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このところ、改めてドラえもん映画(藤子・F・不二雄先生の大長編の原作があるものに限る)を見まくっていて、改めて「すごくおもしろいな」と思う。そして、見るごとに、自分のドラえもんへの理解の浅さが感じられて、本当に恥ずかしくなる。

知れば知るほど、深い。まだまだ理解が浅い。その深淵にたどり着くことは、私のような浅学菲才の身には不可能だろう。ドラえもんの世界は懐が深いが、見ようによってはどこまで掘ってもたどり着かない深谷のようなのだ。

藤子・F・不二雄先生は、本当に偉大だ。これだけの作品を継続的に提供できるストーリーテラーが、どれほど存在するだろうか。空前絶後の存在なのだと、改めて思い知らされる。

原作者亡き後の「映画ドラえもん」は、もちろん「ドラえもん」ではあるが、あくまでも「後世の人が脚色したドラえもん」である。やはり、大長編の裏付けのあるドラえもんの持つ魅力には代えがたい。

なぜ、「大長編」を原作に持つドラえもん映画はこんなにも面白いのか。とにかく感じるのは、次の魅力である。八点ほど挙げたい。

第一に、伏線と練られたストーリーだ。「なんだろう?」と思わせる謎が随所に散りばめられ、ストーリーの展開によって次々と明らかになっていく構成は、「物語のお手本」のようなものだ。「何気ないワンシーン」を、別のシーンで上書きし、あとで「あ、これだったか!」と膝を叩かせる・・これはおいそれとできるものではない。

様々な伏線が思い浮かぶが、『竜の騎士』の「ヒカリゴケ」で真っ暗な洞窟を明るく照らすアイデアは、まさかの後半に活きてくる。これなど物語づくりの好例中の好例だろう。「え?これも伏線だったの?」というのを仕込ませるのも巧い。『宇宙小戦争』でドラえもんが発する「どんな薬にも有効期限はあるの」というセリフは、直近で出てくる「チータローション」にかかってくるかと思えば、物語の核心に触れる重要な伏線である。また、例えば『銀河超特急』の「忍者の星」でジャイアンとスネ夫が「仮免許皆伝」で入手する「巻物」。この「ちょっとしたアイテム」、誰がストーリー上で重要な役割を果たすと思うだろうか・・・

第二に、日常とSFの自然な接続だ。藤子先生の定義によれば、SFは「すこし・ふしぎ」である。まさにこの言葉通りで、日常世界の中にフィクション・・あるいはファンタジーが混在するからこそ、見る者はその世界にどっぷりとつかることができるのだ。

『恐竜』で恐竜の卵をのび太が発掘するシーン、『宇宙開拓史』でのび太の部屋とコーヤコーヤ星が畳の裏1枚でつながるシーン、『鉄人兵団』で頭を冷やしに北極へ行ったドラえもんを探しに行く途中でのび太がジュドの頭脳を見つけるシーン、『竜の騎士』で0点のテストを隠した場所が地底世界の入り口だったシーン、『アニマル惑星』で登場した謎のピンクのもや、などはまさに「日常との接続」そのものである。

第三に、深い教養に裏打ちされた科学物語であるという点だ。古今東西の物語を広く・深く知悉していることで知られる藤子先生だが、併せて最新科学(自然科学だけでなく、歴史や神話などの人文科学を含む)への造詣も、相当に深いことが各作品からもよく窺える。要はまったく「浅さがない」のだ。1つ1つの物語が生半可な知識で描かれていないからこそ、深みのあるストーリーが展開されるといえよう。

その代表例が『創世日記』であろう。宇宙の創造から地球の形成・進化論といった宇宙科学・地球科学・生物学だけでなく、アダムとイブの神話からはじまりシャーマニズムの形成といった神話や宗教の概念、人類の発展史、果ては伝説、南極空洞説まで総動員した「今の人類に至るまでの知識のオンパレード」で1つの作品を成し、100分のボリュームに「子どもの鑑賞に堪えうる」レベルで仕立てるというのは、高名な専門家が束になっても、なかなか創れるものではない。また、『竜の騎士』で地底世界の首都エンリルに向けて地底船に乗るシーンで、多奈川底からアメリカ大陸へ向かう途中の火山帯を通過した時に、静香が「ハワイの近くかしら」とつぶやくシーンがあるが、これはもう、児童漫画で徹底的に培われた「知識をわかりやすく伝える」「技」のようなものである。ほかの漫画で、小4(映画では小5)の女の子に、「ハワイが火山帯」であることをごく自然に読者に開陳するようなシーンが挿入される作品など、見たことがない(ふつうは説明口調になるが、このシーンはもう、「自然」すぎて、視聴者は流してみるだろう。しかし、火山帯を通過する説明はこの静香の説明しかないのだ。もはやこのテクニックには、脱帽するほかない)。

第四に、キャラクタの特徴(ステレオタイプ)を活かしきった活劇であるという点だ。各キャラクタの生みの親は作者自身であるから、それはもう、生き生きと紙面を、画面上をドラえもんが、のび太が、静香が、ジャイアンが、スネ夫が動き回ったに違いないのである。「のび太だったら、こう動くだろう」という後世の人間が頭で考えた「造り」ではなく、もはや「のび太はのび太として自律的に動く」状態だったと想像される。ちなみに「キャラクタ」とは「特徴」のことであるから、必然的にステレオタイプ(いわゆるパターン)で動いてよいのである。

●ドラえもん・・・主人公の立ち位置には2つあって、主人公が動かない作品と、動く作品がある。ドラえもんやアンパンマン、ゴルゴ13は前者、こち亀は後者だろうか。そう。実は、彼は「傍観者」なのだ。アニメの「アンパンマン」を見ていると、彼はここぞという時にアンパンチでばいきんまんをやっつけるとき以外、常に「傍観者」であることに気づく。これと全く同じ構造で、ドラえもんがストーリーを動かすのではなく、周囲のキャラが勝手にストーリーを進めていく。「ここぞ」というときに動くからこそ、圧倒的存在感を放つのである。
●のび太・・・弱虫ですぐに人に頼って、ダメなところばかりだが、本質的に心が優しい。だから、親からも友人からも、先生からも見放されずに生きていける。それがのび太だ。『鉄人兵団』でリルルを撃てないのび太、がのび太の本質を表している。
※ちなみに、「ドラえもん」の主人公はのび太である。そもそも、のび太の成長を見守るロボットがドラえもん、である。原作の短編はもちろんのこと、『ブリキの迷宮』や『雲の王国』『創世日記』などでは、そもそもドラえもん不在でのび太が中心にストーリーを進めるシーンが多用されている。
●静香・・・子どもが幼稚園でもらってきた塗り絵の静香の説明に、「やさしくてしっかりもの」と書かれていた。本質を捉えている。もう少し詳しく書くと、静香は「少年が憧れるクラスのかしこい女の子」である。この「少年」の部分を「のび太」に変えても、究極には「藤子先生」に変えても、本質は全く同じだ。藤子先生のあこがれが投影されているのだから、本物の静香は、藤子先生にしか絶対に描けない。したがって、大長編原作のないドラえもん映画は、圧倒的に静香の描写ができていない。辛辣なことを言えば、「単にかわいい女の子」でしかない。でもそれは、静香とはまったく違うのだ。静香は、「藤子先生が憧れる、クラスのかしこい女の子」なのである。だからこそ、『銀河超特急』でみせるメルヘン好きの部分と、『宇宙小戦争』で(特にスネ夫に)みせる男気と、『海底鬼岩城』でみせる愛情と、『鉄人兵団』でみせるやさしさやかしこさと、、、そういった「こんな女の子、いいな」という要素が集まっているのが静香なのだ。『鉄人兵団』のワンシーンで、湖のザンタクロスの上で「ねえ、このロボットの名前、ラッコちゃんって名前にしない?」と静香が問いかけ、のび太が「そんな弱っちい名前、嫌だよ」と断るシーンがあるが、こういう静香の静香でしか出せない雰囲気を表すシーンは、絶対に藤子先生にしか描けないと思うのである。
●ジャイアン・・・ジャイアンは「乱暴者だが、人情に篤い男」である。要はガキ大将ということだが、すなわち、「シマの中では暴君としてふるまうが、シマの外の奴からは守ってやる」という性質で説明がつく。暴君ジャイアンと面従腹背の従者スネ夫、というコンビネーションは最高級のギャグ・パターンであり、もはや様式美であるとさえいえる。本領発揮は『ブリキの迷宮』であろう。ロボットに変身してチャモチャ星の首都、メカポリスに潜入するジャイアンとスネ夫の迷コンビぶりは、もはやその存在だけで人を元気にさせるコメディアンそのものである。
●スネ夫・・・スネ夫の性質は「臆病者だから、強いものに靡く」なのだが、作品の観点からみると、実は貴重なストーリーテラーでもある。『恐竜』『宇宙小戦争』『鉄人兵団』では導入から「きっかけ」を生み出しているし、『ドラビアンナイト』では彼の見る「幻覚」が物語の核心を突いていく。『竜の騎士』は彼のノイローゼなしには話が進まなかった(道に迷ったスネ夫は、ドラえもん、のび太、静香、ジャイアンの順に助けを呼ぶ・・この順番がまた面白いのだが、それは余談であった)。そして『雲の王国』に至っては、彼の資金力なくしては「雲の王国」を建設すらできなかったのである。表層的にはゴマすりをしているような印象が強いスネ夫だが、実は作品を有機的に動かす原動力となっている重要キャラなのであった。

第五に、子どもだましではない点だ。子どもは「子ども向け」を嫌う。「ここで笑わせておけばいい」「動きを大きくつけて飽きさせないように」「こんな難しい概念はわからないだろう」と馬鹿にして臨めば、それに気づくものだ。わかりやすさは必要だが、あくまでも「人」として扱う、そんな「扱いの丁寧さ」が、作品からひしひしと伝わってくるのである。

例えば『創世日記』は、宇宙の始まりから現代までを、「疑似宇宙」という空間の中で説明し切った作品だが、随所に「神話」「進化論」の概念を取り入れて構成されている。今の「ドラえもん映画」で、オープニングに「聖書」の一節を取り入れたり、さらっとシャーマニズムの概念を説明したりすることなど、おそらく誰もできないだろうと思う。ところで創世期の「神話」や「はじめて物語」は、大長編ドラえもんの中では1つのキーワードになっている。例えば『アニマル惑星』も動物世界の創世期の神話がストーリーの核となっているし(チッポに新年の物語として語らせている)、『鉄人兵団』もロボットのアムとイムがストーリーの最核心だ。『日本誕生』は物語そのものが日本の創世物語である。また『雲の王国』にも創世神話の影響が感じられる(劇中にシアターを設けて説明している)。『竜の騎士』も途中、博物館の中で恐竜の進化・絶滅と創世物語を組み合わせ、ここで地図に登場する「聖地」の形がその後のストーリーの重要な伏線にもなっている。このように、「私たちは何者なのか」を作品の中で丁寧に解説するからこそ、ストーリーに厚みが出て、子どもも、子どもなりの理解で「なんだか、すごい話だぞ」ということを理解するのである。「子どもに、雰囲気で納得させてしまう」というこの手順は「ドラえもん」において絶対に飛ばしてはならないことだと思うのだ。

第六に、あからさまなお涙頂戴でない点だ。感動の押しつけは、暴力である。「ほら、こういうシーンが感動するんでしょ?ほれ」とか、そら「ドラ泣き」だぞ、とかやっているようでは、まったくもって安っぽい作品にしかならない。大長編原作の「ドラえもん映画」には、狙った「お涙頂戴」は一切含まれていない。

こういうときによく言われる『恐竜』のピー助とのお別れのシーンなどは、むしろ「行き場が決まってよかったね」というような話だ。どちらかというと、「自分たちの力でピー助を送り届けた」という自立のほうにこそ感動の軸足が置かれるべき話である。『海底鬼岩城』のバギーと静香の絆、『鉄人兵団』のリリルと静香の友情も、すべてストーリー上の必然であって、「感動させよう」と思って感動させているわけではないことにぜひとも留意を置きたい。

第七に、動きが少ないことだ。もうおっさんだからなのかもしれないが、最近の絵は顔も含めて動きすぎて、落ち着いて見ていられないのである。見ている子どもを飽きさせないようにする工夫・・なのかもしれないが、いくら何でも動きすぎである。いたずらに作画を崩したり、鼻水を出したりする必要性も感じない。こんなに動いたら、却って見ているほうは集中できないんじゃないかと思うが、どうなのか・・・。

第八に、音楽とのリンクである。「ドラえもん映画」といえば武田鉄矢である。このハマり具合は尋常ではない。これは安っぽいタイアップでは絶対に作れない。表層的な曲づくりではなく、真に「ドラえもん」を理解し、作品のテーマと一体化しなければ、到底生まれてこない深すぎる歌詞。大人になって、ますます味わい深くなる曲ばかりである。以下、唐突に全曲レビューだ!!

■『恐竜』・・「ポケットの中に」
最初期にしてこの名曲。ドラえもんの声で聴くから、ますます余韻が深まる。そう、ドラえもんとはいつでも一緒なのだ・・・。ただし、大人になるまでは。 ピー助もそうだったように。     
■『宇宙開拓史』・・「心をゆらして」
さようなら、コーヤコーヤ星・・遠くて届かない、「大切なもの」・・
■『大魔境』・・「だからみんなで」
仲間がいるから、勇気が大きくなるんだね! 途中から元気を取り戻すジャイアンにそのまま投影される曲だ。
■『海底鬼岩城』・・「海はぼくらと」
海は広い。どこまでも。だから、いろいろなものを包み込む。海に散ったバギーの思いも、包み込む・・・。
■『宇宙小戦争』・・「少年期」
名曲中の名曲。劇中で、作中人物がこの歌を歌うところは涙ものである(曲を聴きながら寝てしまうのび太をドラえもんとジャイアンが優しく見つめるシーンなんてもう、涙なしでは見られない)。今から聴くと、若くして「大人」になってしまった大統領、パピの心うちも感じる。
■『鉄人兵団』・・「わたしが不思議」      
静香は言った。「時々理屈に合わないことをするのが、人間なのよ」。理屈とは違って心が変わってしまう不思議な”わたし”、”わたし”が不思議。これは天使になったロボット、リルルそのものの歌だろう。
■『竜の騎士』・・「友達だから」
初期以来のドラえもんの声のED。牧歌的でよいですねぇ。友達はずーっと友達・・違う服を着ていても、目指すところは一緒!
■『パラレル西遊記』・・「君がいるから」
明日を目指してGo to the West, まさに「パラレル」な西遊記を象徴するごきげんソングですね。「ロールプレイ」という観点で作品のテイストは『夢幻三剣士』と似ているので、曲も「夢の人」と近いジャンル。
■『日本誕生』・・「時の旅人」
1億年前も、1万年前も、2000年前も。そこに「空」があった。過去からずっと紡がれる「歴史」を想起させてくれる壮大な歌。
■『アニマル惑星』・・「天までとどけ」
「業」を抱えながらも、未来に向かって生きていく・・ニムゲ・・いえ、私たち「人間」の在り様がまっすぐに描かれているように思います。
■『ドラビアンナイト』・・「夢のゆくえ」
アラビアンナイトの世界から飛び出してきた、厚手の革製の素敵な装飾の絵本をめくるような、幻想的な曲が作品とびっくりするほどマッチしています。 まだまだ夢を見ているような・・。それは、のび太の見た「夢」でもあり、波乗りシンドバッドの「夢」でもあり、千夜一夜の「夢」でもあったのかもしれないな。    
■『雲の王国』・・「雲がゆくのは」
空の雲は今や空っぽ。雲は天上人の諦念と希望とを載せて今日も流れてゆく・・
■『ブリキの迷宮』・・「何かいいこときっとある」
ブリキの「宝石のおもちゃ箱」から飛び出したかのような曲。エンドロールで、のび太が念願の「家族旅行」に行けた、というのとサピオが自力で走れるようになった、というのが最高の感動ポイントである。「何かいいこと」がちゃんとあったのよね。
■『夢幻三剣士』・・「夢の人」
劇中歌とEDの2本立てという豪華版。こちらは『パラレル西遊記』の「君がいるから」も想起させるような、旅を盛り立てる勇ましい名曲だ。      
■『夢幻三剣士』・・「世界はグー・チョキ・パー」
このラインナップの中では異色を放つコミカルな曲。ただ歌詞は「多様性」の重要性を訴えるなかなか考えさせられる内容。行き過ぎたグローバル化・画一化への警鐘と考えると、かなり時代の先取りをしている感じもする。
■『創世日記』・・「さよならにさよなら」
すべては「時間」と「DNA」という螺旋の階段でつながっている、ということを気づかせてくれる名曲。だから、「さよなら」は「さよなら」じゃないんだね!
■『銀河超特急』・・「私の中の銀河」
星より遠くなってしまったもう会えない「あなた」の思い出は、海の貝殻の形、そして森に咲く花びらの色に”記憶”として、残っています・・というとても切ない歌。まるで天の川鉄道に乗って、「あなた」が行ってしまったかのような曲である。藤子先生は、『銀河超特急』の半年後に逝去され、武田鉄矢もED作詞から引退。奇しくもこの歌が、武田が藤子先生を思う歌のように聞こえて仕方ないのである。


公開:2020年7月24日

本来であれば東京オリンピックだった7月23日。現実は、「東京の新型コロナ感染者数がはじめて300人の大台を突破した」不穏な四連休初日となった。

誰がどう見ても第2波の感染爆発がはじまっている最中、もはや「あの時の緊急事態宣言は何だったんだ」というほかない、恐るべき静けさの政府。それでいてまさかの「旅行へ行こうキャンペーン」の全国展開。あれだけ同調圧力に任せて自粛させておいて、この期に及んで正に無為無策。

正に「戦時下」、何でもありの大混乱ぶりだが、その中で、国民が怒髪天を衝くべき、衝撃的なニュースがひっそりと報道されているのである。

景気後退、正式認定へ 戦後最長ならず―内閣府(時事)
「景気後退」認定へ、戦後最長ならず 回復は18年10月まで(日経)

要するに、景気は2018年10月から後退局面に入っていた(不景気になっていた)という、市井の人々なら誰でも「知ってた」というようなことが、今更報道されているわけだ。

2019年10月には、景気が拡大しているという前提で「消費税」が10%になったはずである。しかし、実態はどうか。不景気なのに、消費税は増税されていたということになる。これはさすがに、導入の根拠というか、説明が違うと言わざるを得ない。

以前も書いたが、消費税導入直後の2019年10-12月期のGDPは、(コロナの影響前である)すでに年換算で-6.3%という惨憺たる数字となっている。コロナの直撃を受け切っていない1-3月期が-2.2%減、そしていよいよ、コロナが直撃した4-6月期の発表が控える。おそらく、目を覆いたくなるような数字になることは疑いない。

ここへきて、「実は、消費税は不景気なときに増税しちゃいました」という告白である。ただ一言、「ふざけるな」としか言いようがない。どうやら増税のタイミングは、最低最悪の時期となってしまったようだ。

さて、今は戦時中である。

安全なところから発出される大本営発表は常に生活実感と乖離しているので、圧倒的大多数の物言わぬ国民は、政府の発表に「そんなことないべ」と鼻をほじりながら、財布のひもをしっかりと結び、給付金を貯金し、旅行にも行かず(だいいち、職場で感染第一号になるリスクを考えたら、呑気に旅行に行ける層は限られてくるのである)、居酒屋にも行かず、ただただじっと「時が過ぎるのを待」っているのであった。


公開 2020年7月23日

このコロナ禍で、「当たり前」だと思っていた日常が、まったく脆いバランスの上で成り立っていたことに気づかされた。「学校」という一番最初の社会基盤ですら、「平時」のシステムの一部に過ぎなかったことも。

「ランドセルを背負って、毎日学校に行き、40人がぎゅうぎゅうに詰まって学び、どんな成績でも1年後には次の学年に持ち上がる」という仕組みが、もしかするともう限界なのかもしれない、とも感じられた。

よく考えると、「スマホ」「ICT」「AI」「ユビキタス」「個別最適化」が当たり前の社会で、近代以来続く「黒板」「わら半紙のプリント」「教科書とノート」「通学前提」「集団授業」というのは、「学校が社会に合わない」現象を加速させてはいないだろうか。

前回書いたように、9月入学は社会変革の1つの起爆剤だと私は信じるが、「性急な導入はしない」方向に政治も世論も全部動いているので、「今すぐ」はあきらめざるを得ない。グランドデザインが描かれたわけではないところがつくづく残念だ。ただ、中長期的には、社会が急速に変化している以上、伝統的な「黒板」「集団授業」型の教育は変わっていかざるを得ないだろう。

そのイメージを考えてみる。一言でいうなれば、「学びの多様化」である。戦前の「強兵養成」でも、戦後の「企業戦士育成」でもなく、「公共の福祉に資する個人の育成」こそが、この「学びの多様化」には求められよう。

【入口】=基礎学力を高める=
基礎も何もないところから、「多様性」も「創造性」もあったものではない。早期のうちから「学びの土台」を固めることが教育改革の第一歩である。


<読み・書きの基礎ができた状態での入学>
・年長期からの基礎教育課程の導入をすすめたい。具体的には「国語」「算数」「生活科」の基礎領域のプレ導入だ。4月入学の場合は9月?、9月入学を導入する場合は年長の3月?、すなわち「年長」期は6か月として、残りの6か月は「ひらがな」「カタカナ」の読み書き、「100までのすうじ」の読み書き、「自己紹介」「通学路の安全」「動植物の知識」あたりを(ちょうど「小学校英語」の導入のように)義務教育化する。これがあると、小学校1年生になったときに「読めない、書けない子」を少しでも減らせるはずであるから(いわゆる「小1の壁」)、スタートダッシュがはかれる。

<ブックスタートの拡充>
・読み聞かせは、「学び」の最もベーシックな部分、「言語能力」や「コミュニケーション能力(感情含む)」に直結する、教育の要点である。どんなに手間をかけても、国策として「読み聞かせ」を推進してくことは意義のあることだと思う。具体的には出生時?3歳に達するまで、毎月1冊、各家庭に絵本を届ける。出生数はだいたい90万人なので、1年の予算は90万人×12か月×3年代分×1000円=324億円。新国立競技場建設費の1/5でかなりの教育効果が見込める施策だ。子育てをしている全世帯に届けるので、ここに年齢別の広告封入を募集すれば、有用な広告媒体(=国庫にとっては収入源)ともなる。

【中間】=学び方の多様性を図る=
早期教育によって「基礎学力」の基盤を創ったところで、いよいよ学校である。テーマは「学びの多様性」だ。「学校のあたりまえ」を見直すところからメスを入れていく。

<単位・飛び級・留年制>
・小学4年生以降の「教科担任制」「単位制」の導入を考えたい。「算数」は「数学(代数)」と「数学(幾何)」に、「国語」は「現代文」と「表現」「古文」に、「英語」は「リスニング&スピーキング」と「リーディング&ライティング」に、「理科」は「化学」「物理」「生物」「地学」に、「社会」は「歴史」「地理」「現代社会」にそれぞれ細分化する。必修科目/選択科目も設定する。選択の新設教科として、「プロジェクト実践(例えば特定のテーマの「調べ学習」をグループで行い、1年後に地元の大学で発表させる)」とか、「コンピュータプログラミング基礎(プログラム言語を使い、実際にソフトウェアを作らせる)」、「社会デザイン入門(大学教授などを招聘し、ゲーム理論やナッジ理論など、行動経済学のトピックスを通じて、よりよい社会を”自分たちが”作っていくという自覚を持たせる)」のような目新しい科目を入れるのもよいかもしれない。
・小学4年生以降高校3年生までの「飛び級」「留年」制度の導入も併せて行う。到達度によってはどんどん先に進んでもよいし、留年もあり得る。「単位制」とセットなので、例えば「数学(代数)」は小4のうちに小6のレベルまで単位取得をしてしまって、「リスニング&スピーキング」は小4では学ばず、小5・小6で一気に単位を取る、得意な「現代社会」は、その時だけ中学まで授業を受けに行き(オンラインでも可)、結局小6までで中学3年分の内容を修了してしまった・・ということも可能とする。
・学校行事も「必修」と「選択」を設定する。例えば「運動会」「体育祭」は毎年必修1単位とするが、「合唱コンクール」は、3年間で必修1単位とか、「芸術鑑賞」は音楽・美術・舞台芸能などから毎年1単位選択とか、中には「海外留学」を入れるなど、子どもの趣向に併せてアレンジメントできるようにすることも検討する。学校ごとの個性があってもよい。
・教科担任の先生は、毎年初に「シラバス」を発行し、授業計画や単位認定の基準を明確に示す。「自分のやっていることが何につながっていて、どんな効果を得られるか」は、授業を受ける側の「知る権利」でもあろう。特に公立学校においては、納税者全員が「知る権利」を有するはずだ。
・教員免許も、「幼稚園教諭(年少?年長6か月度まで)」「初等教育教諭(年長7か月度?小学3年生まで」「中等教育教諭(小学4年生?中学3年生まで)」「高等学校教諭(高校)」に組み替えることも考えたい。
・ここまで書くと、発達段階から見ても(要は「つ」のつく年までが初等で、それ以降は中等ということなのだが)、これまでの「6・3・3制」から、より柔軟に、
「初等教育」 3.5
「中等教育」 6
「高校教育」 3
という、「3.5、6、3制」というのを検討してもよいのかもしれない。地域によっては、「こども園・初等教育学校(年少から小3までの6年間)」「中等教育学校(小4から中3までの6年間」「高等学校(高1から高3年までの3年間)」という「6・6・3」のくくりで学校を再編するところがでてくるかもしれない。

<皆勤賞の廃止>
・今や、体調不良者が出勤することは社会の重大なリスクになっている。「体調の悪いときは、休む」という当たり前の社会を創ることは、教育の責任でもある。ときたま、「クラス全員が皆勤賞を狙うために、体調の悪い子をクラスの何人かが迎えに行って、何とか全員で皆勤賞を達成した」という気持ち悪すぎるニュースを目にするが、これは美談でもなんでもなく、ただの「集団圧力」という暴力であることにそろそろ気づかねばならない。休んだ人がいたら、その分を皆でフォローしあう姿勢を育むのが本当の教育だろう。
・この「皆勤絶対主義」で育った大人の行く末は、「緊急事態宣言下で、会社がテレワークの指示を出していても、出社していないと落ち着かない企業戦士」の量産だったことを絶対に忘れてはならない(ウイルスだけではない。もともと地震などの自然災害も多い国だ。人が「不要不急」で集まることそのものが、もはや社会的なリスクであることは、改めて自覚したい)。

<集団授業とe-ラーニングのハイブリッド化>
・「絶対に集団教授式でなければ、学びは成立しない」という拭い難い先入観は打破された。ほんらい、学びは「自分でやるもの」であって、「誰かから教えてもらわないと、できない」ものではない。いや、そもそも「教えてもらう」ことですら、「教えてもらう」→「自分で気づく」→「習得する」というプロセスを踏むはずだ。
・学習習慣が身につくまでは、学校という場で「勉強とはどんなことか」を知る必要がある。また、集団生活に慣れることそのものも大切だろう。しかし、いつまでも集団授業「だけ」で教育を行うというスタイルにも無理がある。
・そこで、「e-ラーニング」と「集団授業」のハイブリッド化を進めたい。小学4年生くらいから、「聞けばわかる」「読めばわかる」「練習すればできる」ことは「e-ラーニング」を積極的に取り入れたい。特に計算や漢字などは、身もふたもないことを言えば、「理解力」というより「適切な練習量」が「学力」に直結する課題だ。ある意味、「入力」×「努力」=「成果」という方程式が成り立つものである。方程式にできるということは、「数値化」、すなわち「機械化」できるということもである(ただし、これが学びの基礎であることは論を俟たない)。すなわち、こういう機械化可能な分野=「わざわざ学校でやらなくても、家でもできてしまうこと」については、「ミスした問題」「定着した問題」の峻別をとっととAIに任せ(つまり人間を解放し)、積極的に個別最適化を図っていくのだ。ある課題ができない子は徹底的にその単元を学んでいくべきだし、できる子はできることをどんどん伸ばしていくほうがよい(ただし小3までに、「世の中にはいろいろな子がいる。できない子がいれば時には待つことも大切。自分がそうなることもあるのだから。ただ、あえて自分が先に進んでそこで待っているということもある。みんな違ってよい」ということを、それこそ集団授業で気づかせることが前提ではある)。一方の集団授業は、科学実験とか、ディベートとか、1つの目的(例えば「調べ学習」など)をチームで達成させるプロジェクト志向型の授業、などに絞って時間を使っていくべきだろう。繰り返すが、「計算力」や「漢字」などは、機械化が可能であるから、ICTによってトレーニングプログラムを入れて、ただちに個別最適化の方向に舵を切るべきであるし、それができない分野については、「人」の介在で、「人」ならではの授業を展開していくべきなのである。

<学力到達度認定テストの創設>
・年に1度、インフルエンザの時期に1回勝負の「大学入学共通テスト」(旧大学入試センター試験、共通一次試験)を行うという慣行は、「学びの多様化」と逆行している。大学以降の高等教育は、「いつでも、だれでも、いつからでも」学べる状態が理想である。
・学力の到達度を公的に認定するテストがほしい。イメージはアメリカのSATとかACTのような大学進学適性試験だ。ちなみにSATは年に7回も受験機会があるようだが、まずは現実的に四半期に1回、すなわち「年4回」の受験機会を提供する(3月・6月・9月・12月)。
・内容は、あくまで「到達度の認定」なので、基本的にはローコストのマークシート方式とする。各教科はスコア化され、例えば国語であれば、「現代文は200点/500点」で到達レベルC、のような感じ。あとは大学ごとに「〇科目で到達度A以上、〇科目で平均A以上、ただしC以下がないこと」のような受験資格を設ければよい。偏差値というより、このスコアが事実上の大学ランクを示すことになる。
・一定の条件で(例えば「大検」の受検、「高校に〇年在籍し、〇単位取得済」など)、この「学力到達度認定テスト」の認定基準に達していれば大学を受験できるという制度は積極的に推進していきたい。すなわち、非常に優秀な学生であれば、高校2年のうちに「日本版SAT」の基準に達し、大学入試の受験資格を得られる、ということも考え得ることだ。上記の「飛び級」ともリンクする話だ。

<時間割の発想からの脱却>
・年間授業コマ数に拘らない、柔軟な授業設定も考えたい。例えば、高校の独自設定科目として「都市景観の課題を発見する」というフィールドワーク型授業を設定した場合は、コマ数ではなく、「1年間、個人またはグループで研究した結果を論文で発表する」ことを以て選択3単位とする、ということも可能にする。また、例えば小学4年生の「数学(代数)」においては、「分数の計算力到達試験」で80点以上、「小数の計算力到達試験」で80点以上、「まとめの試験」で80点以上それぞれ取得した場合に「合格」とする(明確に成果で測れる課題については、授業時間数ではなく、「成果」で判定する)といった運用も考えられる。一方で、中学3年生において選択3単位の「修学旅行」においては、「準備・計画」に50分1コマ、「修学旅行」に3日程、「振り返り」に50分1コマを以て単位認定をする、など「時間で測る」ことがなじむものは、コマ数に換算することも併用する。

【出口】=一括管理方式からの脱却=
どんなにここまでの制度が整っても、結局は「出口」がすべてを規定するのが公教育の限界点である。「出口」が富国強兵ならば「兵隊とそれを支える良妻賢母の養成」が公教育の目的であるし、それが従順なサラリーマン錬成ならば「企業戦士とそれを支える専業主婦の養成」が目的となる。今は何だろうか。国際社会において、持続可能な社会の担い手となる人材の育成、といったところだろう。となると、必然的に「公共感覚を持った自立した個人」の養成が不可欠となる。ここで求められるのは、一括管理によって「製造」された「正解探し」型の「ロボット」的な「マニュアルワーカー」ではなく、多様な社会状況を経験して「創成」された「イノベーション」型の「自律した人間」による「ナレッジワーカー」であろう。

<大学の入学時期の見直し>
・日本版SATを年4回受験できることと併せ、大学の入学時期も例えば「4月入学/9月入学」と分けるなど、柔軟な設定を行いたい。

<官公庁と企業の通年採用>
・いうまでもなく、多くの企業は定期採用で4月に新卒一括採用を行う。管理が圧倒的にラクなのと、ある程度横並びにしておかないと、「取り得るべきときに人材を確保できない」という機会損失が発生するからだ。ただし、「これまでは」という留保がつく。
・だが「学びの多様化」が進めば進むほど、すなわち、人材の多様化が進めば進むほど、「一括採用」は経営上のリスクとなっていく。すると今度は、却って「取り得るべきときに人材を確保できない」ことになるからだ(「多様化」とはもとから、その本義から言って、従来型の「管理」は棄却されるということを意味する)。
・「分散型採用」が「普通」になると、結局どこかで「横並び」になるのだから、これが「横並び」になるまえに、ブルーオーシャンに漕ぎだす・・ほうが得をするかもしれない。問題は、「誰が先陣を切るか」だけだ。

***
これからは、「一括教育システム」から、「分散型教育システム」にいちはやく転換し、ナレッジとして内在・蓄積している組織のほうが、はるかに多くの人材を結果的に呼び込めることになる、かもしれない。そんな予感を覚える。「組織」を「国」と置き換えても同じである。


公開:2020年5月31日

新型コロナウイルスとの闘いは、正に「戦争」である。銃後を生きる我々は、コロナと戦うとともに、もう二度と社会が「コロナ前」には戻らないことを自覚し、今の社会の「当たり前」を見直すしかない。

■9月入学で、社会を変える

「9月入学」説がにわかに現実味を帯びてきた。3月・4月、そして5月と3か月間も「学校の授業」がまともに実施できない現状では、夏休みを超えて「9月入学」に切り替えるのが、生徒の学習機会担保の観点で見て、もっとも現実的な選択肢であろう。

「4月が入学の季節。桜とともに入学式!」という向きもあろうが、近年の気候変動で、例えば首都圏では3月には桜が咲き終わってしまっているし、そもそもの話、東北では5月前に桜が咲く。別に、「入学=桜」ではないのだ。

そして単純に9月入学が国際標準であるからして、今後の国際競争を見据えた時には、日本独自の制度に拘る必要もあまりない。

強いて言えば、予算管理の問題であろう。ただこれも、仮に「年度」という枠組みを活かすならば、9?3月の7か月を1年度、4?8月の5か月を2年度として、分割管理すればよいだけだ。

本当は、社会全体で年度そのものを「9月?8月」としてしまうことも考えたいところだ。難しいようでいて、実はできないことではない。そもそも、確定申告は「1月?12月」で行う。年度管理を「1年」とずらしたところで、人が決めただけのこと、やろうと思えばできるはずだ。

9月入学の導入によって、意識が変わり、社会の常識が変わる。就活が変わり、企業活動も変わる。空白期間が生じている今こそ、前例にとらわれず、社会全体で取り組むべき課題であろう。

■オンライン化を一気に進める

在宅勤務を続けて、心底思ったことがある。「通勤って、本当に無駄だな」ということ。往復2時間が「家での時間」に代わるだけで、どれだけの時間が捻出されることか。仕事の時間+通勤時間で大幅に拘束されていた「自分の時間」がつくれたという人も多いのではないか。これこそ、「働き方改革」である。

小池都知事の公約通り、図らずも「満員電車ゼロ」が実現した。誰とも知れない人とくっついて出勤するという光景が、そもそも異常なのである。「同じ時間に、一斉に移動する」必要が実は全くないことを、この在宅勤務は示してくれた。

ミーティングはオンラインで充分。むしろ、無駄な話をしている余地がないので、テーマが明確で、サクッと会議が終わる。

FAXなど時代錯誤の遺物。メールなり、BOXなりで済む書類を、今までどれだけ無駄にやり取りしていたか。

そしてそもそも、事業所という存在がもったいない。オフィススペースを縮小し、浮いた賃料を社員のオンライン経費に回し、「いつでも、どこでも、誰とでも」仕事ができる環境を整えるほうがよほど生産性に直結する。社員が自宅近辺で仕事をできたほうが、災害時のリスクヘッジにもなる。

これも、「在宅勤務」を多くの日本人が”体感”しはじめている今こそ、前例にとらわれず、社会全体で取り組んでいくべきテーマとなろう。

■学校の常識を変える

時折、休校期間中でありながら、「登校日」と称して学校にランドセル姿で登校する子どもの姿を見かける。

「ちょっと待てよ」と思う。一体何年、「学校に行くこと」を前提として教育制度を組み立てているのか。

オンライン環境を整えれば、非常時にはわざわざ学校に行かずとも、在宅で授業を受けることはできる。まずは「学校に行けない状態でも、教育機会を担保する」ための環境づくりが急務であろう。

そして、そもそも「毎日、決められた時間に学校に行く」ことにもメスを入れる必要がありそうだ。例えば週1回は在宅で授業を受ける日、などを設けることで、「家で学習する習慣を身に着けさせる」ことに特化した教育プログラムを組んでもよい。

「○月○日は市営の○○体育館に集合」とやって、1日中、外部で体育の授業をしてもよい。わざわざ、体育館や運動場をセットで設置する必要もないかもしれないのだ。

ここは、柔軟に考えたい。集団行動も重要だが、同じように「個人としてどう動くか」の訓練も必要なのだ。旧時代的な「標準工業品を出荷する教育」=集団教授式(みんなと、同じ時間に、同じ成果をあげさせることを目指す)だけでなく、「オーダーメイドのオリジナル商品を出荷する能力を磨く教育」=個人別学習(いざ、一人で動くときに、どう学ぶかを体感させる)という「学び方」そのものも提供できる教育機関に脱皮することを、学校には強く期待したい(どちらか、ではなくどちらも、である)。

■会社の常識を変える

筆頭は、やはりテレワークの浸透だろう。この流れは止めようがない。「監視型テレワーク」は絶対に長続きしない(疲れるから)。そうではなく、「成果型テレワーク」に移行していくだろう。「労働時間」ではなく、「成果」だけでもなく、「組織の成長プロセスと成果物」で組織への貢献度を図る、そんな時代がまもなく来ようとしている。

「ハンコ決済」「書類の郵送・FAX」はかなり厳しい局面に立たされる。一度デジタルの「手軽さ」「即応性」に慣れてしまうと、ほとんどすべての書類決済はオンライン化が加速することになろう。

「同じ時間に、同じ場所に、全員が集合する」という勤務スタイルは、もはや古い。「バラバラの時間に、別々の場所で、全員が自分の仕事をする」という勤務スタイルがデフォルトになる。すると畢竟、「通勤」という概念が様変わりする。

まずは「満員電車」がなくなるはずだ。どうしても出勤が必要な時でも、わざわざ激混みの時間に突入していって、体力を消耗させる必要はないのだ。

中長期的には、「居住環境」が多様化するであろう。テレワークが浸透すれば、わざわざ「都心に近い場所」で働く必要性が薄くなってくる。場合によっては、「自然が大好きなので、山奥の広い家を買ってそこからリモート出勤をする」とか、「日本中を旅して、必要な時に業務に加わる。だから家は安いところで充分」みたいな究極ともいえるノマドワーカーも普通になるかもしれない。

会議も出張も、勉強会も。もはや「集まって何かを実施する」というのはリスクでしかない(感染、災害など)。コストもかかる(交通費、会場費、資料代など)。「できるだけ人を動かさない」という方針が、これからますます強くなってこよう。

■”アフターコロナ”を見据えた業務改革を:「再成長戦略」としての働き方改革

今はまだ多くの企業が緊急対応の段階(社員とステークホルダーの安全確保、既存の事業継続計画(BCPやBCM)に基づく応急的実行)にあろうが、やがて1年というスパンで「収束」が見えてきたときに、「戦後処理」が必要になってくる。それが組織や業務体制全体の再構築(リストラクチャリング)の段階である。そして、この2つの段階を乗り越えた先に、「ポストコロナ」のイノベーションを起こしていかなければならない。

平成を駆け抜けたグローバル化、拠点の集約化、選択と集中は、すべて「平時」の戦略であった。「戦時」は、グローバル化が統一対応の足枷になるし、組織効率化はバッファーの不足を露呈させる。これまでの「効率一辺倒、グローバル化頼み」では到底立ち行かないのが、この「アフターコロナ時代」であろう。

組織はまず、BCPやBCMといったリスクマネジメントの概念を、まさに、組織そのものの生命を守り抜くために、より包括的なERMにまで引き上げていく必要が生じよう。リスク評価の概念を、単に「地震」や「台風」といった災害にとどめず、全世界的・長期的に経済活動がストップする状況を想定したものに引き上げていかねばなるまい。

これと密接にかかわってくるのが、組織改編である。組織ビジョンや経営計画の抜本的見直しはもちろん、抱えている事業そのものの大幅な再構築も求められよう。

それにはまず、組織の変革だ。「稼得部門」は「効率化」のみならず、稼得特化能力(不要不急の業務に忙殺されない業務チェーンの見直しと緊急時のリスク対応能力)を高めるための適切かつ迅速果敢な投資を行うことが求められ、一方で「バックオフィス部門」は、一層の効率化を進める圧力が強まるはずだ。

そのために欠かせないのが、ICTを中心とした企業内インフラの充実である。「高速」で「安全」な社内LAN環境の整備を前提に、より社員がテレワークをしやすい環境を常時整えておくことが求められる。

これと併せて、人事制度の改革にも徹底的に着手をする必要性があろう。それこそ、2021度からの「9月入学」1期生に合わせた新卒採用活動からスタートし、社内研修制度の見直し、「働きすぎない在宅勤務」を見据えたテレワーク制度の整備・充実、台風災害などのときに「外で何時間も電車を待って出勤する」ことが”美徳”とならないような人事制度設計も含めて、根本から制度そのものを見直していくことが不可欠である。

本稿の参考文献:「アフターコロナを見据えた取り組みの方向性・・・収束から再成長に向けて 」(日本総研)

■まとめ

以上、様々なことを書いたが、とにかく空白期間が生じている今こそ、前例にとらわれず、社会全体で取り組むべき課題であろう。


公開:2020年4月29日

本来、日本の社会参加意識は低い。近代化も「黒船仕様」なら、民主化も「アメリカ仕様」だ。内発的に近代化・民主化が為されてきたわけではないので、当然といえば当然だ。

今回の事態で、この国がどこまでもムラ社会であることを思い知らされた。「国政はお上が決めること、私たちは作物の獲れ高だけに気をつけていりゃええ」というのが本質的な国民性であり、基本的に社会で起こることは「他人事」なのである。

これは、為政者にしてもそうだ。唐突な一斉休校にせよ、オリンピックの延期にせよ、マスク配布にせよ、10万円バラマキのバタバタにせよ、すべてが「他人事」なのである。これはイソップ童話の「ロバを売りに行く親子」の話そのもので、どこか他人事だからこそ、ここまで一貫性がない政策が繰り広げられるのである。「他人事」というのは「責任の所在がはっきりしない」ということと近しい。まさに戦争末期の政府中枢部の「決められなさ」と相似形をなしている。

しかし、戦争当時と違うのは、国家の権力の拠り所はやはり国民であるという点だ。しかし、その国民が基本的に「他人事」(大事なことは、みんな国が決めてくれるさ)であるからこそ、この体たらくが定義上、国民の総意の集合であるはずの国政に反映しているということは、しっかりと肝に銘じておかなければなるまい。

***

あれだけ「これ以上外出をすると、緊急事態宣言の期間は伸びるぞ」(意訳)と政府も専門家集団も警告しているのだが、基本的には「他人事」なので、平気で外出をする人々がいる。

■自分が平気なので、スーパーには家族みんなで買い物に行く
■自分が平気なので、車で行くなら大丈夫、と観光スポットに息抜きに行く
■自分が平気なので、(在宅勤務中なのに)ちょっと会社に顔を出す

まるで、「自分はよく見えているので、無灯火で自転車を漕ぐ」が如くの浅はかさである。周りの車から、あなたの自転車は見えていないのだ。ウイルスは、無差別である。

この身勝手な行為が、どれだけ「緊急事態宣言の期間が伸ばされる」ことに寄与しているのか、こういう行動を平気でする人たちは、おそらく誰も気にしていない。

スーパーに集団で行くなど、「三密を実践しています!」を地でいくようなものだ。車で観光スポットに行ったところで、そこにたくさんの人が集まれば、あっという間に「三密」の出来上がり。そして特に「ちょっと会社に顔を出す」クセは深刻で、「FAXを送るから出社しなくては(←Web上でFAXは送れます)」「郵送物があるから出社しなくては(←受け取りは転送できるし、送るのも地元の郵便局を使って清算すればよいです)」「子どもがいて在宅で仕事にならないから出社しなくては(←そういう問題ではない。無理やり工夫して仕事をやりくりしている人のほうが多い)」・・等々、いろいろな理由づけによって、出社がなし崩し的に認められてしまっている様相である。まるで「会社に行くことが正義」とでも言わんばかりに。今は、「会社に行くことが、必ずしも正義にならない」状態になっているというのに。この価値観の転換についていけていない人は、実はとても多い。これが、平日の外出を抑制できていない最大の原因だ。

これも、結局は「他人事」だからなのだ。「私たちは作物の獲れ高だけに気をつけていりゃええ」のである。

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発想を変えよう。

もはや戦時中である。最前線で戦う兵士(医療関係者)を支え、少しでも早く戦争に勝利するよう協力するのは銃後の国民の義務である。敗戦(医療崩壊)は、端的にいえば今の社会の破滅を意味する。

それを防ぐために国民がやるべきことはただ1つ、とにかく「ソーシャルディスタンス」に耐え、1日でも早く事態を収束させることに協力することのはずだ。

長いとはいえ(ものすごく長く感じる)、わずか4週間。「スーパーに行くのは週に1回、1人」とか、「2キロ以上の外出は控え、近所の公園の散歩で済ます」「どんなに不便でも、自宅でできる仕事をする工夫をする」というのが、銃後の国民ができる最低限の社会貢献だろう。

今、目の前の「作物の獲れ高」だけに拘泥すると、もっと先の「将来の作付」にまで影響することに気づかなくなってしまう。今こそ近視眼的思考から脱却し、中長期的視野で「感染拡大収束」への協力をしていきたい。

これでも「関係ない」と言い張るのなら、もっと状況が悪化して「緊急事態宣言」の期間が伸びても政府に文句を言う道理はないし、医療関係者のご厄介になる権利もないし、それこそ経済が崩壊してどうしようもなくなったときに、誰かに助けを求める筋合いすらないとよくよく心得ねばなるまい。

戦時中だ。銃後の国民が前線を支えぬ行動をとって、何になる。「自粛疲れ」などと寝言をぬかしている場合ではない。平和ボケを通り越して、ただの「ボケ」である。


公開:2020年4月19日
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