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視聴率の王者、「サザエさん」。

この圧倒的安定感は、ジャンプにおける「こち亀」と双璧を成すものであります。
もはや、「そこにある」ことが存在理由

日曜6時半は、そこに(日本唯一残った)セル画のアニメが放映しているという事実。
ジャンプの真ん中をめくれば、そこに(休載することの決してない)4段の漫画が連載しているという事実。

その「余裕」は、『巨人の星』の言葉を借りて言うなれば、
「白鳥は、優雅に泳いでいるようで、足元で必死に足をばたつかせている」、関係者の不断の努力なくしては到底成し得ないものなのであります。

新聞のラテ欄の「サザエさん」は、もはや常軌を逸するレベルの余裕が感じられます。

sazae01

サザエさん
イクラと花沢さん▽穴子さん ほか

・・・どうしろと?
どうしろというのでしょうか。

外国人に「日本で一番多くの人に見られているゴールデン番組」として「サザエさん」を説明するとして、このラテ欄を見せるとしたら・・

「Today's "SAZAE-San" programs are "Ikura and Ms.Hanazawa", And, "Mr.Anago".」

「HAHAHA.. 」

ってなもんですよ。わけがわかりません

煽り文句一切なし。このレベルに到達することこそ、真の王者なわけです。

これ、並の凡百の番組でしたら、
「イクラと花沢さんまさかの競演!?▽穴子また暴走!」とかやらかすわけですよ。
そんなの、実につまらないでしょう。

「サザエさん」はこれでいいわけです。王者だから。


公開:2013年5月19日

●「問答無用」という価値観

2013年の大河ドラマ『八重の桜』の初回タイトルは、会津藩校の「什(じゅう)の掟」からの引用、「ならぬものはならぬ」でした。そこでハッとしたのは、この「ならぬものはならぬ」という考え方であります。

会津藩校の「什の掟」は、現代社会の「しつけ」においても十分に通用する文句であると思います。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(参考:会津藩校日新館ウェブサイトより)

もちろん、最後の「女と口を利くな」など、現代にはそぐわない文言もあるわけですが、それは時代が違うだけの話。おおむね、この価値観は時代が変われども、首肯すべきことのように思われます。

ここで一番大切なことは、「ならぬことはならぬ」と言い切る、確信に満ちたその迫力にあります。問答無用で、「ならぬことはならぬ」―そういって、子どもに強くしつけができる価値観が、現代にありましょうか。

(親世代も含めて)なんでも与えられ、何不自由なく育っている現代っ子に、この「ならぬことはならぬ」という言葉が通じるのでしょうか。非常に空恐ろしい気持ちがしてくるのであります。

●テレビ還暦

テレビは60歳ですか。人間でいうと還暦ですね。企業でいうと、定年ということになります。

視聴率の低迷、コンテンツの魅力低下、若者のテレビ離れ・・と、現象面では明らかに斜陽の様相を呈しているわけですが、その圧倒的影響力はもちろんのこと、そもそも強大な護送船団式規制産業である業界ですから、経営面ではまだまだ持ちこたえることでしょう。

まあ、このままいきますと、人間に例えるならば、「組織に影響力だけ残す老害」あるいは「若者にいちいち文句だけつけてくる加齢臭のするクソジジイ」・・で終わってしまうような雰囲気があるのですが・・

還暦を機に、あらたに生まれ変わってくれるといいなと、純粋に「本来の」テレビが嫌いではない私は思います。まぁ、今日もある番組を見ていたら無理やり某国のアイドルゴリ押しを(いまだに)やっていたので無駄な願いだとは確信しましたが。

●「客を選ぶ」という発想

「客なだけで偉い」と勘違いしている馬鹿野郎が多すぎるのは何故だろう。

日本には「おもてなしの心」というのが、ほぼすべての日本人に浸透しているものだから、「客はもてなされて当然」というふうに、ついつい勘違いしそうになる。しかし、突き詰めて考えれば、ここまで「おもてなしの心」が人々に深く根付いているのは、そもそも「お互い様」という根本精神があるからこそなされてきた所業であるのだと気づく。

自分が相手(客人)に尽くすことで、相手(客人)が喜んでくれる。客人が感じたその喜びは、次の人(その客人にとっての客人)への「おもてなし」につながって、やがてその喜びが連鎖していく・・というのが、「おもてなし」の本分であろう。すべては、お互い様なのだ。よい行いは、回りまわって自分のところに必ず帰ってくる。「情けは人の為ならず」ともどこかしらつながる精神構造である。

ところがバカは、「客人は尽くされるものだ」というところで思考がストップしている。ある行いが、「まわりまわって自分のところに帰ってくる」という思考は、夢にも考えない。「客人は尽くされて当然」・・そこで思考はストップしているのだ。

よい行いは連鎖するが、悪い行いも同様に連鎖する。よい客を集めればよい店になっていくが、「客は偉くて当然」という悪い客を集めれば、悪い店になっていく。

だから、店にとって悪い客は「入れない」のが理想であるし、そもそも商売をする側も、「客を選ぶ」ことは自由なのである。これは、クレームを防ぐための要諦でもある。

「貧すれば鈍する」という言葉があるが、本当にその通りで、お金に困って「どんな客でも来ればいい」という発想で、採算度外視の破格の値段で客を呼び込めば、結局はその程度でしかサービスを受けようとしない底辺の客しか集めることができなくなる。そのサービスを受ける層の民度が低くなれば、これまでは考えられなかったような些末なクレームも増える。畢竟、そういう客に向けての商品開発や顧客対応に経営のリソースが割かれていくから、どんどんとそのサービスの魅力は低下して、却って儲けを少なくしてしまうことになる。遠からず、従業員の質も低下して、やがて大事故・大事件を引き起こすことだって否定できないのである。

このフレームワークは、あらゆるサービスに言えることだ。

商売の構造とは、単純化すると、<ターゲット層に対して、事業者が比較優位(ターゲット層が比較劣位)にあるサービスを提供(仲介)することを通じて、原価以上の対価を得る(利益を得る)ことを目指す仕組み>ということになる。

ここでもっとも重要なのがターゲット層の設定で、そもそもここの前提が狂ってしまえば、事業者の比較優位性(事業戦略)も大きく狂うことになってしまう。

「原価以上の対価を得る」というのは結果である。ここにとらわれ過ぎて、目を曇らせてしまっているケースは意外と多い。ターゲットを見誤れば、利益以前の問題で「客が来ない」のである。

商売の本質は、あくまでも「事業者が(ターゲット層に比べて)比較優位にあるサービスを提供する」というところにあることを忘れてはならない。なぜならば、商売(通貨流通)のルーツは、物々交換にあるからだ。

山人にとっての比較優位である「獣」と、海人にとっての比較優位である「魚」を交換することと、現代の商売の基本構造はまったく変わっていない。

あくまでも、「相対するターゲットにとっての比較劣位を抽出し、サービス提供者が行い得る優位なものをサービスとして提供する」という前提においてのみ、事業戦略は構築されるべきなのである。自ずと、それが利益につながっていくからだ。

この話で行くと、例えば某ファストフードチェーンが苦境にあえいでいるのは、下流工程である「利益を得る」ことを重視し過ぎた結果、「値下げ」「値上げ」を繰り返して、ターゲット層を不明確にしてしまったところにもあるように思える。

デフレの先陣を切った「値下げ」の結果、想定していた以上に客層が悪化したことは想像に難くない。客単価も大幅に下がったのだろう。慌てて高級路線に舵を切り、「値上げ」をしたところで、すでにそのチェーンは一般的には「DQNのたまり場で高級路線だなんて」というイメージを持たれたとしてもおかしくない。

私の経験上も、比較的スモールビジネスの話にはなるが、「成功している事業主」と「うまくいかない事業主」を比較していると、明らかに前者は「客を選ぶから、客からも選ばれる」という好循環を達成しているのに対し、後者は、「客を選ばないから、客からも選ばれない」という負のサイクルに落ちてしまっていることがわかる。

成功する事業主には、明確な「事業のイメージ」がある。それはターゲットの明確化によって、事業主自身の経営戦略(どんなサービスを/誰に/どのように提供するか)がみえているということだ。ひと昔前の言葉でいえば、ビジョナリーな経営を(意識的か無意識的かは別として)行っているのである。

そういう企業にはある種独特なカルチャーがある。そのカルチャーを要約するならば、「弊社の方針になじまなければ、別に我々はあなたに客になってもらわなくても構わない。でも、弊社の考えになじむのであれば、我々は全力であなたの生活を応援する用意がある」という「意思」とでも言えようか。

ここで敢えて社名を出すと、例えば任天堂やアップル、かつてのソニーには「信者」(※)という現象がみられるが、まさにこれは「客を選ぶから、客からも選ばれる」典型であろう。

(※)「信者」を獲得している企業は、アーリーアダプタをはじめから獲得しているのと同じである。こういう人たちの購買行動をみて、自然とフォロワー層、浮動層もついてくるから、その会社のサービスは加速度的に広がりやすいという点も付記しておく。

一方、うまくいかない事業主には、明確な「事業のイメージ」というものがない。そもそも「利益を出したい」というところから出発してしまっているから、ターゲットが明確化していないことも多い。仮にターゲットが見えていたとしても、事業主自身の戦略は不明瞭である。古臭い言い方をすれば、「ビジョンが見えない」のである。

そういう事業主によくあるのが、とにかく客の意見を聞くことが大切、と八方美人になりすぎているケースである。もちろん、客の意見を聞かずに商売をすることは不可能で、独り善がりは商売上の最大の害悪になり得るけれども、それは「客の言いなりになる」ということではない。この塩梅を間違えると、「言いなり」に甘える客が増え、ターゲットの質を低下させ、自滅することになる。

言いなりになるのは事業のイメージに自信がないからである。事業のイメージが明確であれば、それに反することに対してははっきりと「NO」と言える。虚心坦懐に顧客の意見を聞くことと、顧客の意見に従って事業を進めていくことというのは、まったく似て非なるものである。

私はこれまで、顧客からの苦情を直接受けることもあったので、自分なりにその内容と対策を分析してきた。

そもそも、クレームには4種類ある。「こちらが悪いとき」「誤解が生じているとき」「理不尽なもの」「こちらの事業方針と違(たが)う要望を受けたとき」である。

もっとも判断に迷い、かつ、今回の議論の主題である「客を選ぶ」に関わるのは最後の「こちらの事業方針と違う要望を受けたとき」なのだが、まずはそれぞれみてみよう。

・「こちらが悪いとき」
誠心誠意謝り、次に活かす。当然である。

・「誤解が生じているとき」
誠心誠意説明し、次に活かす。「伝わるべきことが伝わらない」のは大いに反省する。

・「理不尽なもの」
そもそも、相手にする必要がない。表向きには謝るなり何なりアクションを起こすことはあっても、基本的には無視するしかない。理不尽な奴は、客ではなく地球外生物として扱えばよい。

・「こちらの事業方針と違う要望を受けたとき」
これは一見、クレームには思えないことがある。しかし日常においてもっとも多くの人々が接し、悩み、何とか対応しているのは、これではないか、と思うようになってきた。

以下は、この議論をしていこうと思う。

ちなみに、この場合の最適解は、「堂々と断る」の一点に尽きるというのが私の結論である。そして、この「断る」というところこそが、今回長らく議論してきた「客を選ぶ」要諦なのだと気づいた。

簡単な例を出そう。たとえばとんこつラーメン店で、「塩ラーメンを出せ」と言われれば、店主は断るだろう。野球場で、「サッカーの試合を見せろ」と言われれば、チケットの売り子は断るだろう。

実はこういう単純な話を私はしようとしているのだが、現実はもっと複雑だ。例えば、こんなケースはどうだろうか。

○観光地のコンビニ。中年の男性観光客が店員に、何も買わないにも関わらず、「△△ホテルへの行き方を教えてくれない?」と聞いてくる。

○5教科を教えている個別指導の補習塾。保護者が慌ててやってきて、「明日、技術・家庭科の中間テストがあるんだけれど、その対策も一緒にやってくれないかしら?」とお願いしてくる。

○閉店時間は22:00のドラッグストア。シャッターをしめようとしたところ、22:01に駆け込んできた中年のおばさん。「買うのはクリーム1個だけだし、ちょっと買わせてくれない?」

・・・「これぐらい、サービスとしてやるのが当たり前だろ」と思っているのだとしたら、相当、「お客様は神様教」に毒されていると思ったほうがいい。あるいは、日本的やさしさに甘え過ぎだろう。

実際は、これくらいのサービス、日本に住む人間であれば普通に享受できるのだと思う。でも、これを「当たり前」と思うほどに甘えてはならない。自戒を込めて書く。

そもそも、コンビニは別に交番ではないので、何も買わない奴に道など教える必要はない。個別指導の補習塾も、5教科を対価をもとに教えているのだから、専任以外の教科を―それもよそのガキの―をプラスアルファでみる義理はない。そして効果があるのかないのかわからん安物のクリームを買いに来たババアのためだけに閉店時間後に店を開ける義務など微塵もないのだ。

実際は、これらサービスを断ると、こういう結果が待っているのだろう。

○コンビニの場合:「なんだよ!道くらい教えろよ」と悪態をつく。

○塾の場合:「それくらいやってくれたっていいじゃないのよ」と捨て台詞を吐く。

○ドラッグストアの場合:「何よケチ!もうこのお店では買わないから!」と怒鳴る。

しかし、本当は、サービスは対価において生じるという原理原則を踏まえて対応することが、長期的スパンではその店の為になることは間違いない。

コンビニであれば、「金も払わずに色々と要求してくる客」を減らせる。塾であれば、「指導項目以外をわざわざコストをかけて指導することを要求してくる客」を減らせる。ドラッグストアであれば、「閉店後にやってくる客」を減らせる。

この逆をやると、

○コンビニの場合:過剰サービス要求に従業員が疲弊してしまい、人材の流出がはじまる。採用難、もしくは採用単価のアップで経営にも影響が出るようになる。

○塾の場合:過剰サービスを受け入れてくれたことが口コミで伝播し、「うちにもやってほしい」と言われるようになる(し、断れなくなる)。塾は一般的に稼働率商売(箱にいかに詰め込めるか)だが、今回の例のような個別指導の場合はここに「回転率」(箱の効率性)も加味されるから、余計なことをすることによって回転率は低減し、その累計で経営効率の悪化が避けられないことになる。

○ドラッグストアの場合:「ちょっと」の時間外営業が常態化すると、店員の疲弊はもとより、ルーズな気持ちが伝播し、規律の乱れが目立つようになる。結果として人材流出はじめ経営への影響はじわじわと増大していく。

日本の客は一般的に、日本のサービス提供者の「厚意」にかなり依拠している。もちろん、それは「お互い様」の部分ではあるのだが、そろそろ、この「当たり前」が本当に「当たり前」なのかは考え直したほうがいいように思えてならない。

それは、この「当たり前」を、「顧客の当然の権利」と思い込み、「客なだけで偉い」と勘違いしている層が、着実に増えてきているからである。

残念なことだが、そろそろ、サービス提供者は「断る」ことで「よい客を選ぶ」時代に入ってきているということだ。

一億総中流の時代は終わった。民度の二極分化も著しい。そんな時代、「よい客を選び、よい客に選んでもらう」ターゲティング戦略が必要なのである。

●九段下駅の壁の撤去よりも、新宿線の全車「10両編成化」が先だろう

東京メトロと都営地下鉄の「経営統合」へ向けた象徴と言われているのが、東京メトロ半蔵門線と都営地下鉄新宿線九段下駅との間を隔てる、通称「バカの壁」撤去工事です。

年度末にはマスコミによって、多大に「これで不便が解消される」と喧伝されることでしょう。都知事もホクホク顔で、「これで経営統合へ向けた第一歩が記された」と高らかに宣言するでしょう。

それはそれで構わないのですが、もし、そこで報道が終えられたのだとしたら、その報道機関の取材力を疑うほかありません。

なぜならば、身も蓋もない話をすると、これは半蔵門線⇔新宿線で乗り換える客「だけ」が得をする話だからです。新宿線や半蔵門線を利用する圧倒的大多数の利用客にとっては、それほど恩恵がない話です。

***

九段下駅を通る東西線、半蔵門線は全列車が10両編成ですが、新宿線はいまだに全車10両化が達成されていません。8両編成の車両がラッシュ時にも平気な顔で投入されており、利用客には大変な不便を強いています。

おまけに、8両車にも無理やり「女性専用車両」を組み込んでいるのが大きな仇となっています。新宿線の女性専用車両は先頭車両に配置されていますが、新宿線の主要な乗換駅である上、ホームの端に出入り口があり、さらに8両車がホームの端まで停車することがない「馬喰横山」「市ヶ谷」などでは、男性が8両車を利用する場合、階段から都合「3両編成分」(※)も移動する必要が生じ、危険な駆け込み乗車を行うケースが後を絶ちません。

(※)編成が2両足りない分と、女性専用車1両の合計3両。1両20メートルなので、都合、ホームの端から最低でも60メートルは歩かされる計算になる(徒歩で40秒のロス)。「朝の40秒」を想像していただきたい。

結果的に、列車の遅延も起こりがちです。こちらの方が、よほど早急に解決すべき事案だと私は思います(せめて女性専用車は2両目に配備すべきだと私は提案したいのですが)。

新宿線は、10両車が4編成しか配備されておらず、残り28編成はすべて8両での運行です(※都営直通の京王は原則全車10両車)。

ちょっとの乗客のためにしかならない「壁」を取り除くよりも先に、同じお金を使うなら、56両を新造し(1両1億円とすると56億円もかかりますが)、「全車10両化」することのほうが、よほど乗客のためになるのに・・と思います。

ま、それは「経営統合の宣伝」にはならないですから、すすんでやらないのでしょうが・・。

もっとも、「10両化」の準備を進めているという話は聞きます。ただ、もしこの壁の工事が行われたことによって「全車10両化」が遅れているのだとしたら、こんなにバカな話はないだろう、と思うのです。こういう背景も報道してこそはじめての「マスコミ」でしょう。もし、都の都合しか報道しないニュースがあったら、そこの取材力を疑うほかありません。


公開:2013年2月11日

「細けぇことはいいから、要は金だよ、金」ということで政治がずっと行われてきて、様々なツケがたまってきた。そのツケを清算しようと、政権交代をしてみたものの、結局<素人政策>がうまくいくはずもなく、逆戻り―これが、少なくとも1960年以降の50余年におけるこの国の政治のすがたである。

これまでの政治が行ってきたことは、「改善」ではなく、「先送り」であった。目先の問題は、大きくなる経済のパイに群がる国民にとっては、さしたる問題ではなかったのだ。

しかし、20年来の不況下で「先送り」ではどうにも行き詰ってきた。それが現代である。このままではうまくいかないことが直観されるからこそ、誰も「消費しない」社会―デフレ社会が出現したのである。問題の根は深い。

閉塞した政治状況を変える1つのポイントは、かなりドラスティックな<改憲>なのだが、誰もそれをストレートに主張しようとしない。

改憲というとよく国防面ばかりが取り上げられるのだが、もはや、そういう問題ではない。選挙制度1つを取っても、変えるべきことは山積している。今更「改正案」の1つもまともに打ち出せない政党は、この国で政治をする資格はないと断ぜられよう。

そもそも保守勢力が「改憲」を訴え、革新勢力が「護憲」を訴える現状こそ、異常である。

ということで、私はこのところ、改憲案を作成するのに夢中であった。そして、このほど完成したので、現行憲法との比較つきで公開してみた。→ 日本国憲法改正私案(2012年12月度版)

天皇元首の明記や、国体の明確化といったことだけでなく、現状の<軍の解釈運用>は危険すぎるので国防条項を整備し、非常事態制度の設計も行った。またいわゆる「新しい人権(知る権利や環境権など)」、「国民の司法参加(裁判員制度など)」も盛り込んだ。

目玉は選挙制度の厳格な規定で、議員定数を30万人に1名にすること(要するに現在の半分以下とすること)、同一地域における連続立候補の制限、個人名投票の原則、重複立候補の禁止、復活当選の禁止・・と、当然のことも盛り込んだ。

自分で書くのもおかしいが、個人が趣味で作ってこれくらいやれるのだ。政党が作れないのは「怠慢」としか言いようがない。


公開:2012年12月25日

これまで100人くらいの個人事業主を見てきて、「うまくいく人」と「いかない人」の共通点というのがおぼろげながら見えてきた。<経営センス>とでもいうものか。

偉そうなことは言えないものの、これは個人事業のみならず、大会社の経営ひいては人生の経営、果ては子どもの教育にも応用できることがある、と思いついたのでメモしておく。

(1)うまくいく組織は、リーダーが自責主義。

ダメな組織は、例外なく、その長が構成員のダメなところばかりを取り上げ叱責ばかりしている(他責主義)。「業績が悪いのは、○○が悪いからだ」と、責任を他に転嫁してばかり。

これでは、構成員の誰もがリーダーの顔色をうかがうことになって、風土がどんどん萎縮していく。だから、業績は右肩下がりになる。

そうではないのだ。業績が悪いのは、すべて経営者の経営管理能力のせい。
だから「経営」者と言うのである。

リーダーが責任をとれない組織は、自ずと腐っていく。
しかし「業績がいいのは、従業員のおかげ。業績が悪いのは、自分のせい」とズバッと言い切れる経営者は、いったいどれだけいるのだろうか。

(2)うまくいく組織は、ミスを「あるもの」として動いている(リスクマネジメント)。

ダメな組織は、例外なく、無謬主義に陥っている。「どんなミスも認めない」「そもそもミスを起こさない(つもりだ)から、ミスへの対処も想定しない」という状態である。

もちろんミスは99.9..%の精度で失くすに越したことはないが、人間が行うことである。
いつか絶対にミスは起こる。

「安全」であったはずの高速道路は倒壊したし、原発も言わずもがな。
ミスや危険は常に私たちと隣り合わせであって、それを「ないもの」「起こり得ないもの」とすることが、回りまわって結局は一番危険なのである。

「ミスが起こってはならない」という発想も、実は同じことである。

精神構造的には、「軍隊をなくせば、世界はヘーワになる」「女性専用車両を作れば、女性も男性も安心」「禁煙範囲を拡大すれば、嫌煙者は満足」「冤罪があるから、死刑はダメ」と同じこと。これらはすべて「臭いものに蓋」をしただけで、実質は何の解決にもなっていないのである。「思考停止」というやつだ。

起こってはならないのだが、絶対に起こるのがミス。
本来、ミスは「起こるもの」である。だからこそ、「起こるかもしれない」そのミスが起こった時のことを常に想定して動かねばならないのだ。

先述の「他責主義」と同じなのだが、ダメな組織は、ミスを責める。起こってしまったことを責める。しかし、そんなこと、サルにでもできるのである。

うまくいっている組織は、ミスが起こることを想定して動いている。これは一番難しいが、これこそがリスク管理の要諦だろう。

そもそも「何かが起こり得る」可能性は無限である。その中で、「起こり得る確度が一定程度高いこと」を想定して、それを抑止ないし防止するために動くのである。そういう風土では、ひとたびミスが起こっても、「次にどうすればよいか」という発想につながりやすい。だから、組織は確実に成長していく。

これができているか、できていないかは、「何かが起こった時」に大きな強みを発揮する。そしてその「何か」は、まさに今、1秒後に起こるかもしれないのである。

(3)うまくいく組織は、仕事のための仕事をさせない。

ダメな組織は、例外なく、その業務に「仕事のための仕事」が混じっている。
よくある「報告のための報告」「会議のための会議」などが最たる例だ。

分かりやすい実際のケースを挙げよう。

ある組織は、上層部と一般従業員(特に営業職)との間にコミュニケーション・ミスが目立つことが経営的な課題となっていた。それを打破するために、全社的な報告システムを導入したが、現場は忙しくてそれを活用している時間がない、という状態が続いていた。

そこで経営側は、社員の業績評価に「報告システムの使用頻度」を取り入れた。「報告システム」をたくさん使った社員を優遇し、使わない社員を冷遇する措置に出たのだ。

当然、その効果は覿面で、社員の<報告の回数>は激増した。上層部にとっては非常に情報を吸い上げやすい状態となったのである。

しかし、その弊害が出てきた。

まず、大前提として、「報告」そのものには何の生産性もないことを指摘しておきたい。経営が報告を求めるのは、利益を最大化する経営判断に活用するためであって、必要な情報が報告から取れなかったら、経営陣が現場を見て判断することが大原則である(現認主義)。「報告」とはそういう性質のものだ。事件は現場で起きているのだから。

そして簡単に考えて、報告の「回数」が増えても、その分ノイズ(余計な情報)も増えるので、報告の質が上がるわけではない。当然ながら組織としての効率性は低下する。したがって「頻度」を問うことそのものは、まったく意味のないことであるとすぐに分かる。

報告そのものに価値はない。そこに価値づけするのは経営者だ。しかし、報告の「数」だけを単純に求めれば、「骨折り損のくたびれ儲け」になることは目に見えている。

あえてきつく言えば、馬鹿でも分かることだが、「報告の数を求める」ことなど、「労多くして利少なし」の愚行なのだ。その「馬鹿でも分かる弊害」が現実のものとなってしまったのである。

具体的に書くと、これまでは片手間でしかなかった報告作業そのものが、「仕事」となっていったのである。それも徹底的に現場を疲弊させる仕事に・・・。

数字を稼ぐべき営業に、まったく生産性のないことを仕事として与えるとどうなるか。結局、時間は有限なので、本来の営業の時間が削られていくことになる。

数字を稼いでくれるエース級の営業職も、"報告をしなければ評価されない"とあっては、たまったものではない。本来は営業活動に充てられるべき時間を「報告書の入力」に充てるようになるのは当然の成り行きである。

結局、その組織はわずか1年で業績を著しく下げることとなった(ついでに書いておくが、業績が下がり出すと、その理由を上司がその上の上司に体よく報告する必要が生じるため、さらに報告の量が増える―という負のスパイラルに陥っている、らしい)。

そもそも、下から必要な報告が上がってこない組織というのは、だいたい2つの構造的な問題を抱えているものである。

第一に、現場が忙しすぎること。要するに人材配置・業務分配どちらかまたは両方のミスである。
第二に、経営陣が適切なフィードバックをしていないこと。部下Aの行ったA'という行為に対して、上司BからB'という行為が返ってこない―つまり適切な「見返り」「報酬」がなければ、Aはやる気をなくすのは当然である。Aは機械ではないのだから。

そしてだいたい、硬直化した組織は「吸い上げる」仕組み、「共有する」仕組み、「上意下達」の仕組みのいずれかまたは全部が機能していないのである。

ということで、これも結局は「報告をしないお前らが悪い」と考えている経営の他責主義がもたらす害悪なのであった。本来ならば単純に、「報告をしたくなるような状況をつくってこなかった経営のミス」「知りたいことがあったらまず経営から動け」なのである。

自分たちでつまらないルールを作っておいて、結局業績を悪化させているようでは、何のために報告のシステムがあって、何のために報告をさせているのか意味不明である。

人間、誰しも「楽しいこと」をしたい。
こういう例を見ても明らかな通り、仕事のための仕事は、本当に「つまらない」。

仕事なのだから「大変なこと」は我慢せねばなるまいが、それでも、このケースのように、<豆をA皿からB皿へお箸でつまんで移し続ける>ような、<つまらないこと>や<本質的な意味のないこと>、<生産性の感じられないこと>にやる気を出す人間などいないのである。そもそも、「つまらないこと」は続かない。

しかし、「自分たちで決めたルール」に自分たちで縛られて苦しんでいる、
<自縄自縛組織>の多いこと、多いこと。

そして悲しいかなこういう例は、私たちの"身近"にもたくさんあるのだ。

○似非環境活動家に騙されて、ゴミの分別をしまくった結果、<ゴミを分別すること>そのものが部署のミッションになってしまったり(今の焼却炉は性能がいいので、変に分別して埋立ゴミを増やすより、ある程度は超高温で燃やしてしまったほうがはるかに効率がよい)、
○エココピーだと抜かしてコピー用紙の裏紙を使った挙句にコピー機を詰まらせたり(インクの無駄遣いのほうがよほど環境に悪い)、
○ノー残業と騒いで風呂敷残業を増やしたり(社員の健康や情報漏洩のリスクを考えると風呂敷残業の常態化は危険極まりない)
・・・と挙げればキリがない。

うまくいっている組織は、基本的にルールはシンプル。
「基本的な考えは決めた。あとは自分で考えろ」という風土が徹底している。

ある組織の、
「6月から9月末まではノーネクタイ勤務も可とする」という1文だけの通達を読ませてもらったことがあるが、これで十分なのである。あとはふつう、常識において判断するからだ。

これを、硬直化した組織が「仕事のための仕事」にしてしまうと、
「6月1日から9月末日までは、ノーネクタイにおける勤務を可とする。ただし、以下の場合・・・
1)外部の顧客と接触するとき
・・・
22)・・・
は、ネクタイを着用すること。
なお、上記の場合でも、やむを得ないと上長が判断した場合はこの限りではない。
また、これに該当しない時季においてノーネクタイ勤務を行う必要が生じた場合は、上長の判断の上、書式○○の申請書を総務部に提出し、予め届出をすること」

などというトンデモなことになりかねない。

要は、「えんぴつ1本に稟議書が必要な組織」と
「文房具は各人の判断でざっくり清算してよい組織」とでは
どちらが効率的に業務を遂行できるか、という話である。

***

ここまで書いてきて、根はやはり1つだな、と感じた。
それは、「どこまで相手を信じられるか」ということだ。

「悪いのは相手ではない、自分だ」と思えるかどうか。
ここに気づくか否かで、組織の成否は大きく変わっていくように思う。

従業員を悪く言う経営者は、結局、その従業員も場合によっては「お客様」であり、
組織を取り巻くステークホルダーたり得るという意識を欠落させている。想像力不足なのだ。

個人事業、会社経営かかわらず、この部分の「センス」は、
組織の成長を考えるうえで大きく問われるポイントであると思う。

そして、これは人生の経営(セルフマネジメント)においても同じであろう。

○原因は常に自分にあるという思考をしているか(自責主義)、
○いつも「どうやったらミスを起こさずに立ち回れるか/ミスが起こったらどう対処するか」という準備が整っているか(リスク管理)、
○「自分で決めたルールを状況に合わせて変えられる柔軟な思考ができているか」(自縄自縛からの解放)
―これらを挙げてみると、どこぞやの自己啓発本を合わせたような言質の完成である。

また最初に書いたように、以上は、子どもの教育も同じことが言えよう。子どもの成績の責任者は、やはり保護者だ。「ほめて育てる」「いいところ探し」というのは、甘いようでいて実はとても厳しい言葉なのだ。

要するに、「成績が悪いのは、親が・・・」ということを言っているからだ。「どうして○○ができないの!」という言葉は、そっくりそのまま、「どうして○○ができないように育てたの!」という言葉になって返ってきてしまう。しかし、子どもを責めたところではじまらない。本質的に、子どもは悪くない。自責主義でいかねば、子どもはつぶれてしまう。

そこからの敷衍で、ミスを責めるのではなく、どう「ミスをリカバーするかが重要」というのも経営論と類似しているように感じる。

そして、「自縄自縛からの脱却」が重要、というのも経営論と酷似している(例;無理に塾に入れて義務教育期の受験を何とか通したものの、学校についていくのが精いっぱいで、また塾に通わせる必要が生じ、親子が精魂ともに疲れ切っている。要するに子どもの実力を判断して適切な軌道修正をせず、「○○ありき」で動いたための状況)。

***

ここまでを1行でまとめると、
「悪いのはすべて自分です」ということに行き着いた。

これぐらいの気持ちで事業に向き合っている人がリーダーの組織は、やはり強い。
そして、そういう経営マインドを構成員1人1人が持っている組織は、もっと強い。


公開:2012年12月16日

●「一言で言い換える」

思考するときは、シンプルに「一言で言い換える」癖をつけておくと、その先の議論が進みやすいようだ。定義づけをする、ということを言っているのだけれど。

最近、秀逸だと思ったのは、「ビデオゲーム」のことを「ボタンを押すと反応するもの」と定義したさやわか氏の言(『僕たちのゲーム史』)、「桃太郎電鉄」のことを「鬼ごっこ」と定義したひろゆき氏の言(『ボクが2ちゃんねるをやめた理由』)。

こうやって物事を単純化して言い表せると、その本質が見えてくるのですごく楽しい。以下、いくつか考えてみよう・・・。

「AKB48」=劇場型キャバクラ
「ジャニーズ」=ホスト型アイドル
「テレビ局」=日本最後の護送船団
「選挙」=国家公認就職活動
「スーパーマリオ」=一人障害物競争
「どうぶつの森」=ローン返済ゲーム
「エコ」=エゴ
「自主規制」=責任逃れ
「パチンコ」=準公認民営賭博
「アーティスト」=商業歌唄い
「FF」=ポリゴン映像集(ゲームのおまけつき)
「フェイスブック」=仮装「リア充」表現専用仮想空間
「衝撃映像番組」=Youtube映像放映番組
「クリスマス」=社会公認エロティックデー(※日本のみ)

・・・結局最後が言いたかっただけである。

●「トラブルに遭いやすい人」に対する仮説

かの松下幸之助は、所謂「運が良いと思っている人」を積極的に採用した、という逸話がある。

「運がいい」と"自分で思える"人の持っている「正のエネルギー」に期待しての話だろう。これは本当にそうだな、と思えることがある。

今風に言えば、自己啓発本で言うところの「引き寄せの法則」ということにでもなるのだろうけれど、実際、運をつかむ人と、それをみすみす逃す人、はたまた悪運にばかり付きまとわれる人とは、明確に分かれているように思う。

これは「プラス思考」「マイナス思考」とも少し違う。どんなタイプの思考傾向であれ、(つまりプラス思考の人間であっても)不思議とトラブルを引き寄せてしまう人というのが存在するのだ。

ちなみに、「トラブルメーカー」というのは、周囲の人をトラブルに巻き込んでいく「困ったちゃん」である。ここで書く「トラブルに遭いやすい人」というのは、そうではなくて、「本人に悪気がなくても、いつの間にかトラブルの渦中にいるような人」のことを指す。「なんだかかわいそうな人」とでも言うべきか。

さて、職場や学校、その他、身近にそういう残念な人はいないだろうか。不思議なことに、いつも決まってクレームを受け、トラブルをまるで毎日の日課のように抱えている、そんな人のことだ。

トラブルというのは必ず相手がいて起こるもの。2人以上の集団を「社会」と定義するなれば、社会生活を営む以上、必ずトラブルというものは発生し得る状況にある。

その中で、トラブルばかりに巻き込まれる人は、まるで自らが喜んでその渦に飛び込んでいくかのように、見事にそのトラブルの渦中でもがき苦しんでいる。

どうもそういう人を観察していると、結局はその人が持つかなりの「頑固さ」が原因のような感じを受ける。<物腰が柔らかいようでいて、最後の詰めのところで自分の考えを曲げていない>という人が圧倒的に多い。

もっとトラブルを呼びこみそうな<物腰がキツい>人でも、ポイントポイントで柔軟に相手に対応できる人は、不思議とトラブルを引き起こさないで過ごしている。

「頑固な人」―自分の考えを曲げないでいる人ほど、巻き込まれるトラブルは強烈なものになる傾向がある。いつも笑顔で、一見「いい人だな」と思う人でも、実は頑固という例はごまんとある。「いい人なのに、何かかわいそう」という人は、1人や2人、すぐに思い浮かぶはずだ。

だいたい、自分の考えだけが通る世の中などあり得るはずもなく、誰もがどこかで妥協や我慢をしながら過ごしている。しかし頑固な人というのは「自分の狭隘な主張」をどこまでも追求しようとする。一見、そう見えなくても、最後には「自分の思い通りにしたくなる」。だから、どこかで周囲と齟齬が生じて、トラブルに巻き込まれていくのだ。

「何かかわいそう」な人は、実は頑固なのである。こう、思考を単純化してみると、「頑固なこと」がもたらす弊害がよく見えてくるようになる。

・・ということと、松下幸之助の人材採用の発想には近しいものを感じた、という話。「トラブルに巻き込まれやすい人は、頭も固い。頭が固い人は、・・」という意味も含まれていたのではなかろうか。

※仮説です。

●「今度の総選挙、どこに入れればいいの?」

やってきました総選挙。
政党乱立、いったい、「どこへ入れればいいの?」という声、分かります。

でも、答えは明白です。

「投票箱」へ入れればいいのです!

 

・・・
あれ?電話がかかってきたぞ・・
昔の知り合いからかな・・・なになに・・・


公開:2012年12月10日
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