たまたま開いた「ひらがな認証」が、こうなっていたんです。
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むさしの!
武蔵野!!!
ゆるゆる
たまたま開いた「ひらがな認証」が、こうなっていたんです。
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むさしの!
武蔵野!!!
歴代プリキュアの口癖をまとめてみました。
何をもって「口癖」とするのかは悩むところですが、独断と偏見で入れています。
■『ふたりはプリキュア』(マックスハート含む)
⇒なぎさといえば「ありえなーい」ですよね。初代の風格。
■『ふたりはプリキュア スプラッシュスター』
⇒なぜ急にコロ助化してしまったのか・・・。
■『Yes!プリキュア5』(GOGO含む)
⇒コロ助から、急に女の子っぽくなった感じしますね。さすがプリキュアビジネス中興の祖。
■『フレッシュプリキュア』
⇒これ、口癖の頭文字を全部繋げると「し、あ、わ、せ」なんですよね。すごいパリピっぽいですよね。そもそもこの人たち、どう考えてもスタイルが中学生じゃないですしね。
■『ハートキャッチプリキュア』
⇒マリンには「海より広いアタシの心も、ここらが我慢の限界よ!」もありますが、これはどちらかというと「決め台詞」ですかね。
■『スイートプリキュア』
⇒歴代でも特に、鼻っ柱が強いですよね。強い女性プリキュアといえばキュアメロディって感じです。
■『スマイルプリキュア』
⇒この底抜けにお花畑な感じが、いいですよね。前作の主人公は「女がすたる!」で、今作は「ウルトラハッピー!」ですから。ちなみに私はこの作品、キュア戦士全員がSDキャラになってしまう話と、敵のマジョリーナが交番で普通に道を尋ねる話(警察官はなぜか捕まえないで普通に対応する)が特にお気に入りです。
■『ドキドキプリキュア』
⇒プリキュア主人公史上トップクラスの完璧超人である相田マナですが、口癖はどう考えてもおっさんです。でもそこがいい。
■『ハピネスチャージプリキュア』
⇒昭和感全開で賛否両論あるシリーズですが、どうでしょうか。特にひめの口癖、一周回ってなかなか魅力的な気がしませんか?
■『プリンセスプリキュア』
⇒前作との差がすごい。めちゃめちゃプリンセス感ありますよね。この振幅がプリキュアシリーズの魅力ですね。
■『魔法使いプリキュア』
⇒朝日奈みらい(C.V.高橋李依さん)といえば、『高木さん』ですよね。高木さんがしゃべってると思って見ちゃいますよね(見ない)。この作品、みらいのキャラ、「わくわくもんだぁ」というセリフ、どれをとっても昭和後期から平成初期の「良質な魔女アニメ」感が強くて私はすごく懐かしい感じがするのですが、これは私だけでしょうか。
■『キラキラプリキュアアラモード』
⇒キャラクタも口癖も特盛インフレ状態ですね。いい意味でわちゃわちゃ感がすごい。
■『HUGっとプリキュア』
⇒口癖も含めてラストまでとにかくぶっ飛んだプリキュアでしたね。OPはドラゴンボールっぽいし、EDも(前期・後期ともに)すごいロックでした。めちょっく!#ガムシャラララ、ハピネス一斉送信!
■『スタートゥインクルプリキュア』
⇒宇宙人もプリキュアになる時代ですからね。キラやばーっ☆
■『ヒーリングっどプリキュア』
⇒のどかって、なんか・・いい子ですよね。さすが癒しがテーマのプリキュア。
■『トロピカルージュプリキュア』
⇒ここまで主人公がぶっ飛んでいると、清々しいですよねー!まなつとローラが組み合わさると話がまったく進まなくなるというのが素敵すぎます。トロピカってるー!!
■『デリシャスパーティープリキュア』
⇒人参をかじりながら「わたし、和実ゆい。食べるの大好き中学2年生」とか言いながらオープニングで登場するシーン、冷静に考えると滅茶苦茶シュールですよ。あと、「うむ」とか言う中学3年生はいないと思います。当初は王道のプリキュアシリーズだなぁ、と思っていたのですが、戦わないローズマリーといい、バリバリ闘っちゃうブラックペッパー(服はホワイト)といい、実は信じられないほどぶっ飛んでいるのでは?と思えてきました。
『ピーターラビット』の新訳版と旧訳版とを見比べてみると、いろいろと言葉の違いがあってとても面白い。そして、どちらの訳出も変わらず魅力的だと気づく。
ピーターラビットの話の魅力は、何と言っても「それぞれが、自然に生きている」世界観であろう。すなわち、誰もピーターのために生きていないし、誰もが自由に自分の「生」を謳歌しているというところにある、のだと思う。誰もが主人公である世界観が、独特のピーターラビットワールドを形作ってきたといえるだろう。
これはちょうど、『Dr.スランプ』に感じる気持ちに近い。ペンギン村の住民は、だれもセンベエ博士のために生きていないし、アラレちゃんのためにも生きていない。あかねもタローも、山吹先生も、ただただ、自分のために生きている。だから、生き生きとキャラクターが動いているのである。そもそも『Dr.スランプ』といっておきながら、動いているのはアラレちゃんである。「ピーターラビット」も同様で、別に「ピーター」が全部の話に出ているわけではまったくないのだ。『サザエさん』も類似の構造といえるだろう。
これと対極を成すのが、NHKの朝ドラ『なつぞら』である。これは、主人公の奥原なつの成功のために、(本人の努力ももちろん描かれているが、朝ドラという性質上どうしても)周囲の人が彼女の成功のためのお膳立てをする、というトーンで描かれていた。
主題歌を歌ったスピッツの草野マサムネが、何かのインタビューで、「この歌詞は、主人公ではなく、(居候される側の)夕見子のことを書きました」という趣旨のことを言っていて、私は「やっぱりマサムネって、すげぇ」と思ったことを今でも思い出す。主人公の成功の陰に、それを支えている人たちがいることを忘れるな、というメッセージだ。やはりスピッツはしっかりロックバンドなのである。
有名な「タロとジロの物語」を「南極のペンギンの視点」に逆転させた星新一の怪作『探検隊』を思い出す。ほんらい、何事も「主人公だけ」という視点はあり得ない。様々な視点で描かれてこそ、その物語は厚みを増すのだ。
それはフィクションの世界だけではない。現実世界でも同じである。答えは1つなんかでは、ないのだ。いろんな訳ができるように。