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どんな社会構造にもしがらみがあって、「あっちを立てれば、こっちが立たず」となるのが世の常。青臭い正義感だけでやっていけないのも事実なら、割り切り過ぎてもやっていけない難しさがある。

そこで「落としどころ」を見つけて「ま、何とかやっていきましょうや」とやるのが政治の役目なのだが、役者は20年変わらずで、ずーっと同じような「喧嘩ごっこ」をしているようだ。大局観が失われている証拠だろう。

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目下20年来最大の課題である「景気の回復」は、ぶっちゃけた話、「貯蓄税導入」「日銀通貨引き受けによるインフレの意図的な発生と円安政策の断行」「現行支給分の年金減額」の3点セットで必ず達成される(経済学的に明らか)はずなのだが、こんなことを本当に実現しようとしたら、長期安定政権など望むべくもない。だから政治家は誰もやらないし、言わない。

某政党は、役所に出向き、公務員に自分たちの機関紙を買わせ、大きな収入源としている。これを買わせることで、地方議会で変な質問を「ほどほど」に済ませてやっている、というWin-Winの構造ができあがっている。このことは公然の秘密だが、これだって、暴露したところで何かがよくなるものでもないから、誰も何も言わない。あ、そもそも地方議員の質問と答弁って公務員が書・・(以下略

件の領土問題も、長らく「なかったこと」にすることで、お互いがメンツを保ってきたようなものだ。不法占拠をしているA国の件については、A国首領の保身が仇となり、国際的には領土問題と意識されるようになってしまった。「紛争が存在している」ことで立場が悪くなるのはA国。「紛争があるならば、国際司法裁判所で解決しましょう」と主張する日本の立場はきわめて紳士的である。一方、侵略を企図しているB国の件については、日本は「紛争がそもそも存在していない」という立場を取るが、これは、もし「紛争化」すれば、即座に安保案件となりかねないからだ。要するにB国が領有権を主張して進軍すると、理論上は即、安保案件となり、日米間の戦争が起こり得るのである。そうなったらまずいのはB国であり、だからこそB国は実は慎重にことを進めている(A国のように不法占拠はなかなかできないのだ)。A国よりはやっぱりB国のほうがしたたかだが、いずれにしても、あまり「ことを荒げたくない」のは、引け目のあるAB両国なのである。だから日本としては、安保案件になりかねないこのことにはできるだけ触れないことが(当時の政治判断としては)回りまわって得策(だと思ってやってきた)なのだ。もちろん本音は自衛隊でもなんでも出して鎮圧したいのだけれど、それができる国内外の情勢にない(なかった)のは「普通の」大人なら誰でもわかる。だからこそ、誰も何も言わなかったのだ。それを日本国民に「気づかせて」しまったのは偏向教育を続けてきたAB両国であるが・・。

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怖いのは、こういう「なあなあ」で済まされてきた様々な社会構造の欺瞞を、「裸の王様」よろしく、「王様は裸だ!裸なんだ!」と言う(影響力の強い)人が現れてきた「そのとき」である。

今でいうと、西日本で騒ぎになっている政治会派Cなんて、まさにそんな感じである。既得権益者は、そういうものをもっとも警戒するから、やはりマスコミのバッシングも尋常ではない。

こう書いている私も、Cを手放しで応援するつもりはないけれども、かといって、Cを無条件に批判する輩を見ていると、「ああ、しがらみって大変だなぁ」と同情の念を抱く。

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何者かが公の場で誰かを批判(あるいは評価)するとき、「この人のしがらみってなんだろう?」と考えながら見ていると、実に楽しい。


公開:2012年10月7日

あれこれ思いついていつか長文にしようとメモにしていたけれど、どうもまとまらないのでミニコラムとして放出する。

●クールビズは「気温管理」すればよい

「10月ー5月がネクタイあり、6月ー9月はノーネクタイ」という企業が増えてきた。いまだに節電ポーズを取らねばならない企業・役所では、「5月ー10月がネクタイあり、11月ー4月がノーネクタイ」なんていうところもあるようだが・・・。

ここまでノーネクタイの社会的認知度、許容度が上がると、もはや「ノーネクタイでも失礼ではない」状況になってきた。

私は結構ネクタイが好きなので、9月であっても涼しければネクタイをしているけれど、かなり少数派みたいだ。しかし、10月になったら、暑かろうがなんだろうが全員が一斉にネクタイ、というのも滑稽である。「したい人はする、したくない人はしない」そんな社会でもいいんじゃないか、と思う。

しかしサラリーマン。「右へ倣え」も重要なこと。誰かが基準を示さねばならぬ。

ならばいっそのこと、「気温管理」をしてしまえばいい、と思う。
例えば、その日の最高気温が25度を超えると予想される場合はノーネクタイ可、のように。10月でも最高気温が28度、という日は、無理してネクタイをしなくてもノーネクタイでよい、みたいに。

その方が人間的だと思うのだけどなぁ。

●街頭の怪しいアンケートで声を掛けられなくする方法

私は一見組しやすくみえる優男なので(←自分で言う)、一人でボーっと歩いていると、いい面では道を尋ねられやすいし、写真を撮ってと頼まれるし、悪い面では詐欺師の街頭アンケートやら、意味不明な似非知り合いが「よぉ!久しぶり」と近寄ってきたりするのである。

その反面、考え事をしたり、怒ったりしているときの顔が相当怖いらしく、「短髪にして、メガネを外し、メンチを切る」と、完全にチンピラらしい。

で、あるとき街頭アンケートがやたらたくさんいる道があったのだが。声を掛けられるのが面倒くさくてたまらない気持ちに・・。そこで、ずーっと物凄い形相で睨んで歩いていたら、1度も声を掛けられなくなった。

以来、「うん、これはいい方法だ」、と思って「睨み歩き」を実践している。これをやると、ティッシュもビラも渡されなくなるので、ちょっと虫の居所が悪い時は実践してみるとよいと思った。

ただし注意は、誰かに目線を合わせると「何見てンだよ!」と喧嘩になるだろうこと。というより絡まれかねないこと。これだけは気をつけなくては・・。

もう1つ方法を思いついて、実践してみたいのは、「ずーっと独り言を言って歩く」という回避法。時々奇声を発すれば完璧である。これならば、まず間違いなく人は寄ってこないだろうな。

・・そのうち「緑の救急車」に乗せられそうだけれども(冗談です念のため)。

●週休3日制度を本気で提案する

平均給与は20年前の水準に、サラリーマンのお小遣いは30年前の水準に落ち込んだ今、もはや「週休2日」ですら、「やってられっか」の状況に突入しつつある。

ただでさえバカンスの習慣のない我が国のこと、有給取得だってどうせできないのだから、本当に「働き過ぎ」な環境である。

ならばいっそのこと、「週休3日制度」を法的に強制して、ストレスだけでも減らしていくべき、という提案をしてみる。

週休3日というのは、標準的な企業のケースであれば「月火木金勤務、水土日休」という勤務形態のことだ。

単純に計算すると、労働時間(≒給与)は現在より15%くらい少なくなる(より正確には、14.28571428%)が、ここで敢えて給与水準を落とさずにこの制度を実現すれば、景気はものすごく上向くだろう。もちろん、有給基準緩和等の企業救済措置は必要だろうが・・。

ワークシェア(≒企業に労働力吸収のチカラが減っていることを言い換えた言葉)という言葉が人口に膾炙するようになって、「週休3日論」も見かけるようになったが、ただ単純に、現在の社会構造(有給未取得の恒常化、サービス残業・風呂敷残業の実質本給への折込が当たり前の社会)下で本制度を導入しても、皆がより貧乏になって、益々景気が悪くなるだけなのである。

「週休3日制」論のキモは、実は「給与水準を落とさないで、休みを増やす」ことにある。虫のいい話であるということは、百も承知であります。

●投資話への反論

マンション投資、儲かる○○必勝法、その他、「儲かりますよ」という話はたくさん聞く。それを赤の他人によく伝えるな、といつも思う。

こういう電話なり営業なりがあったときは、「ならばあなたがやればいい」と言ってみる。すると向こうは、「私もやりたいんですが、社内の決まりでできないんですよね」と返してくる。普通はここで話を切るのだが、さらにこう畳み掛けてみたい、といつも思う。「だったら、仕事を辞めてその儲かるサービスの会員になるなりすればいいじゃないか」と。でも、私は人に「辞めろ」というほど不躾な人間ではないので、心の中で我慢する。

ともかく、こういうロジックが浮かぶものだから、どうしても「儲け話」に乗る気が起きない。また、同様の論理で数多くのギャンブルもまた然り。期待値からみて結局胴元が儲かるように出来ている以上、これまたどうしても乗っかる気がしないのである。

儲け話、すべて「やるんだったら胴元」なのだ。

●そもそも「儲ける」ってなんだ?

で、1つ前の話からの敷衍で少し考えてみた。「儲ける」の定義を、「少しでも多くの利益を得る」こととする。否、「少しでも多くの利益率を上げる」こととしよう。

古今東西、「儲ける」の代表は、持てる者が持たざる者に融通すること、その他は、ペーパー商売、情報の寡占供給、コネクション、と決まっている。

融通は富める者を益々富ませ、ペーパー商売は一度の創造物を低コストで無限大に増殖させ得る打出の小槌。しかも腐らないし。情報供給というのは、持てる者のところに集まるから、寡占化がしやすい。すなわち儲かりやすい。そしてコネクション。連鎖講から口コミ商売、SNSまで、人間は関係をつくらねば生きていけない社会的な生き物である以上、彼ら彼女らの「つながり」こそは最大の富の元。「人間関係」をカネにするのは、もっとも原初的な儲け方なのであります。

これらをヒントに商売をはじめてみたところで、必要なのは政治力(調整力)。あっちを立てればこっちが立たず、いざこざを何とか収めるのは、「金と暴力」、すなわち権力なのである。

ということは、もっとも合法的に権力を行使し得るのは国家なのでありまして、・・とすると最大の「アガリ」は、やはり国家官僚なのであった。

そうなのだ、この社会、構造的に<国が胴元>となっており、それに取り入れない庶民は、「負け戦」と知りながらも、毎日を戦い抜くしかなかったのだ!

それに気づいたところで、別にどうということもない。何が悪いのではなく、そういう社会構造なのだから・・・。

・・あれ?結論がおかしい・・・。


公開:2012年9月30日

東京駅の総武・横須賀線の地下ホーム。
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何気なく階段の看板を眺めていたら、
年代物(80年代後半っぽいデザイン)の看板が隠れていた。

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よく見ると、

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「E電」の文字が!!

・・・って、今、「E電」なんて言って通じる人はいないですよね。これを「国電」といえばまだ通じますかね(山手線、中央線、総武線、京浜東北線などの愛称。「ゲタ電」とも)。

国鉄分割民営化の際、「国電」のままではまずいので「E電」なんて愛称をつけてみたものの、誰もそんな名前で呼ぶわけもなく・・・

完全な死語ですが、こうやってひっそりと残されているのでありました。

おそらく80年代後半の設置と推測されるので、間もなく30周年を迎えるであろう・・なかなかの年代物です。1つの「文化遺産」ですね。


公開:2012年9月30日

商売をする以上は、「自分が売りたいもの」と「相手が欲しているもの」との妥協点を見つけていく必要があります。

そんなとき、忘れてはいけないのが、「自分や自分の家族が欲しいと思えるものか」という"生活感覚"なんだと思います。

マーケティングの数字上「だけ」では売れる商品はつくれないし、自慰的な技術開陳「だけ」でも売れる商品はつくれない。必ず、数字と技術の上には「生活感覚」という要素が加わってくるのです。

成熟社会の人々は、「あ、こんな生活体験をしてみたい」「こんなことができたら便利だな」と思うからモノを買うのであって、そういう肌感覚がなくなってしまうと、あっという間に王者であっても座を奪われてしまうことになります。

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具体的な商品名を出すのは敢えて控えますが、かつては消費者を喜ばせていたのに、生活感覚から乖離してしまい、迷走してしまったいくつかの商品を挙げてみましょう。

たとえば、かつて隆盛を極めた某社の、新型ゲーム機。

鳴り物入りで発売されたものの、消費者の欲しいソフトが一向に揃わず、生活体験を想起させる新機能が1つもなく、ソフトも周辺機器も下位互換性がまったくない、誰が見ても「ユーザーアンフレンドリー」な代物でした。

はっきり書きましょう。これ、どこをどうつついても、「経営の都合」しか見えてこない商品なのです。社員とその家族は全員、家でこの商品を楽んでいるのでしょうか?万が一そうでないのなら、そんなものが売れると思っているのか?と小一時間問い詰めたいくらいです。自分の家族に遊ばせられないものを渡すな、です。

果たしてその結果は火を見るよりも明らかで、この製品はライバル社の製品には大きく水をあけられる結果となっています。「ここまで苦しんで事業を続けなくてもいいのでは?」と素人には思えるほどの惨状には、盛者必衰の理すら感じます。

また、スマートフォンに先鞭をつけた某社の新型携帯電話についても一言。

こちらも、カリスマ不在となって、急激に迷走の兆しが見えています。接続端子を刷新するのはいいのですが、旧型端子を所持している圧倒的大多数の消費者は放置されたままです。それに対するメッセージさえありません。

また、独自開発した地図機能も、「だれか開発段階でストップさせなかったのか」と思うほどのひどい出来です。「ライバル社のソフトウェアを排除する」という経営判断は分かるのですが、ユーザーにとってはそんなこと、知ったこっちゃないのです。

ユーザーの快適な生活体験を犠牲にしてまで、こんな地図機能を導入するとは、ちょっと判断を疑うところです。王者の地位に胡坐をかき、ユーザーの方を向かない商品を堂々と売り出すようになったら、もう「潮目」です。潮目はあっという間に訪れ、地図を塗り替えていきます。

もう1つ例を挙げてみましょう。まもなく発売される、某OSです。

世界的シェアのあるビジネスソフトのデザインが、旧ユーザーを使い捨てるかのように改悪されたのに続き、約17年に渡って使われてきたデザインを刷新した某OS。

冒険はいいのですが、これもまた、あまりにもユーザーの都合を無視した感があります。遠からず、「企業からの押し付け商品」の1つになることは疑いないでしょう。インターフェイスがファーストインプレッションの段階で「使いにくい」と評される場合は、まず間違いなく失敗フラグメントです。

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「嫌なら見るな」で本当に視聴率を落としたお笑いテレビ局が日本にはありますが、「嫌なら使うな」という傲慢さを、どうしてもこの3商品から感じてしまうのです。誤解のないように申し添えておきますと、私は3つともいい商品とは思うのです。思うのですが、「買いたい商品」ではないのです。

テレビも生活感覚から離れたのでどんどん視聴率を落としているのでしょうが、商品も、間違いなく「生活感覚」から離れれば離れるほど、売れなくなります。

売れれば売れるほど、「これでいいのだ」という自信を企業内に生み、やがてそれが過信となって、「出せば売れる」と勘違いし、やがてユーザーにそっぽを向かれる・・そのパターンまっしぐらです。とくにこの3商品は!

しかし、「出せば売れる」のは、過去の蓄積で食ってきたからです。そんな貯金は、やがて底をつきます。

結局「出せば永遠に売れる」訳がなく、やはり、「いい商品を出さないと売れない」のです。当たり前の話です。

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生活感覚を持つ上で一番大切なことは、(情報収集という気持ちではなく、ただ純粋に)街を歩くこと。これに尽きると思っています。

生活感覚を感じられない商品をつくってしまう開発者は、果たして街を歩いているのでしょうか。

駅で人の流れを見る。デパートで、高架下で、牛丼屋で、SAで、巨大SCで、地方都市のさびれた商店街で、誰が、どんな思いで生活をしているのか。想像をめぐらしているのでしょうか。そのうちの、どの層の人たちに、あなたの商品を、どのように使ってもらいたいのでしょうか。

売れる商品というのは、開発者だけの自己満足のためにあるのではない。みんなの満足のためにあるのです。売れる商品は、使う人の想像が誰にでもできます。売れない商品は、使う人の想像が誰一人としてできないのです。

イメージ化できないものを無理やり売ろうとすると、某社のように「ステマ」に頼るだけの侘しい商品展開をせざるを得なくなります。ステマに頼るのは、商品開発力低下の成れの果てでしょう。

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「若者の○○離れ」というのも、本当は「若者の生活感覚をつかんだ商品開発力の低下」にすぎないのです。なんでもかんでも消費者に問題を帰属させる昭和の頭からは、新時代の「生活感覚を惹起させる商品」など生まれてくるわけがないのです。

クルマが売れないのは、都会の若者に「生活の中でのクルマ」が描けないから。だったら、「都会でも車を持とう」と思わせるだけの生活感覚を想定できるような商品を作るしかないのです(ちなみにそのための切り口は「エコ」なんかじゃないんです、きっと。エコはジジババの概念です。昔のツケを今に持ってくる免罪符が「エコ」という害悪語なのであって、若者に罪はそもそもありません。若者の本音を代弁しますと、「エコはシニアで勝手にやってろ。俺らのせいじゃねーし」です。企業の皆さん、若者にエコ商品は押し付けないようにしましょう。この部分を分かっていない人が多すぎです)。

お酒が売れない(※)のも、都会の若者が「生活の中でのお酒」を描けないからなのですね。飲みニケーションが「面倒くさい」と思っている若者、今はどれだけいると思っていますか?せめて自分の部署の若手からその本音すら聞き出せないようでは、「若者に売れる商品」など作れるわけがないのです。

※最近になってハイボールや酎ハイが例外的に復権していますが、それは「生活の中でのハイボール」が生活感覚にフィットしたからでしょう。

* * *

任天堂のWiiしかりアップルのiPodしかり、やはり、「この商品を買うと、生活がこうなる」という「生活感覚」をとらえた商品はどんな時代でも強いのです。

「売れない」の前に、「どうやったら売れるか」。「どうやったら売れるか」というのはつまり、「どうやったらターゲット層の需要を喚起できるか」を探る旅でもあります。

その1つのキーワードが、「生活感覚」の獲得、というわけです。商品開発の部署にこの風土がなければ、絶対に消費者には届きません。


公開:2012年9月23日

じり貧の時にまず行うのが経費削減。

一時的な経費削減で見せかけの利益率は上がっても、その恩恵はたかだか1年。構造改革後の組織には、うすら寒い風が吹いている・・・。

上がったはずの利益は落ちる。その理由が、構造改革時によくある「あれやれ、これやれ」「あれやるな、これやるな」の管理強化。管理強化で社員のやる気と創造性を奪えば、収益漸減は自明の理。

管理強化とはこれすなわち「報告頻度アップ」と「あらゆる行動の数値管理」。つまりは本社の権限強化でしかなく、コストセンターは報告をまとめることだけが仕事になっていく。これではプロフィットセンターたる現場が疲弊していくのは当たり前。利益以前の話になる。

どこのコンサルに騙されたか、経営陣が現場を見ずにラクをしたいだけなのか知らないが、やがて「よい報告をした数」が評価の対象になっていく。畢竟、耳あたりの良い、見せかけの「報告」だけが上に吸収され、経営は判断を誤るのであった。

ますます淀んだ空気に支配される社内・・・

これはまずい、とどこからか営業されて、やってきました「社内SNS」。社内イントラネットを使って社員同志がミュニケーションを取れば、もう安心!とばかりに鳴り物入りで導入するも、現場は忙しいから使っている場合じゃない。結局、本社の仕事を増やしただけなのでありました。

本当に数字を伸ばすなら、この逆をやればよい。


公開:2012年9月10日
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