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「細けぇことはいいから、要は金だよ、金」ということで政治がずっと行われてきて、様々なツケがたまってきた。そのツケを清算しようと、政権交代をしてみたものの、結局<素人政策>がうまくいくはずもなく、逆戻り―これが、少なくとも1960年以降の50余年におけるこの国の政治のすがたである。

これまでの政治が行ってきたことは、「改善」ではなく、「先送り」であった。目先の問題は、大きくなる経済のパイに群がる国民にとっては、さしたる問題ではなかったのだ。

しかし、20年来の不況下で「先送り」ではどうにも行き詰ってきた。それが現代である。このままではうまくいかないことが直観されるからこそ、誰も「消費しない」社会―デフレ社会が出現したのである。問題の根は深い。

閉塞した政治状況を変える1つのポイントは、かなりドラスティックな<改憲>なのだが、誰もそれをストレートに主張しようとしない。

改憲というとよく国防面ばかりが取り上げられるのだが、もはや、そういう問題ではない。選挙制度1つを取っても、変えるべきことは山積している。今更「改正案」の1つもまともに打ち出せない政党は、この国で政治をする資格はないと断ぜられよう。

そもそも保守勢力が「改憲」を訴え、革新勢力が「護憲」を訴える現状こそ、異常である。

ということで、私はこのところ、改憲案を作成するのに夢中であった。そして、このほど完成したので、現行憲法との比較つきで公開してみた。→ 日本国憲法改正私案(2012年12月度版)

天皇元首の明記や、国体の明確化といったことだけでなく、現状の<軍の解釈運用>は危険すぎるので国防条項を整備し、非常事態制度の設計も行った。またいわゆる「新しい人権(知る権利や環境権など)」、「国民の司法参加(裁判員制度など)」も盛り込んだ。

目玉は選挙制度の厳格な規定で、議員定数を30万人に1名にすること(要するに現在の半分以下とすること)、同一地域における連続立候補の制限、個人名投票の原則、重複立候補の禁止、復活当選の禁止・・と、当然のことも盛り込んだ。

自分で書くのもおかしいが、個人が趣味で作ってこれくらいやれるのだ。政党が作れないのは「怠慢」としか言いようがない。


公開:2012年12月25日

これまで100人くらいの個人事業主を見てきて、「うまくいく人」と「いかない人」の共通点というのがおぼろげながら見えてきた。<経営センス>とでもいうものか。

偉そうなことは言えないものの、これは個人事業のみならず、大会社の経営ひいては人生の経営、果ては子どもの教育にも応用できることがある、と思いついたのでメモしておく。

(1)うまくいく組織は、リーダーが自責主義。

ダメな組織は、例外なく、その長が構成員のダメなところばかりを取り上げ叱責ばかりしている(他責主義)。「業績が悪いのは、○○が悪いからだ」と、責任を他に転嫁してばかり。

これでは、構成員の誰もがリーダーの顔色をうかがうことになって、風土がどんどん萎縮していく。だから、業績は右肩下がりになる。

そうではないのだ。業績が悪いのは、すべて経営者の経営管理能力のせい。
だから「経営」者と言うのである。

リーダーが責任をとれない組織は、自ずと腐っていく。
しかし「業績がいいのは、従業員のおかげ。業績が悪いのは、自分のせい」とズバッと言い切れる経営者は、いったいどれだけいるのだろうか。

(2)うまくいく組織は、ミスを「あるもの」として動いている(リスクマネジメント)。

ダメな組織は、例外なく、無謬主義に陥っている。「どんなミスも認めない」「そもそもミスを起こさない(つもりだ)から、ミスへの対処も想定しない」という状態である。

もちろんミスは99.9..%の精度で失くすに越したことはないが、人間が行うことである。
いつか絶対にミスは起こる。

「安全」であったはずの高速道路は倒壊したし、原発も言わずもがな。
ミスや危険は常に私たちと隣り合わせであって、それを「ないもの」「起こり得ないもの」とすることが、回りまわって結局は一番危険なのである。

「ミスが起こってはならない」という発想も、実は同じことである。

精神構造的には、「軍隊をなくせば、世界はヘーワになる」「女性専用車両を作れば、女性も男性も安心」「禁煙範囲を拡大すれば、嫌煙者は満足」「冤罪があるから、死刑はダメ」と同じこと。これらはすべて「臭いものに蓋」をしただけで、実質は何の解決にもなっていないのである。「思考停止」というやつだ。

起こってはならないのだが、絶対に起こるのがミス。
本来、ミスは「起こるもの」である。だからこそ、「起こるかもしれない」そのミスが起こった時のことを常に想定して動かねばならないのだ。

先述の「他責主義」と同じなのだが、ダメな組織は、ミスを責める。起こってしまったことを責める。しかし、そんなこと、サルにでもできるのである。

うまくいっている組織は、ミスが起こることを想定して動いている。これは一番難しいが、これこそがリスク管理の要諦だろう。

そもそも「何かが起こり得る」可能性は無限である。その中で、「起こり得る確度が一定程度高いこと」を想定して、それを抑止ないし防止するために動くのである。そういう風土では、ひとたびミスが起こっても、「次にどうすればよいか」という発想につながりやすい。だから、組織は確実に成長していく。

これができているか、できていないかは、「何かが起こった時」に大きな強みを発揮する。そしてその「何か」は、まさに今、1秒後に起こるかもしれないのである。

(3)うまくいく組織は、仕事のための仕事をさせない。

ダメな組織は、例外なく、その業務に「仕事のための仕事」が混じっている。
よくある「報告のための報告」「会議のための会議」などが最たる例だ。

分かりやすい実際のケースを挙げよう。

ある組織は、上層部と一般従業員(特に営業職)との間にコミュニケーション・ミスが目立つことが経営的な課題となっていた。それを打破するために、全社的な報告システムを導入したが、現場は忙しくてそれを活用している時間がない、という状態が続いていた。

そこで経営側は、社員の業績評価に「報告システムの使用頻度」を取り入れた。「報告システム」をたくさん使った社員を優遇し、使わない社員を冷遇する措置に出たのだ。

当然、その効果は覿面で、社員の<報告の回数>は激増した。上層部にとっては非常に情報を吸い上げやすい状態となったのである。

しかし、その弊害が出てきた。

まず、大前提として、「報告」そのものには何の生産性もないことを指摘しておきたい。経営が報告を求めるのは、利益を最大化する経営判断に活用するためであって、必要な情報が報告から取れなかったら、経営陣が現場を見て判断することが大原則である(現認主義)。「報告」とはそういう性質のものだ。事件は現場で起きているのだから。

そして簡単に考えて、報告の「回数」が増えても、その分ノイズ(余計な情報)も増えるので、報告の質が上がるわけではない。当然ながら組織としての効率性は低下する。したがって「頻度」を問うことそのものは、まったく意味のないことであるとすぐに分かる。

報告そのものに価値はない。そこに価値づけするのは経営者だ。しかし、報告の「数」だけを単純に求めれば、「骨折り損のくたびれ儲け」になることは目に見えている。

あえてきつく言えば、馬鹿でも分かることだが、「報告の数を求める」ことなど、「労多くして利少なし」の愚行なのだ。その「馬鹿でも分かる弊害」が現実のものとなってしまったのである。

具体的に書くと、これまでは片手間でしかなかった報告作業そのものが、「仕事」となっていったのである。それも徹底的に現場を疲弊させる仕事に・・・。

数字を稼ぐべき営業に、まったく生産性のないことを仕事として与えるとどうなるか。結局、時間は有限なので、本来の営業の時間が削られていくことになる。

数字を稼いでくれるエース級の営業職も、"報告をしなければ評価されない"とあっては、たまったものではない。本来は営業活動に充てられるべき時間を「報告書の入力」に充てるようになるのは当然の成り行きである。

結局、その組織はわずか1年で業績を著しく下げることとなった(ついでに書いておくが、業績が下がり出すと、その理由を上司がその上の上司に体よく報告する必要が生じるため、さらに報告の量が増える―という負のスパイラルに陥っている、らしい)。

そもそも、下から必要な報告が上がってこない組織というのは、だいたい2つの構造的な問題を抱えているものである。

第一に、現場が忙しすぎること。要するに人材配置・業務分配どちらかまたは両方のミスである。
第二に、経営陣が適切なフィードバックをしていないこと。部下Aの行ったA'という行為に対して、上司BからB'という行為が返ってこない―つまり適切な「見返り」「報酬」がなければ、Aはやる気をなくすのは当然である。Aは機械ではないのだから。

そしてだいたい、硬直化した組織は「吸い上げる」仕組み、「共有する」仕組み、「上意下達」の仕組みのいずれかまたは全部が機能していないのである。

ということで、これも結局は「報告をしないお前らが悪い」と考えている経営の他責主義がもたらす害悪なのであった。本来ならば単純に、「報告をしたくなるような状況をつくってこなかった経営のミス」「知りたいことがあったらまず経営から動け」なのである。

自分たちでつまらないルールを作っておいて、結局業績を悪化させているようでは、何のために報告のシステムがあって、何のために報告をさせているのか意味不明である。

人間、誰しも「楽しいこと」をしたい。
こういう例を見ても明らかな通り、仕事のための仕事は、本当に「つまらない」。

仕事なのだから「大変なこと」は我慢せねばなるまいが、それでも、このケースのように、<豆をA皿からB皿へお箸でつまんで移し続ける>ような、<つまらないこと>や<本質的な意味のないこと>、<生産性の感じられないこと>にやる気を出す人間などいないのである。そもそも、「つまらないこと」は続かない。

しかし、「自分たちで決めたルール」に自分たちで縛られて苦しんでいる、
<自縄自縛組織>の多いこと、多いこと。

そして悲しいかなこういう例は、私たちの"身近"にもたくさんあるのだ。

○似非環境活動家に騙されて、ゴミの分別をしまくった結果、<ゴミを分別すること>そのものが部署のミッションになってしまったり(今の焼却炉は性能がいいので、変に分別して埋立ゴミを増やすより、ある程度は超高温で燃やしてしまったほうがはるかに効率がよい)、
○エココピーだと抜かしてコピー用紙の裏紙を使った挙句にコピー機を詰まらせたり(インクの無駄遣いのほうがよほど環境に悪い)、
○ノー残業と騒いで風呂敷残業を増やしたり(社員の健康や情報漏洩のリスクを考えると風呂敷残業の常態化は危険極まりない)
・・・と挙げればキリがない。

うまくいっている組織は、基本的にルールはシンプル。
「基本的な考えは決めた。あとは自分で考えろ」という風土が徹底している。

ある組織の、
「6月から9月末まではノーネクタイ勤務も可とする」という1文だけの通達を読ませてもらったことがあるが、これで十分なのである。あとはふつう、常識において判断するからだ。

これを、硬直化した組織が「仕事のための仕事」にしてしまうと、
「6月1日から9月末日までは、ノーネクタイにおける勤務を可とする。ただし、以下の場合・・・
1)外部の顧客と接触するとき
・・・
22)・・・
は、ネクタイを着用すること。
なお、上記の場合でも、やむを得ないと上長が判断した場合はこの限りではない。
また、これに該当しない時季においてノーネクタイ勤務を行う必要が生じた場合は、上長の判断の上、書式○○の申請書を総務部に提出し、予め届出をすること」

などというトンデモなことになりかねない。

要は、「えんぴつ1本に稟議書が必要な組織」と
「文房具は各人の判断でざっくり清算してよい組織」とでは
どちらが効率的に業務を遂行できるか、という話である。

***

ここまで書いてきて、根はやはり1つだな、と感じた。
それは、「どこまで相手を信じられるか」ということだ。

「悪いのは相手ではない、自分だ」と思えるかどうか。
ここに気づくか否かで、組織の成否は大きく変わっていくように思う。

従業員を悪く言う経営者は、結局、その従業員も場合によっては「お客様」であり、
組織を取り巻くステークホルダーたり得るという意識を欠落させている。想像力不足なのだ。

個人事業、会社経営かかわらず、この部分の「センス」は、
組織の成長を考えるうえで大きく問われるポイントであると思う。

そして、これは人生の経営(セルフマネジメント)においても同じであろう。

○原因は常に自分にあるという思考をしているか(自責主義)、
○いつも「どうやったらミスを起こさずに立ち回れるか/ミスが起こったらどう対処するか」という準備が整っているか(リスク管理)、
○「自分で決めたルールを状況に合わせて変えられる柔軟な思考ができているか」(自縄自縛からの解放)
―これらを挙げてみると、どこぞやの自己啓発本を合わせたような言質の完成である。

また最初に書いたように、以上は、子どもの教育も同じことが言えよう。子どもの成績の責任者は、やはり保護者だ。「ほめて育てる」「いいところ探し」というのは、甘いようでいて実はとても厳しい言葉なのだ。

要するに、「成績が悪いのは、親が・・・」ということを言っているからだ。「どうして○○ができないの!」という言葉は、そっくりそのまま、「どうして○○ができないように育てたの!」という言葉になって返ってきてしまう。しかし、子どもを責めたところではじまらない。本質的に、子どもは悪くない。自責主義でいかねば、子どもはつぶれてしまう。

そこからの敷衍で、ミスを責めるのではなく、どう「ミスをリカバーするかが重要」というのも経営論と類似しているように感じる。

そして、「自縄自縛からの脱却」が重要、というのも経営論と酷似している(例;無理に塾に入れて義務教育期の受験を何とか通したものの、学校についていくのが精いっぱいで、また塾に通わせる必要が生じ、親子が精魂ともに疲れ切っている。要するに子どもの実力を判断して適切な軌道修正をせず、「○○ありき」で動いたための状況)。

***

ここまでを1行でまとめると、
「悪いのはすべて自分です」ということに行き着いた。

これぐらいの気持ちで事業に向き合っている人がリーダーの組織は、やはり強い。
そして、そういう経営マインドを構成員1人1人が持っている組織は、もっと強い。


公開:2012年12月16日

●「一言で言い換える」

思考するときは、シンプルに「一言で言い換える」癖をつけておくと、その先の議論が進みやすいようだ。定義づけをする、ということを言っているのだけれど。

最近、秀逸だと思ったのは、「ビデオゲーム」のことを「ボタンを押すと反応するもの」と定義したさやわか氏の言(『僕たちのゲーム史』)、「桃太郎電鉄」のことを「鬼ごっこ」と定義したひろゆき氏の言(『ボクが2ちゃんねるをやめた理由』)。

こうやって物事を単純化して言い表せると、その本質が見えてくるのですごく楽しい。以下、いくつか考えてみよう・・・。

「AKB48」=劇場型キャバクラ
「ジャニーズ」=ホスト型アイドル
「テレビ局」=日本最後の護送船団
「選挙」=国家公認就職活動
「スーパーマリオ」=一人障害物競争
「どうぶつの森」=ローン返済ゲーム
「エコ」=エゴ
「自主規制」=責任逃れ
「パチンコ」=準公認民営賭博
「アーティスト」=商業歌唄い
「FF」=ポリゴン映像集(ゲームのおまけつき)
「フェイスブック」=仮装「リア充」表現専用仮想空間
「衝撃映像番組」=Youtube映像放映番組
「クリスマス」=社会公認エロティックデー(※日本のみ)

・・・結局最後が言いたかっただけである。

●「トラブルに遭いやすい人」に対する仮説

かの松下幸之助は、所謂「運が良いと思っている人」を積極的に採用した、という逸話がある。

「運がいい」と"自分で思える"人の持っている「正のエネルギー」に期待しての話だろう。これは本当にそうだな、と思えることがある。

今風に言えば、自己啓発本で言うところの「引き寄せの法則」ということにでもなるのだろうけれど、実際、運をつかむ人と、それをみすみす逃す人、はたまた悪運にばかり付きまとわれる人とは、明確に分かれているように思う。

これは「プラス思考」「マイナス思考」とも少し違う。どんなタイプの思考傾向であれ、(つまりプラス思考の人間であっても)不思議とトラブルを引き寄せてしまう人というのが存在するのだ。

ちなみに、「トラブルメーカー」というのは、周囲の人をトラブルに巻き込んでいく「困ったちゃん」である。ここで書く「トラブルに遭いやすい人」というのは、そうではなくて、「本人に悪気がなくても、いつの間にかトラブルの渦中にいるような人」のことを指す。「なんだかかわいそうな人」とでも言うべきか。

さて、職場や学校、その他、身近にそういう残念な人はいないだろうか。不思議なことに、いつも決まってクレームを受け、トラブルをまるで毎日の日課のように抱えている、そんな人のことだ。

トラブルというのは必ず相手がいて起こるもの。2人以上の集団を「社会」と定義するなれば、社会生活を営む以上、必ずトラブルというものは発生し得る状況にある。

その中で、トラブルばかりに巻き込まれる人は、まるで自らが喜んでその渦に飛び込んでいくかのように、見事にそのトラブルの渦中でもがき苦しんでいる。

どうもそういう人を観察していると、結局はその人が持つかなりの「頑固さ」が原因のような感じを受ける。<物腰が柔らかいようでいて、最後の詰めのところで自分の考えを曲げていない>という人が圧倒的に多い。

もっとトラブルを呼びこみそうな<物腰がキツい>人でも、ポイントポイントで柔軟に相手に対応できる人は、不思議とトラブルを引き起こさないで過ごしている。

「頑固な人」―自分の考えを曲げないでいる人ほど、巻き込まれるトラブルは強烈なものになる傾向がある。いつも笑顔で、一見「いい人だな」と思う人でも、実は頑固という例はごまんとある。「いい人なのに、何かかわいそう」という人は、1人や2人、すぐに思い浮かぶはずだ。

だいたい、自分の考えだけが通る世の中などあり得るはずもなく、誰もがどこかで妥協や我慢をしながら過ごしている。しかし頑固な人というのは「自分の狭隘な主張」をどこまでも追求しようとする。一見、そう見えなくても、最後には「自分の思い通りにしたくなる」。だから、どこかで周囲と齟齬が生じて、トラブルに巻き込まれていくのだ。

「何かかわいそう」な人は、実は頑固なのである。こう、思考を単純化してみると、「頑固なこと」がもたらす弊害がよく見えてくるようになる。

・・ということと、松下幸之助の人材採用の発想には近しいものを感じた、という話。「トラブルに巻き込まれやすい人は、頭も固い。頭が固い人は、・・」という意味も含まれていたのではなかろうか。

※仮説です。

●「今度の総選挙、どこに入れればいいの?」

やってきました総選挙。
政党乱立、いったい、「どこへ入れればいいの?」という声、分かります。

でも、答えは明白です。

「投票箱」へ入れればいいのです!

 

・・・
あれ?電話がかかってきたぞ・・
昔の知り合いからかな・・・なになに・・・


公開:2012年12月10日

朝起きたら、どこからともなく『Newスーパーマリオブラザーズ』の軽快なメインテーマが聞こえてきた。
「♪タラタラッ タッタッタラー タラタラ タッタタラー」

最近、『Newマリオ2』のコイン集めにドハマリしていたので、ついに幻聴が聞こえたか、と心配になった。しかし、それはピアノの音だった。下の階の子どもが一生懸命練習しているのだ。

マリオ。古今東西、世代を超えて楽しまれるキャラクタである。

「赤いオーバーオールを着た配管工のおっさん。」
「キノコを食べるとデカくなり、コインを集めまくるラテン系の陽気なヒーロー」。

こんな、聞いただけでわくわくするようなキャラクタが日本発だなんて、誇らしいよなぁ・・・
お布団にくるまりながら、そんなことを考えていた・・・

***

「消費者はハードを目当てに買うのではなく、ソフトをやるために仕方なくハードを買うのだ」というのは任天堂の名言である。

任天堂が常に業界の雄であり続けるのは、マリオを筆頭に、ポケモン、ゼルダ、ドンキーコング、その他革新的なキャラクタを載せたソフトウェアを、間断なく供給し続けてきたからである。

任天堂というのは、一見すると「ハードメーカー」でありながら、その実、ディズニーと並ぶ世界規模の「コンテンツホルダー」でもあるのだ。これはもっと国内で評価されていい。

これと闘っていると言われているのが、ソニーのPS陣営と、スマホの雄、アップルiOS陣営である。だが、ソニーもアップルも、最近の様子をみていると、どうもおかしい。

先ほどの言葉にすると、「消費者はハードを目当てに買う。ハードについてきたソフトウェアはおまけだ」と考えている節があるのだ。

だが、それは明確にまずい。どんなに高性能のハードでも、ソフトがなければただの箱、なのだ。
事実、当時最高性能を誇った「Nintendo64」は、発売当初のソフト不足が祟り(ファーストも含めローンチ後3か月間ソフトが出せなかった)、ハード競争で一時、PS陣営の後塵を拝することとなった。

古今東西、ハードメーカーのハードが売れてくるようになると、「自分たちのハードが素晴らしいから(売れる)」という錯覚に陥ってしまう傾向にあるようだ。しかし、その考え方の陥穽にハマってしまうと、途端に消費者からはそっぽを向かれる。

絶対に忘れてはならないのは、いかに「やりたいソフト」が揃うか、その1点なのである。かつてPS陣営が隆盛を極めたのはDQFFという「消費者がやりたいソフト」が揃ったからだ。

大容量のCD・DVD需要でPS陣営は一時、この世の春を謳歌した。しかし、やがて大容量化に伴う開発費の高騰化・ゲーム内容の複雑化により、従来のようにソフトウェアが売れなくなる(利ザヤが小さくなる)と、生き残りをかけてあらゆるサードパーティがマルチプラットフォーム戦略を取るようになった。Aというソフトを遊ぶのに、BというハードでもCというハードでもよい、というのがマルチプラットフォーム戦略だ。

ソフトメーカーにとっては、「データ」さえ作ってしまえば、ロイヤリティの負担だけで販売機会が拡大できるのだから、当然に選ばれる道だったのである。

すると、「このソフトを遊ぶには、このハード」という呪縛がなくなり、消費者の選択肢は大幅に広がっていった。畢竟、ファーストがどれだけ魅力的なコンテンツを用意できるか、ということにやがて話は収束していくことになる(ファーストが他のプラットフォームにコンテンツを供給することなど殆どあり得ないからだ)。

このタイミングで、「ゲーム人口の拡大」を掲げ、魅力的なファーストコンテンツを大量に集中供給することのできた「コンテンツメーカー」の任天堂は、驚異的な復権を遂げる。それは、苦境の時代にあっても、マリオ、ポケモン、その他良質なソフトウェアをコンスタントに供給するだけの開発力を維持してきたからこそ、の大偉業であった。

一方、サード頼みで自らが魅力的なコンテンツを大量に供給することが難しかった純然「ハードメーカー」たるSCEは、ハードの高性能化・先鋭化路線を取り、逆発展ともいえる状況を自ら生み出し、結果として両者の明暗を大きく分けることとなったのである。

魅力的なソフトウェアをそろえたプラットフォームが勝利する、ということは、マルチプラットフォーム時代においては、<ファースト自身が最大のコンテンツホルダーとならなければかなり厳しい展開を迫られる>、ということだ。それは、もはや歴史が証明した事実となりつつある。

否、現状はもっと厳しい。ファーストだけでなく、サードを実質セカンドパーティに近い形で取り込み、「このソフトウェアを遊ぶには、このハードでしかダメ」という状況を作ってしまわないとならないところまできている。サードをサードとして置いておけば、サードは少しでも利ザヤのある方に「いつでも寝返る」からである。

ファーストのコンテンツを充実させるのみならず、サードを実質セカンド化、ファースト化するという経営資源の徹底的な投入を図ってこそ、ようやく「コンテンツホルダー」として、プラットフォームを経営していくことができるのである。

まとめると、<ファーストとサードの融合的状況>を作ってはじめて、「売れるハード」を市場に出せる、そんな艱難極まりない状況が生まれつつある。

事実、サードパーティの中で現在、もっとも市場(ただし日本国内限定)から魅力的とされるコンテンツの1つである「モンハン」は、一時代前、PS陣営の屋台骨ともいえるソフトウェアであった。が、事実上、任天堂陣営への「完全鞍替え表明」が発生したことで、両者のハード戦争は決しつつある(かつてDQFFを根こそぎ奪われた任天堂の意趣返し、というのは言い過ぎか?)。

任天堂は、DQはじめ、モンハン、ソニック、その他、どんどん優秀なコンテンツを自陣営に引き込みはじめている。ファーストのみならず、サード陣営を強化(実質セカンド化)して、「ゲーム機サバイバル」に打ち勝たんとしている。それは何より、「ソフトの重要性」を熟知しているからこその動きに見える。

優秀なサードは(排除ではなく)取り込むに限る。せっかく、世界一優秀なGoogle地図とYoutubeというゴールデンアプリケーションを連動させていたiOSも(アップル自身がコンテンツホルダーとして動こうとした経緯はわかるにしても)、その超優秀なサードコンテンツを見事に「排除」した途端、今回の「地図騒動」である。

ハードは縁の下の力持ちでなければならない。重要なのは「どんなソフトを利用者に提供したいのか」ただ1点なのだ。

「こんなハードがあるから、こんなソフトを出す」のではなく、「こんなソフトを供給したいから、こんなハードを作る」という「あそび」の発想。これがあるからこそ、エンタテイメント企業である任天堂は「強い」のである。

***

・・・と、いうようなことを、朝の寝床で考えてみた。
朝はもう、9時になっていた。


公開:2012年10月8日

「全員悪人」の『アウトレイジ・ビヨンド』が実に面白かったので、反対に「全員善人」の映画『ピュアストレート』をみてみたいと思った。

『アウトレイジ・ビヨンド』では、本物の悪人が最後に暗喩されて終わるのだけれども、言い換えると、「悪人とはその時の相対的な状況でいい人にもなり得て、結局本当の極悪人はごく一部」というメッセージが隠されているような気がしないでもなかった。ここが、実に面白い。

一方、『ピュアストレート』は、こんな作品である。

純粋まっすぐな人たちだけが出てくる、「全員・善人」の世界。あるきっかけで、そいつらの本性が暴かれるという、バイオレンス映画だ。「全員・善人」なのは最初だけで、人間臭さ、エゴ、そういったものが徐々にむき出しになってくる―つまり、「善人とはその時の相対的な状況で悪人にもなり得て、結局本当の善人はごく一部」というメッセージが隠された映画だ。

突然、東京に発生した巨大クーデーター。たまたま学校で福祉イベントに来ていたNPO法人「ふれあいなかよしクラブ」で働いていたA男とB子は、そのどさくさに、今まで「善人面」していた同僚、パートナー、その他が、実は善人の面を被った悪人であったことを知る。

徐々に狂い出すA男とB子。果たして、彼らの運命は―?

善人たちが、極限の状況下で狂っていくさまが描かれる・・・


公開:2012年10月7日
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