはSDGsを掲げるすべての企業に突きつけるべき命題でもある)。本当に環境にやさしい状態ならば、いくつもいくつもあるチャンネルの放送を整理するだけで電気代がどれだけ浮くことか。でもそれは絶対にやらないわけでしょう。

・・と、愚痴を書きだしたら止まらないのが今回の紅白であった。私は一体誰と戦っているのだ。「ブラタモリ」とか、私はNHK好きですよ(だからまだテレビを捨てずに受信料を支払っているんですよ)。

しかし、まあ、新たな視点として「話題提供装置」としての紅白の重要性には改めて気づかされる面もあったのは事実だ。「紅白」という枠組みのレーゾンデートルは確かに、ある(ありそうである)。

もっとも、いずれはポリコレの圧に耐えられなくなり、1つは「紅白!歌の祭典!!」とか「紅白年越し歌謡ショー」のように合戦色がなくなる可能性はあるかもしれない。あるいは、合戦色を残すとしても、「紅白東西歌合戦」(メインボーカルの出身地で東西を分ける)とか、「新・紅白歌合戦」(小学校の運動会のように男女混合型)になるかもしれない。

こういうことを妄想しながら、時はいたずらに過ぎていくのであった。


2023年1月2日
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